地獄の入り口に立つ赤い実の木①
あっけなく終了した冒険旅行の翌日、しかしオルセは気になっていることがあった。壁の外を見た老人の話だ。話を聞いた場所は、あまり足を運んだことのない場所だったが、オルセの家からそう遠くはなかった。散歩に行ってくると母に告げて家を出たオルセは、昨日聞いた話を頼りに、その付近で老人を探すことにした。
何人かに尋ねてみれば「あの老人か」といった具合で、意外にもあっけなく居場所が判明した。どうやらその辺りでは有名な老人らしい。
オルセはさっそく老人のもとを訪ねた。老人の家は平屋のゆったりした作りで、その入口の前に設えられたカウチに、老いた男性がぼんやりと座っていた。
「こんにちは」
オルセは、つとめて明るく挨拶をしたが、老人から返事はない。
「あの、僕はオルセといいます。少し話を聞かせてもらいたいのですが……」
虚空を見つめたままの老人は、身じろぎひとつしない。
「えっと、その……壁、あなたは壁の外を見たことがあると聞いたのですが、それは本当ですか?」
老人の眉がぴくりと動いた気がした。オルセは続ける。
「もし見たのなら教えてください!壁の外はどうなっているのですか?いったい何があるのでしょう」
しかし、老人は何も答えない。
何度か質問を変えて老人に投げかけてみたが、オルセは何ひとつ答えてもらうことができなかった。
仕方なくその日は引き上げることにしたが、オルセは諦めていなかった。いや、諦められなかったのだ。何としても壁の外の話を聞きたかった。
日を改めては何度も老人のもとを訪れ、ときには母が作った自慢のパイを持っていくこともあった。老人は、食べ物だけには反応するようだったからだ。
ある日オルセは、最近食べごろを迎えたリンゴを手土産に、いつものように老人を訪れた。
「こんにちは、また僕です。今日はリンゴを持ってきました。リンゴはお好きですか?」
オルセはカバンから赤く小さな実をいくつか取り出しながら、いつものように明るい調子で老人に声をかけた。
「うちのは酸味が強くて美味しいですよ?ほのかな甘みもあって……」
そこまで言いかけてオルセは言葉に詰まる。見れば老人が、今までまるで表情すら変えたこともなかったのに、血走った目を大きく見開きリンゴを睨みつけている。
「赤い実……赤い実の木には近づいちゃいかん!蔦の、蔦の絡まったあの木だけは……」
老人が、しゃがれた声を喉の奥から絞り出すように叫ぶ。オルセは初めて聞いた老人の声に目を見張った。
赤い実の木?
老人の家をあとにしながらオルセは考えていた。そういえば老人は、かつて果樹園で働く農夫だったと聞いた。だとすれば、その果樹園にある木の話だろうか……
そこまで考えてオルセは、はっとした。
ずっと前のことですっかり忘れていたが、“赤い実がなる木”にまつわる思い出がオルセにはあったのだ。「蔦の、ザクロの木……そうだ!街のはずれ、小川を越えたところ、高い壁のそばに蔦の絡まったザクロの大きな木があった。」
オルセがまだ幼かったころ、友達と少しだけ冒険気分で遠出をしたことがあった。そのときに、小川を越えた先で蔦が絡まったザクロの大きな木を見つけたのだ。オルセたちがザクロの木によじ登ろうと駆け寄ったところ、たまたま近くを通りかかった大人に注意された。
「その木には近づいちゃいかん!その木には幽鬼が宿っているんだ。」
ぽかんとするオルセたちに向かってその大人は続けた。
「嘘じゃない、昔から言われているのさ。その木に近寄った者は突然いなくなることがある。幽鬼が地獄へ引きずりおろしちまうんだ」
オルセたちはとたんに怖くなり、急いで走って逃げたのだった。
今となってはそんな話もすっかり忘れていた、だけど……
気がつけばオルセは街はずれの小川へと向かっていた。やがて行き着いたその先には、昔見た景色のままに小川と壁、そして蔦が絡まったザクロの大きな古木があった。ザクロの木に、蜷局のように巻き付いた蔦は、蔦というよりは木の枝と表現した方がふさわしいほど太く立派だ。しかし、そこまで太い蔦に絡めとられてもなお、ザクロの木は堂々とそそり立っており、それどころか絡みついた蔦と一体と化した幹は、ザクロの木とは思えないような荘厳たる様子をかもしている。たわわに実った、たくさんの赤く熟れた実は誰にも手をつけられなかったのか、すっかりはじけてしまったものも散見される。
オルセは、そっとザクロの木に触れてみる。特別に変わったことはない。
改めてザクロを見上げた瞬間、どこからともなく風が吹いた。一斉に揺れる木の葉とザクロの実。
そして、オルセは見た。
一斉にざわめく枝葉の中に、1か所だけ揺れていない葉と実があることを。
ゆっくりと回り込み、その場所まで近づく。そろそろと手を伸ばし、揺れていないザクロの実に触れようとした。瞬間、オルセはバランスを崩し、思わず手が宙を泳ぐ。自身の体を支えるためにザクロの木肌に手をつこうとして、しかし
――失敗した。
なぜならその部分だけ無かったのだ、ザクロの木肌が。
大きくバランスを崩したオルセは、そのまま前のめりになって倒れ込む。転ぶ寸前で大きく足を前に出し、なんとか転倒を免れたところではっとする。先ほどまで木があった場所にオルセは立っているのだ。恐る恐る一歩下がるとまた目の前にザクロの木肌が現れる。どうやらこの部分に、ちょうどヒト一人分の幅だけ幻影の木肌があるようだ。
オルセは、そっと一歩前へ進み、再びザクロの木の中へ入る。中は真っ暗だったが、足元に何かあるのを足裏の感覚で捉える。
「扉?」
足元にあるのは何かの持ち手のようであった。オルセはそこに手をかけ、地面に横たわる扉をゆっくりと持ち上げてみた。扉はずっしりと重く、ようやく開いた先に下へ続く階段があるのを確認する。階段の先、下の方は薄明るくなっているようだ。
オルセは、少しだけ恐怖を感じたが、それ以上に勝る強い好奇心に勝てず、ゆっくりと慎重に階段を下りていくことにした。




