第1話 婚約者を支える優しさ
森の方角から、理由のないざわつきが肌を撫でた。
朝の家事を終え、洗濯物を干しながら空を見上げる。
晴れた青の向こうに、薄く白い月が浮かんでいた。
その姿がぼんやり見える日は、祈る。
――テンムの病が治りますように。
「月影症……」
月が見える日は、決まって症状が重くなる。
家に戻ると、テンムの頬が赤く染まり、呼吸が浅いことに気づいた。
「……あっ、リアン。また熱が出ちゃったみたい」
「やっぱりか。テンム用の薬は……これだな」
薬を水と一緒に飲ませると、テンムは苦そうに舌を出した。
その仕草が胸を締めつけるほど愛おしい。
「いつもありがとう、リアン。薬も飲んだから、もう大丈夫だよ」
「無理するなよ。素材も残り少ないし、仕事が終わったら採りに行ってくる」
そう言うと、テンムの目が鋭くなる。
「仕事の“後”に行くなら、討伐はダメ。どっちかにして、早く帰ってきてね」
「……わかった。今日は早めに帰るよ」
テンムの視線が静かに告げていた。
――気をつけてね。
手を振られながら家を出る。
外に出るまで何度も振り返り、最後にもう一度だけ家を見た。
テンムが安心して暮らせる家を手に入れるためにも、今日も働かないとな。
頬を軽く叩き、気合を入れる。
◆
ギルドに着くと、依頼ボードの前は朝から人だかりだった。
討伐や護衛依頼は人気だが、俺が探すのは調査依頼。
「これ、お願いします」
受付の女性に依頼票を渡すと、ぱっと表情が明るくなる。
「リアンさん! フォレストウルフの調査、誰も受けてくれなくて困ってたんです。助かります!」
照れくささをごまかしながら書類を受け取り、ギルドを後にする。
◆
森へ向かう途中、門の衛兵に書類とギルド証を見せると、丁寧に挨拶された。
慣れない扱いに少しだけ頬が熱くなる。
森の入口は薄暗く、静寂が深い。
だが嫌な気配はない。
足を止め、耳を澄ませる。
西へ進むと、毛の擦れる音と足音が聞こえた。
「……こっちか」
フォレストウルフの群れを確認し、周囲を一周して調査完了。
帰り道、薬の素材になるフォレストベアに遭遇した。
「テンムは“仕事の後に狩るな”とは言ったけど……任務中に遭遇したら、仕方ないよな」
自分に言い聞かせるように呟き、ナイフを構える。
土の初級魔法《土形成》で小さな板を作り、
風の初級魔法《風膜》でそれを浮かせる。
二つの初級魔法を同時に維持するのは、普通なら無理だ。
だが生活のために毎日使い続けた結果、俺は“二重発動”だけは得意になった。
《空歩》――空中に足場を作り、走る。
風に乗った土の板が、ふわりと前へ滑る。
その上を駆けながら、ベアの死角へ回り込む。
……その瞬間。
「っ……!」
風膜の制御をわずかに誤り、足場が傾いた。
空中で体勢が崩れ、思わず音を立ててしまう。
ベアの耳がぴくりと動き、こちらを振り返った。
――まずい。
振り返りの“隙”を逃すわけにはいかない。
落下しながら、首元めがけてナイフを突き立てた。
刃が肉を裂く感触。
だがベアは即死しない。
怒り狂ったように暴れ、巨大な爪が俺の顔を狙う。
「くっ……!」
ナイフは喉元に刺さったまま。
両手が塞がっていて防御できない。
爪が目に届く――その瞬間。
火の初級魔法《火花》を、至近距離でベアの目に叩き込んだ。
「ガアァッ!」
ベアがのけぞり、爪の軌道が逸れる。
その隙にナイフを引き抜き、胸へ深く突き刺した。
巨体が崩れ落ちる。
息を整える暇もなく、素材の劣化を防ぐために素早く剥ぎ取りを始めた。
《浄化》で血を落とし、袋に収める。
「……危なかった。けど、思ったより素材が少ないな」
もっと欲しい気持ちはあったが、テンムの顔が浮かぶ。
今日は帰ろう。
◆
その時、森の奥で木々が不自然に揺れた。
風ではない。
“何か”がこちらを見ている。
敵意はない。
だが、ただの獣とは違う圧がある。
――「……月の子……呼んで……」
人語に似ているが、どこか“湿った木の軋み”のような響きだった。
正体不明なだけに、これ以上は刺激しない方がいい。
森を離れ、ギルドへ戻る。
◆
「リアンさん、お疲れ様です!」
朝の受付の女性が駆け寄ってきた。
どうやらフォレストベア討伐の噂が広まっているらしい。
初級魔法の重ね掛けが珍しいようだ。
「婚約者が待ってるので、帰ります」
報告を済ませ、報酬を受け取り家へ急ぐ。
素材と報酬をテンムに差し出す。
討伐と依頼の両方がだめだと叱られた。
テンムの「仕事の後に狩るな」を、都合の良いように解釈したのは自分だ。
叱られたのを笑いながら受け流し、薬を飲ませ、そばで休ませる。
今日は完璧とは言えなかったけど、いい一日だった。
あの視線――呼ばれているようにも感じた。
テンムには、この事はまだ話せない。
明日はもう一度、森を見に行ってみるか。
夜空を見上げると、白い月は雲に隠れ、その姿を見せなかった
それでも“呼ばれた”感覚が消えない。




