「今日をもって、私はあなたを愛することをやめます」——三年間尽くした冷徹公爵に見切りをつけたら、溶けたアイスを持って追いかけてきました
「今日をもって、私はあなたを愛することをやめます」
結婚記念日の夜。
銀の燭台が揺らめく食堂で、私——エレノア・ヴァレンシアは、氷の公爵と呼ばれる夫の前に立っていた。
ルシアンは書類から顔も上げない。
三年間、ずっとそうだった。
「……何の話だ」
その声には、何の感情もこもっていない。
当然よね。この人にとって私は、公爵家の体面を保つための道具でしかないのだから。
「聞こえませんでした? では、もう一度申し上げますね」
私はにっこり笑った。
完璧な公爵夫人の微笑みで。
「あなたを、愛するのをやめます」
ようやく、紺碧の瞳がこちらを向いた。
——遅いのよ、三年も経ってから。
「急にどうした」
「急?」
思わず笑いが漏れた。
乾いた、自分でも驚くほど冷めた笑い。
「三年ですよ、旦那様。私がどれだけ——いえ、もういいわ」
テーブルの上には、今年も作ったストロベリーアイス。
淡いピンク色の、甘酸っぱい苺のアイス。
あの夏祭りで、偶然あなたと出会った日。
屋台で買った苺菓子を「美味いな」と笑った、あの日のあなたを追いかけて——私は三年間、毎年このアイスを作り続けた。
「それも下げさせろ。甘いものは嫌いだと言っている」
……ああ、そう。
今年も、同じ言葉。
(知ってた。知ってたけどさ)
胸の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。
不思議と痛くない。
むしろ、すっきりした。
「承知いたしました」
私はアイスの器を持ち上げ、自分の口に運んだ。
一口、二口、三口。
「……何をしている」
「食べてますけど? 捨てるのは勿体ないので」
冷たくて、甘くて、美味しい。
我ながら傑作の出来だと思う。
(この三年、あなたに食べてほしくて研究したんだけどね)
「これ、王都で売ったら絶対流行るのよ」
「……は?」
「独り言です。お気になさらず」
器を空にして、私はスカートの裾を持ち上げた。
最後の、完璧なカーテシー。
「明日から離れの屋敷に移ります。ご報告まで」
「待て。何を勝手に——」
「勝手?」
振り返って、私は微笑んだ。
今度は公爵夫人の仮面なんかじゃない。
「三年間、勝手だったのはどちらでしょうね」
ルシアンが何か言いかけたけど、私は聞かなかった。
扉を閉める直前、彼の顔が一瞬だけ見えた。
——驚愕に染まった、氷の公爵の顔。
(ああ、その顔。三年前に見たかったな)
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、マーガレットが待っていた。
私付きの侍女頭。実家から一緒に来てくれた、たった一人の味方。
「……言えましたか、お嬢様」
「言えたわ」
足が少しだけ震えていた。
でも、心は嘘みたいに軽い。
「マーガレット」
「はい」
「明日から忙しくなるわよ」
私の言葉に、マーガレットは——泣き笑いのような顔をした。
「やっと、やっとお嬢様らしくなりましたね」
「遅すぎたかしら」
「いいえ。今からですよ、全部」
彼女の温かい手が、私の手を握った。
三年間、この屋敷で味方はマーガレットだけだった。
使用人たちは私を無視し、ルシアンの従妹ヴィヴィアンには毎日のように嫌味を言われ、それでも「いつか振り向いてもらえる」と信じて——
(馬鹿だったわ、本当に)
でも、もう終わり。
「行きましょう、マーガレット。新しい人生の始まりよ」
◇ ◇ ◇
同じ頃。
食堂に一人残されたルシアン・ノクターン・アッシュフォードは、空になった器を見つめていた。
「……愛するのを、やめる?」
呟いた言葉は、誰にも届かない。
溶け残ったピンク色の滴が、銀の器の底で揺れている。
——甘い、苺の香り。
ルシアンはその器に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……くだらん」
立ち上がり、食堂を出る。
けれど彼の足取りは、いつもより少しだけ乱れていた。
執務室に戻ったルシアンは、机の引き出しを開けた。
奥の奥に隠された、小さな木箱。
中には——三年分のストロベリーアイスの器が、きれいに並べられていた。
毎年、「甘いものは嫌いだ」と突き返したアイス。
捨てろと命じながら、こっそり従者のフィンに回収させていたアイス。
溶けて、乾いて、器だけになったそれらを——ルシアンは毎晩、こうして眺めていた。
「……馬鹿な真似を」
自嘲するように呟いて、引き出しを閉める。
けれど今夜は、いつものように心が凪がなかった。
「愛するのをやめる、だと……」
——俺を見限る、ということか?
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かがざわついた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
離れの屋敷で目覚めた私は、実に三年ぶりの安眠を味わっていた。
「……最高」
天蓋のない簡素なベッド。
小さな窓から差し込む朝日。
本館の豪華な寝室より、百倍心地いい。
(だって、あの人が隣の部屋にいないんだもの)
結婚初夜から一度も共に過ごさなかった夫。
「公爵家に必要なのは跡継ぎと体面だけだ」と言い放った男。
なのに隣室にいると思うだけで眠れなかったのは、私がどれだけ馬鹿だったかって話よね。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「入っていいわよ、マーガレット」
扉が開いて、侍女頭が朝食のトレイを運んでくる。
——そして、彼女の後ろには。
「あの、エレノア奥様……!」
赤茶の髪をした若い従者。
ルシアンの付き人のフィンだった。
「あら、フィン。おはよう」
「お、おはようございます! その、旦那様からの伝言で……」
「聞かないわ」
「え」
「聞かないって言ったの」
ベッドから降りながら、私はにっこり笑った。
「旦那様にお伝えして。私はもう『完璧な公爵夫人』をやめましたので、命令される筋合いはありません、と」
「ええええ……」
フィンが泣きそうな顔をしている。
可哀想だけど、知らない。
「マーガレット、今日の予定は?」
「午前中に材料の買い出し、午後から工房の改装打ち合わせです」
「完璧ね」
「あの、奥様……!」
フィンがまだいた。
「旦那様、昨夜から様子がおかしくて……執務室に籠もったまま、朝食も召し上がらなくて……」
(へえ)
一瞬だけ、心がざわついた。
でも、すぐに消えた。
「いつものことでしょう? 仕事熱心な方だもの」
「い、いつもと違うんです! 何度も書類を読み直したり、同じ場所を歩き回ったり……」
「動揺してるの? あの氷の公爵様が?」
「は、はい……多分……」
三年間、私が何をしても微動だにしなかった男が?
(——遅いのよ、本当に)
「お伝えして。心配には及びません。私は自分の人生を生きることにしましたので」
「奥様……」
「あと、これ」
私は昨夜のうちに書いておいた書類を渡した。
「離れの屋敷を工房として使用する許可申請よ。領主権限で承認してもらえるかしら」
「工房……ですか?」
「菓子工房。ストロベリーアイスを王都で売るの」
フィンは目を丸くした。
「そ、それは……旦那様が許可するかどうか……」
「許可しないなら、私が持参金で買い取るだけよ? ああ、それとも離縁してくださる? どちらでも構わないわ」
「り、離縁……!?」
真っ青になるフィン。
可哀想に。でも、私は本気だった。
「さあ、お伝えしていらっしゃい」
フィンが転がるように出て行った後、マーガレットが肩を震わせていた。
「お嬢様……いえ、奥様。最高です」
「でしょう?」
私たちは顔を見合わせて、笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
信じられないことに、許可申請は即日承認された。
ルシアンの署名入りで。
「……何考えてるのかしら、あの人」
コメントは一切なし。
ただ、追加予算まで付いていた。
(気持ち悪い……けど、使えるものは使うわ)
「マーガレット、予定通り進めましょう。いいえ、もっと早く」
「畏まりました」
窓の外を見ると、本館の執務室の明かりが見えた。
あそこで、あの人は何を思っているのだろう。
——いいえ、もう考えない。
私は振り返り、工房の設計図に向き合った。
「さあ、始めましょうか」
三年間、心の奥に閉じ込めていた夢。
ようやく、蓋を開ける時が来た。
◇ ◇ ◇
三日後。
アッシュフォード公爵邸の使用人たちは、密かにざわついていた。
「旦那様、また食事を残されたって」
「三日連続よ? 信じられない」
「しかも昨日、廊下で奥様の侍女とすれ違った時——」
「——立ち止まって、何か聞こうとしてたって」
「氷の公爵様が!?」
噂は瞬く間に広がった。
その中心にいたのは、従者のフィンだった。
「フィン、どうなってるの?」
「僕に聞かないでよ……」
厨房の片隅で、フィンは頭を抱えていた。
「旦那様、本当におかしいんだ。昨夜なんて、奥様の寝室だった部屋の前で三十分も立ってたし」
「怖っ」
「怖いよ! 僕も怖いよ!」
でも、フィンには分かっていた。
誰よりも近くで見てきたから。
——旦那様が、毎年あのアイスを捨てずにいたこと。
執務室の机の奥で、溶けるまで眺めていたこと。
(伝われば良かったのに。奥様に、伝わっていれば)
ため息をついた時。
「フィン」
背後から声がして、フィンは三メートルほど飛び上がった。
「だ、旦那様!?」
ルシアン・ノクターン・アッシュフォード。
銀灰色の髪、深い紺碧の瞳、彫刻のような美貌。
——の、下に、くっきりとした隈。
「奥様は……エレノアは、何をしている」
「え、あ、工房の準備を……」
「工房か」
「は、はい……毎日楽しそうにされて……」
言ってから、しまったと思った。
ルシアンの目が、一瞬だけ揺れた。
——傷ついたような、置いていかれた子供のような。
(嘘でしょ、旦那様)
「……そうか」
それだけ言って、ルシアンは踵を返した。
フィンは慌てて追いかける。
「あの、旦那様!」
「何だ」
「奥様に、会いに行かれないんですか?」
足が止まった。
長い沈黙の後、ルシアンは振り返らずに言った。
「……行って、どうする」
「え?」
「何を話せばいい。俺は——」
言葉が途切れる。
「俺は、あいつに何もしてやれなかった」
フィンは息を呑んだ。
氷の公爵が、こんな声を出すなんて。
「三年だ。三年間、俺は……」
「旦那様——」
「分からないんだ」
ルシアンの拳が、白くなるほど握りしめられていた。
「あいつの隣にいるだけで十分だと思っていた。それで伝わると……愚かにも、本気で」
(伝わるわけないでしょ!)
フィンは心の中で絶叫した。
でも、今更言っても仕方ない。
「旦那様。今からでも——」
「エレノア様!」
廊下の向こうから、甲高い声が響いた。
フィンとルシアンが同時に振り返る。
艶やかな黒髪、切れ長の紫水晶の瞳。
華やかなドレスを纏った女性が、離れの屋敷の方向へ歩いていく。
——ヴィヴィアン・アッシュフォード。
ルシアンの従妹にして、エレノアを三年間苦しめてきた張本人。
「ねえエレノア様、お加減はいかが? 離れなんかに引きこもって、可哀想に」
その声には、隠しきれない嘲りが混じっていた。
フィンはルシアンを見た。
——そして、凍りついた。
旦那様の目が、本物の氷のように冷たかった。
◇ ◇ ◇
「エレノア様、本当にこんな場所で何をなさっているの?」
ヴィヴィアンの声は、砂糖菓子のように甘い。
でも中身は、とびきりの毒。
三年間、この声を何度聞いたことか。
「工房を作っているの。見て分からない?」
「工房? まさか、本当にお菓子を売るおつもり?」
紫水晶の瞳が、私を値踏みするように見下ろす。
「公爵夫人が商売なんて、笑われますわよ。ああ、でもエレノア様は商家のお血筋でしたものね」
来た来た。
いつものやつ。
三年前の私なら、俯いて黙っていた。
でも、今は違う。
「ええ、そうよ」
私はにっこり笑った。
「商家の血筋で何が悪いの? 少なくとも、親の七光りだけで生きてる人より余程マシだと思うけれど」
「——っ」
ヴィヴィアンの顔が、一瞬で強張った。
「な、何ですって……?」
「聞こえなかった? では、もう一度——」
「エレノア様!」
彼女が一歩詰め寄る。
私は動かない。
「あなた、自分の立場を分かっているの? ルシアン様に愛されてもいない、哀れな公爵夫人のくせに——」
「愛されてない。そうね、その通りよ」
「え?」
ヴィヴィアンが目を丸くした。
私があっさり認めるとは思わなかったんでしょう。
「だから、やめたの」
「やめた……?」
「愛されようとするの。疲れちゃって」
肩をすくめてみせる。
「でもね、ヴィヴィアン様」
「……何よ」
「愛されなくても、私には私の人生があるの。美味しいものを作って、食べて、幸せに生きる。それで十分」
ストロベリーアイスの試作品を一口食べながら、続ける。
「あなたは? ルシアン様に愛されたとして、その後どうするの?」
「な……っ」
「公爵夫人の座に座って、それで? 何ができるの?」
ヴィヴィアンの顔が、みるみる赤くなっていく。
「あ、あなた……! 私を馬鹿にして……!」
「馬鹿になんかしてないわ。ただ、事実を言っているだけ」
私は工房の設計図を広げた。
「私はこれから忙しいの。お茶の相手は——」
「ヴィヴィアン」
低い、氷のような声。
「——ルシアン様!?」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
——いつの間に。
「る、ルシアン様……! 聞いてくださいまし、エレノア様が酷いことを——」
「黙れ」
一言で、ヴィヴィアンが凍りついた。
私も、正直驚いた。
「ルシアン、様……?」
「エレノアに近づくな」
「え……で、でも、私は従妹として心配を——」
「三年間、お前が何をしてきたか知らないとでも?」
ヴィヴィアンの顔から、血の気が引いていく。
「な……何のことか……」
「使用人を使った嫌がらせ。社交界での陰口。エレノアが着る予定だったドレスを『手違いで』汚した件。全部知っている」
「そ、それは誤解——」
「消えろ」
ルシアンの声は、感情がないほど冷たかった。
「二度とエレノアの前に現れるな。次は容赦しない」
ヴィヴィアンは何か言いかけて、——私を睨みつけて、逃げるように去っていった。
◇ ◇ ◇
残されたのは、私とルシアン。
「……何の真似?」
私は警戒心を隠さずに聞いた。
「真似?」
「今更、私を庇うなんて」
ルシアンが、少しだけ目を伏せた。
——初めて見る、弱々しい表情。
「三年間、何も見ていなかったわけじゃない」
「……は?」
「お前が、どれだけ苦しんでいたか——」
「だったら何で助けてくれなかったの」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「三年よ? 三年間、私は毎日あの女に嫌味を言われて、使用人に無視されて、誰も味方がいなくて——」
「分かっている」
「分かってないわ!」
気づいたら、叫んでいた。
「あなたが一言『妻に手を出すな』と言ってくれれば、全部変わったのに!」
「……」
「何で黙ってたの。何で——」
「怖かった」
……え?
「お前を傷つけるのが、怖かった」
「……意味が分からない」
「俺が関われば関わるほど、お前を傷つける。そう思っていた」
ルシアンの目が、真っ直ぐに私を見た。
「母が出て行った時、俺は——」
言葉が途切れる。
彼の拳が、白くなるほど握りしめられていた。
「……いい、聞きたくない」
「エレノア」
「私、もう決めたの。あなたを愛するのをやめるって」
ルシアンの目が、かすかに揺れた。
——傷ついたような、その目。
(……駄目でしょ、そんな顔されても)
「工房の開店準備で忙しいの。話があるなら、また今度」
「待ってくれ」
「待たないわ」
私は背を向けた。
「三年待ったもの。もう十分よ」
足音が遠ざかるのを聞きながら、私は自分の心臓がうるさいほど鳴っているのに気づいていた。
(……チョロすぎる、私)
あの顔を見ただけで、揺らいでしまうなんて。
◇ ◇ ◇
工房が形になり始めた頃。
予想外の来客があった。
「エレノア、久しぶり」
太陽のような金髪。
翡翠色の瞳。
人懐っこい笑顔。
「……セドリック?」
幼馴染の伯爵、セドリック・ローゼンハイムが、花束を抱えて立っていた。
「噂を聞いてね。公爵夫人が菓子工房を始めるって」
「噂になってるの?」
「王都中の話題だよ」
セドリックは軽やかに工房に入ってきた。
——相変わらず、遠慮がない。
「すごいじゃないか。君が商売を始めるなんて」
「驚いた?」
「いいや、僕は知ってたから」
彼は微笑んだ。
「君が本当はどんな人か。あの冷血公爵は知らないだろうけど」
……来た。
「セドリック、何しに来たの」
「会いたかったから」
「嘘ね」
「嘘じゃないよ」
彼が一歩近づく。
翡翠の瞳が、真剣な光を帯びた。
「エレノア。僕はずっと君を——」
「ストップ」
「え?」
「その先は聞きたくない」
私は試作中のアイスを彼の前に置いた。
「食べて。感想ちょうだい」
「……」
「何?」
「君、変わったね」
セドリックが苦笑する。
「前はもっと、奥ゆかしかったのに」
「三年間の忍耐で全部使い果たしたわ」
「あはは、辛辣だ」
彼がアイスを一口食べる。
翡翠の目が、大きく見開かれた。
「……美味い」
「でしょう?」
「いや、本当に美味い。これ、絶対売れるよ」
「分かってる」
私はにっこり笑った。
「だから工房を作ったの」
「……君は本当に、あの公爵に勿体ない」
セドリックの声が、少し低くなった。
「エレノア」
「何?」
「僕と一緒に来ないか」
◇ ◇ ◇
予想はしていた。
でも、こんなに直球だとは思わなかった。
「僕の領地で、君の工房を開けばいい。全面的にサポートする」
「セドリック——」
「公爵との離縁も、僕が手を回す。君はもう、あんな男に縛られなくていい」
彼の手が、私の手に触れた。
——温かい。
「君を幸せにする。約束するよ」
甘い言葉。
優しい眼差し。
三年前の私なら、泣いて頷いていたかもしれない。
でも。
「セドリック」
「何?」
「あなた、私のこと好きなの?」
「もちろん」
「嘘ね」
彼の目が、一瞬だけ揺れた。
「君が好きなのは、『手に入らなかった私』でしょう?」
「……何を——」
「ルシアンから奪い取れたら、満足する。違う?」
セドリックが黙った。
——図星か。
「私ね、もう『誰かのため』に生きるのはやめたの」
「エレノア——」
「自分のために生きる。自分の店を持って、自分の力で成功する」
私は彼の手を、そっと外した。
「あなたの保護なんか、いらないわ」
セドリックは、しばらく黙っていた。
そして——ふっと笑った。
「……参ったな。本当に変わった」
「残念だった?」
「正直、ちょっとね」
彼は花束を置いて、立ち上がった。
「でも、僕は諦めないよ」
「……」
「君が幸せになるまで、見届ける。それが僕のやり方だ」
去り際、彼は振り返った。
「一つだけ、教えてあげる」
「何?」
「君の旦那様、今すごく焦ってるよ。僕が来たって知ったら、もっと焦るだろうね」
——嫌な笑顔。
セドリックが去った後、マーガレットが現れた。
「お嬢様。本館から、旦那様がいらっしゃるそうです」
「……早いわね」
「ローゼンハイム伯爵がいらしたのを、見ていたようで」
私は深くため息をついた。
「面倒くさい……」
けれど、心臓はまた、うるさく鳴り始めていた。
◇ ◇ ◇
「ローゼンハイムが何の用だ」
ルシアンの第一声がそれだった。
相変わらず挨拶もなし。三年経っても変わらない。
「仕事の話よ。私の工房に投資したいって」
「断れ」
「何で?」
「あの男は信用できない」
私は肩をすくめた。
「もう断ったわよ。あなたに言われなくても」
ルシアンの表情が、かすかに緩んだ。
——一瞬だけ、安堵したような顔。
(……何なの、本当に)
「でもセドリックの言う通り、投資は必要なの。王都で本格的に売り出すには、資金が足りないわ」
「俺が出す」
「は?」
「必要な額を言え。全部出す」
私は思わず彼の顔を見つめた。
——本気だった。
「……何企んでるの」
「何も」
「嘘。あなたが理由もなく金を出すわけない」
「理由はある」
「何?」
「お前が、俺以外から支援を受けるのが気に入らない」
は?
「……それ、理由になってないんだけど」
「なっている」
「なってない」
「お前は俺の妻だ」
「名ばかりのね」
ルシアンの目が、揺れた。
「……そうだな」
「ええ、そうよ。三年間、夫婦らしいこと何一つ——」
「毎年」
「え?」
「毎年、お前が作ったアイスを」
彼の声が、かすれた。
「捨てられなかった」
……何を、言って?
「執務室の机の奥に、しまっていた。溶けるまで、ずっと見ていた」
「な……」
「甘いものは嫌いだ。今も、本当にそう思っている」
ルシアンの拳が、震えていた。
「でも、お前が作ったものだけは——捨てられなかった」
頭が真っ白になった。
三年間。
毎年。
私のアイスを。
「何で……何で食べてくれなかったの」
「食べたら」
「食べたら?」
「お前を、好きになると思った」
……は?
「母が出て行った日、俺に菓子をくれた」
「……」
「『これを食べて待っていて。すぐ戻るから』と。——戻ってこなかった」
私は言葉を失った。
「甘いものを受け入れたら、また裏切られる。そう思って——」
「馬鹿じゃないの」
気づいたら、声が出ていた。
「馬鹿よ、あなた。最高に馬鹿」
「……」
「お母様と私は違う。私は——」
言いかけて、止まった。
——私は、どうなの?
「……いいわ」
「何が」
「その話、もう終わり」
「エレノア——」
「聞いたから。事情は分かった」
私は深呼吸した。
「でも、だからって許すわけじゃないから」
「……」
「三年分の苦しみは、事情を聞いただけで消えたりしない」
ルシアンが、まっすぐに私を見た。
——傷ついたような、縋るような目。
「どうすれば、許してもらえる」
「……分からない」
「教えてくれ。何でもする」
「何でも?」
「ああ」
私は少し考えて、言った。
「じゃあ、見ていて」
「……見る?」
「私が成功するところを。自分の力で、王都一の菓子職人になるところを」
ルシアンの目が、かすかに見開かれた。
「その時まで、邪魔しないで。支援もいらない」
「しかし——」
「私は、あなたに守られる『お姫様』じゃないの」
私はまっすぐに彼を見返した。
「対等に、隣に立てる人間になる。だから——待ってて」
言ってから、気づいた。
——私、何言ってるの?
「い、今のなし! 忘れて!」
「忘れない」
「忘れてってば!」
「一生、覚えている」
ルシアンの目が、初めて——本当に初めて、柔らかく笑っていた。
「待つ。お前が隣に来てくれるまで、いくらでも」
私の顔が、みるみる熱くなる。
(チョロすぎる……私、本当にチョロすぎる……!)
◇ ◇ ◇
それから一ヶ月。
『アッシュフォード公爵夫人のストロベリーアイス、社交界で大評判!』
『王都一の菓子店と名高いミルフォード商会を超える人気か?』
『貴族令嬢の間で「エレノア様のアイス」を食べるのが最新の流行に』
新聞の見出しが、連日私の工房を取り上げていた。
「お嬢様、本日も完売です」
「ありがとう、マーガレット」
離れの屋敷を改装した小さな工房。
最初は物珍しさで来た客も、一度食べれば虜になった。
「甘すぎず、酸っぱすぎず、後味が爽やか」
「こんなアイス、食べたことない」
「公爵夫人が自ら作っているなんて、素敵」
口コミが口コミを呼び、今では予約が三ヶ月待ち。
王都中の貴族が、私のアイスを求めて列を作っていた。
「信じられないわ、本当に」
試作品を食べながら、私は呟いた。
「お嬢様の実力ですよ」
「半分はマーガレットのおかげよ。経営を任せきりにしてるもの」
「私は帳簿をつけているだけです。味を作っているのはお嬢様です」
そう言って、マーガレットは誇らしげに微笑んだ。
「お祖母様も、天国でお喜びでしょう」
——お祖母様。
商家出身で、菓子作りの名人だった人。
私に全てを教えてくれた人。
「そうね、きっと」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
予想外の客が来た。
「エレノア様」
見覚えのある、傲慢な声。
ヴィヴィアン・アッシュフォードが、工房の入り口に立っていた。
「あら、ヴィヴィアン様。お久しぶり」
「……」
彼女の顔色は、以前より悪かった。
艶やかだった黒髪も、どこか精彩を欠いている。
「何か御用?」
「……一つ、売ってちょうだい」
「え?」
「アイス。一つ、売って」
私は目を丸くした。
「……予約は三ヶ月待ちよ?」
「知っているわ」
「お金を積んでも無理よ?」
「分かっているわ!」
ヴィヴィアンが、悔しそうに唇を噛んだ。
「でも……明日の茶会で、必要なの」
「茶会?」
「ベリンダ侯爵夫人の。あの方のお気に入りが、あなたのアイスで……」
ああ、なるほど。
ベリンダ侯爵夫人といえば、社交界の女王。
彼女に気に入られなければ、貴族令嬢としての地位が危うい。
「私のアイスがないと、招待されないの?」
「……そうよ」
屈辱に顔を歪めながら、ヴィヴィアンは認めた。
「あなたのアイスがなければ、私は社交界で笑い者になるの。分かる? 三年間、あなたを馬鹿にしてきた私が」
皮肉な話だった。
三年間、私を見下してきた女が、今度は私に頭を下げている。
「……一つだけよ」
「え?」
「特別に、一つだけ売ってあげる」
ヴィヴィアンの目が、大きく見開かれた。
「な……何故?」
「何故って……」
私は肩をすくめた。
「復讐なんか、興味ないもの」
「……」
「私はただ、美味しいものを作って、幸せに生きたいだけ。あなたを苦しめても、何も得られないわ」
ヴィヴィアンが、呆然と私を見つめた。
「でも、一つだけ約束して」
「……何?」
「もう二度と、私を『商家の成り上がり』って呼ばないこと」
「……」
「私は商家の血を誇りに思ってるの。だから——」
私は微笑んだ。
「馬鹿にされるのは、もう御免よ」
ヴィヴィアンは長い間黙っていた。
そして——小さく頷いた。
「……分かったわ」
「よろしい」
アイスを渡すと、彼女はお金を置いて、足早に去っていった。
振り返らなかった。
でも、その背中は、少しだけ小さく見えた。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、よろしかったのですか」
マーガレットが複雑そうな顔で聞いた。
「いいのよ。恨みを引きずっても、重いだけだもの」
「……お嬢様は、お優しい」
「優しくないわ。ただ——」
私は窓の外を見た。
本館の方向。
あの人がいる場所。
「前に進みたいの。過去に足を取られてる暇はないわ」
その時、フィンが駆け込んできた。
「奥様! 大変です!」
「どうしたの?」
「王宮から使者が来ています! 奥様の工房を、王室御用達に認定したいと……!」
私は、アイスを落としそうになった。
◇ ◇ ◇
王室御用達の認定式。
場所は、王宮の大広間。
王家主催の夜会で行われると聞いた時、私は正直、目眩がした。
「王宮、よ? 王宮」
「はい、王宮です」
「私が、王宮で……?」
「奥様、落ち着いてください」
フィンが慌てて水を持ってきた。
「大丈夫よ……大丈夫……」
全然大丈夫じゃなかった。
◇ ◇ ◇
夜会当日。
私は苺色のドレスに身を包み、王宮の大広間に立っていた。
(……すごい)
シャンデリアの光が、宝石のように輝いている。
貴族たちが優雅に談笑し、オーケストラの音楽が流れている。
三年前、田舎の子爵令嬢だった私には、夢のような光景。
「エレノア様!」
「おめでとうございます!」
「お話を聞かせてくださいまし!」
貴婦人たちが、次々と私に声をかけてくる。
三年前なら、誰も見向きもしなかったのに。
(人って、変わるものね……)
苦笑しながら応対していると、視線を感じた。
振り返ると——ルシアンがいた。
黒の正装に身を包んだ、銀灰色の髪の美丈夫。
氷の公爵と呼ばれる男。
——私の、夫。
目が合った。
彼は何か言いたげだったけど、すぐに人混みに消えた。
(何よ、あれ)
◇ ◇ ◇
認定式が始まった。
「本日、王室御用達として認定するのは——」
王の侍従が、高らかに読み上げる。
「アッシュフォード公爵夫人、エレノア・ヴァレンシアの『苺氷菓工房』である」
拍手が起こった。
私は緊張しながら、壇上に上がった。
「エレノア殿。何か一言あれば」
「は、はい……」
私は深呼吸した。
「私は、商家の血を引く者です。貴族の世界では、それを恥じるべきだと言われてきました」
広間が、少しざわついた。
「でも、私は誇りに思っています。お祖母様から受け継いだ、菓子作りの技術を。人を幸せにできる、この力を」
私は胸を張った。
「これからも、美味しいお菓子を作り続けます。皆様の笑顔のために」
拍手が、さっきより大きくなった。
——やった。
その時。
「待ってくれ!」
広間の入り口から、声が響いた。
全員が振り返る。
銀灰色の髪を乱した男が、走ってきた。
手に何かを持って。
——溶けかけの、ピンク色のアイス。
「る、ルシアン……?」
彼は人混みをかき分け、壇上に駆け上がってきた。
侍従が止めようとするけど、無視。
「な、何をして——」
「エレノア」
ルシアンが、私の前に立った。
息を切らして、目の下に隈を作って。
——でも、目だけは真っ直ぐだった。
「これを」
差し出されたのは、溶けかけのストロベリーアイス。
——私の、作品。
「三年分、全部食べる」
「……は?」
「甘いものは嫌いだ。今でもそう思っている」
彼の声が、震えていた。
「でも、お前が作ったものなら——食べられる」
「ルシアン……」
「だから」
彼が、一口食べた。
溶けかけた、甘い苺のアイスを。
「——っ」
顔を歪めた。
本当に甘いものが苦手なんだ、この人。
でも、彼は飲み込んだ。
「俺の隣に、戻ってくれ」
広間が、静まり返った。
全員が、息を呑んで見つめている。
「ルシアン、あなた——」
「お前がいないと、俺の全部が溶ける」
「……何それ」
「分からない。でも、本当にそうなんだ」
彼の目が、まっすぐに私を見ていた。
——氷の公爵とは思えない、熱い目。
「三年間、ずっと傍にいてくれたのに。何もできなくて、すまなかった」
「……」
「これからは違う。お前が望むなら、何でもする」
「何でも?」
「ああ。毎日アイスを食べてもいい。甘いものに埋もれてもいい」
私は、呆れて笑ってしまった。
「……溶けてるわよ、それ」
アイスを指さすと、ルシアンは困ったような顔をした。
「……どうすればいい?」
「知らないわよ」
「教えてくれ」
「自分で考えて」
「考えた。結論は、お前が必要だ」
「——っ」
不意打ちだった。
心臓が、痛いくらい跳ねた。
「チョロい……私、本当にチョロすぎる……」
「何?」
「何でもない!」
私は深呼吸した。
「いい? 一つだけ約束して」
「何でも」
「私のこと、『守る』とか『助ける』とか言わないで」
「……」
「私は、あなたの隣に立ちたいの。対等に。だから——」
私は彼の手から、溶けたアイスを受け取った。
「一緒に、歩いてくれる?」
ルシアンの目が、大きく見開かれた。
そして——生まれて初めて見るような、柔らかい笑顔を浮かべた。
「ああ。どこまでも」
広間に、割れんばかりの拍手が響いた。
片隅で、フィンが感動のあまり号泣していた。
「主人が……主人が人前でアイス持って走るなんて……!」
「フィン、鼻水」
「す、すみません……!」
◇ ◇ ◇
夜会の後。
馬車の中で、私とルシアンは向かい合って座っていた。
「……あなた、本当に何考えてたの」
「何が」
「あんな大勢の前で、溶けたアイス持って走ってくるなんて」
「必死だった」
「見れば分かるわよ」
ルシアンの礼服は、アイスのシミだらけだった。
氷の公爵の威厳もへったくれもない。
「……笑っているな」
「笑ってないわ」
「笑っている」
「笑ってない」
「……嬉しそうだ」
私は顔を背けた。
「……ちょっとだけ」
「何?」
「ちょっとだけ、嬉しかったわよ」
ルシアンの目が、輝いた。
——犬か、この人は。
「でも、許したわけじゃないから」
「分かっている」
「これからも、工房は続けるから」
「ああ」
「あなたより仕事を優先することもあるから」
「構わない」
「毎日甘いもの食べさせるから」
「……努力する」
私は思わず吹き出した。
「何だ」
「いえ、あなたが『努力する』なんて言うと思わなくて」
「お前のためなら、何でもすると言った」
「……本気?」
「本気だ」
ルシアンの手が、私の手を取った。
——冷たいと思っていた手は、意外に温かかった。
「エレノア」
「何?」
「好きだ」
……不意打ちは卑怯でしょ。
「聞こえなかったふりをする」
「好きだ」
「聞こえない」
「愛している」
「やめて」
「三年分、全部言う」
「やめてってば!」
顔が熱い。
耳まで真っ赤になってる自信がある。
「……ルシアン」
「何だ」
「私も」
「……?」
「私も、まだ——好き、かもしれない」
沈黙。
「……聞こえなかった」
「嘘でしょ!?」
「もう一度言ってくれ」
「言わない!」
「頼む」
「絶対言わない!」
ルシアンの顔が、近づいてきた。
「言ってくれたら、毎日アイスを食べる」
「……本当に?」
「本当だ」
「三食?」
「……二食で頼む」
「一食半」
「一食」
「交渉成立」
私たちは顔を見合わせて、笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
初めて、二人で同じ部屋で眠った。
ルシアンは、私を抱きしめたまま離さなかった。
——子犬みたいに。
「重い」
「我慢してくれ」
「腕、痺れる」
「我慢してくれ」
「……甘えたがりなの?」
「お前にだけだ」
私は呆れながらも、彼の髪を撫でた。
銀灰色の、柔らかい髪。
「……三年、損したわ」
「すまない」
「でも、これからがあるから」
「ああ」
「絶対、償ってよね」
「一生かけて」
ルシアンの腕に、力がこもった。
「エレノア」
「何?」
「幸せにする」
「自分でなるわ」
「なら、隣で見ていていいか」
「……いいわよ」
私は目を閉じた。
甘い苺の香りが、かすかに漂っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「旦那様が、朝からアイスを召し上がっている……!」
「嘘でしょ!?」
「し、信じられない……!」
使用人たちの悲鳴が、屋敷中に響いた。
「エレノア、甘い」
「我慢して」
「……努力する」
むすっとした顔でアイスを食べるルシアンを見て、私は笑った。
「ねえ、ルシアン」
「何だ」
「来年の結婚記念日も、アイス作るわね」
「……覚悟している」
「再来年も」
「ああ」
「十年後も、二十年後も」
ルシアンが、ふっと笑った。
「楽しみにしている」
私は彼の頬についたアイスを、指で拭った。
「——私も」
氷の公爵と、苺アイスの公爵夫人。
私たちの物語は、ようやく本当の始まりを迎えた。
◇ ◇ ◇
——後日談。
ヴィヴィアンは社交界での立場を失い、田舎の領地で「療養」することになった。
セドリックは「負けたよ」と笑って身を引き、私の工房の常連客になった。
(ルシアンは毎回睨んでいるけど)
マーガレットは工房の経営責任者に昇進し、毎日忙しそうに帳簿をつけている。
フィンは相変わらずおっちょこちょいだけど、「旦那様が幸せそうで良かった」と泣いていた。
そして私は——
「エレノア」
「何?」
「今日のアイスは」
「まだ朝よ?」
「……待てない」
「我慢して」
「……」
「その顔やめて。犬みたい」
「犬でいい。お前の犬になる」
「いらないわよ!」
——毎日、甘くて騒がしい日々を送っている。
三年間の苦労は、まだ完全に消えたわけじゃない。
でも、これからゆっくり、埋めていけばいい。
私は私の人生を生きる。
彼は、その隣にいる。
——それで、十分だ。
「ルシアン」
「何だ」
「愛してる」
「……っ」
「聞こえなかった?」
「聞こえた」
「なら、返事は?」
「……お前の方がチョロい」
「それ返事じゃないでしょ!」
笑い声が、朝の屋敷に響いた。
甘い苺の香りと一緒に。




