第8話 揺らぎの底
第8話 揺らぎの底
いつもの日課を終え、テンムと会話を交わす。
穏やかな日常に戻っているように見えるのに、どこか違う。
テンムの歩くリズムは軽く、視線はいつも天へ向いていた。
症状は安定している――そのはずなのに、胸の奥では不安が静かに膨らんでいく。
「地上に居たいな……」
ふと漏れたテンムの声。
立っているのに、足元が地面に触れていないように見えた。
日課を終えて戻る途中、その言葉が耳に入る。
「私は、下が好きだよ……。リアンがいる場所が落ち着くから」
独り言にしては、誰かと会話しているような響きだった。
中に入って問いただしたいのに、足が止まる。
「上に行くか下に残るかの選択肢があるなら、私は残りたい……」
その言葉が胸に刺さる。
テンムが変わってしまったことを認めるのが怖い。
変わったとしても、隣にいたい――そう思う自分がいる。
けれど、本当に隣にいられるのかという疑問が、一歩を踏み出すのを阻んだ。
胸の引っかかりを抱えたまま、仕事に行くと告げてギルドへ向かった。
◆
ギルドは騒がしかった。
森の奥に“境界”ができ、誰も入れなくなったという噂で持ちきりだ。
魔物の動きは活性化しているが、敵意はないらしい。
ただ、何かが変わっている。
「こういう時こそ調査員の出番だよ」とおだてられ、依頼を受ける。
森に入ると、魔物たちは活発に動いていたが、攻撃的ではなかった。
静かな圧が、いつもより近くに感じられる。
(選ぶのは、2人の意思次第……)
また聞こえた。
声ではないのに、確かに意味だけが伝わってくる。
気にしすぎれば仕事にならない。
そう自分に言い聞かせて調査を続けた。
森の外では《空歩》に異常はなかった。
試しに使うと、以前より高く、安定して足場が生まれる。
だが――
それは“上へ行くため”の安定ではないと直感した。
足場が、テンムのいる方向へ伸びようとしているように感じた。
「事情は分からないけど……テンムが上に行く選択をしても、これで追いついてみせる」
自分に言い聞かせるように呟いた。
調査を終え、森の様子をギルドへ報告し、家へ戻る。
◆
家に着くと、テンムの表情がやけに静かだった。
目の奥に不安が揺れているのに、どこか覚悟のようなものも感じられる。
「ただいま。今日は……何もなかった?」
言った瞬間、胸の奥に冷たい緊張が走った。
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
テンムは一呼吸置き、ゆっくりと上を見上げる。
「決めなきゃいけない時が来る。いつかは……」
そして、上に手を伸ばした。
何かを掴み、登っていくようにも見えた。
その仕草の意味を想像し、問いただしたことを後悔する。
乱れる心を落ち着かせるように窓を見る。
雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。
綺麗なのに、いつ隠れてもおかしくない儚さが、今の日常と重なる。
月は、森の奥と同じ静かな圧を帯びているように見えた。
「……きっと、このままだと追えない。追えないままなら、失う」
リアンの中で、初めて“意思”が言葉になった。




