第九話:生意気な相棒
視界が切り替わっていた。
さっきまで私を閉じ込めていた、狭いコックピットの薄暗がりも、無数の計器が放つ緑や赤の光も、すべてが消え失せた。
代わりに、そこにあったのは。
青。
どこまでも、どこまでも続く、吸い込まれそうなほどの、深い青。
眼下には、白い綿のような雲が、まるで絨毯のように敷き詰められている。
私は、今、空にいた。
あの格納庫の白々しい照明の下ではなく、本物の雲よりも高い空、ど真ん中に放り出されていた。
「いやあああああああっ!?」
ドンッ! という衝撃はなかった。
ただ、体が、ふわりと浮き上がるような感覚。
お腹の底が、ひゅっ、と冷たくなる、あの嫌な感じ。
落ちる!
私は、自分が今、とんでもない高さから、真っ逆さまに落ちているのだと、瞬時に理解した。
公爵令嬢としての、あの優雅な日々の中で、こんな感覚、味わったことなんて、一度もない!
「な、なんなのよこれはー!」
私は、目の前の操縦桿を、ただ、がむしゃらに握りしめた。
これが、あの生意気な『声』の言っていた、『仮想空間』?
模擬訓練ですって!?
こんな、本物と区別がつかないような場所で、いきなり!?
『……やかましいぞ、お嬢様。喚くな。うるさいぞ』
その声は、スピーカーからではなかった。
昨日、私を散々こき下ろした、あの傲岸不遜な男の声。
イーグル。
私の頭の中に、直接、響いてきやがった。
「あなたねえ! いきなり、こんな場所に放り出して、何を考えているのよ!」
『何を、と言われてもな。これは、貴公のマスター……いや、私のマスターである、あの女の命令だ』
「シビルが……!」
あの子供、絶対に面白がっているわね!
私が、この訳の分からない状況で、パニックになっている様を、あの『管制室』の『玉座』から、ニヤニヤしながら眺めているに違いない!
『ふん。ようやく、状況を理解したか。……ならば、やってみるがいい』
「やってみる……? 何をよ!」
『決まっているだろう、素人。……『操縦』だ』
イーグルの『声』には、私を試すような、いやらしい響きがこもっていた。
『貴公は、私の『乗り手』になるのだろう? ならば、この私を、その貧弱な両手で動かしてみせろ』
「そ、素人……!」
カチン、ときた。
その生意気な『声』に、ここまで馬鹿にされて、黙っていられる私ではない。
「上等じゃないの……!」
私は、操縦桿を握る手に、ぐっ、と力を込めた。
「やってやろうじゃないの!私の実力を、見せてあげるわ!」
『ほう?あの田舎王国の公爵令嬢は、鋼鉄の竜の操縦まで、嗜みとして学ぶのか。それは、初耳だな』
「うっ……! そ、それは……!」
言葉に詰まる。
当たり前だ。
公爵令嬢として、これまで私が学んできたのは、歴史学、政治学、帝王学。そして、社交ダンスと、高等魔法理論。
戦闘機の操縦方法なんて、知るわけがない。
でも。
私には、あの『日本』の記憶がある!
あの世界では、軍人ではなくても、多くの人間が『鉄の箱』を運転していた。
そう、『車』よ!
私も、あの記憶の中では、免許とかいうものを持っていて、鉄の箱を自分で運転していたはず!
きっと、あれと、似たようなものよ!
「……見てなさい」
私は、目の前に広がる、どこまでも続く青空と、眼下の白い雲海を睨みつけた。
このまま、まっすぐ落ちているわけではないらしい。
機体は、不思議と、空中で安定している。
まるで、見えない何かに支えられているみたいに。
……これが、イーグルの『力』だというの?
いいわ。
だったら、まずは、曲がってみましょうか。
前世の記憶を必死に呼び起こす。
『車』は、丸い『ハンドル』とかいうものを、回して曲がっていた。
だったら、これは?
この右手に握っている、棒――『操縦桿』。
きっと、これを、曲がりたい方向に倒せばいいのよ!
「……まずは、右よ!」
私は、公爵令嬢らしからぬ、荒々しい掛け声と共に、その操縦桿を、体重をかける勢いで、右側へと力任せに傾けた!
ガチッ、ガチッ!
プラスチックのような硬い『操縦桿』が、私の力に抵抗して、わずかに軋むような音を立てる。
だが。
シーン……。
目の前の光景は、変わらない。
機体は、相変わらず、まっすぐ、前へと進んでいる。
……あれ?
「な、なんでよ……!?」
「……何をしている、お嬢様」
イーグルの『声』が、心底、呆れた、という響きで、私の頭に響いた。
「な、何って……! 操縦よ! 右に曲がろうと、しているの!」
「その『操縦桿』を、力任せにガチャガチャと動かして、か?」
「そ、そうよ! 車は、こうやって、動かすものだわ!」
『クルマ?』
イーグルが、初めて聞く単語に、怪訝な『声』を出した。
『……ああ、あの地上を這いずり回る、四つの車輪がついた、鉄の箱か。……なるほどな。貴公の『前世』とやらの記憶は、その程度の、原始的な代物か』
「げ、原始的ですって!?」
『ふん。……いいだろう。貴公が、その『原始的な』やり方で、この私を動かせると思っているのなら、好きにするがいい』
イーグルの『声』が、ふっ、と、途切れた。
いや、違う。
さっきまで、私を支えていた、あの『見えない力』。
それが、スッ、と消え失せた。
「え…………?」
次の瞬間。
ゴオオオオオオオオオッ!
「きゃあああああああああっ!?」
私の体が、座席に、強く、押し付けられる!
違う!
さっきまでの、あの緩やかな浮遊感じゃない!
機体が、今、機首を、まっすぐ、下に向けて。
眼下の、あの白い雲海に向かって、突っ込んでいる!
落ちてる!
今度こそ、本当に、真っ逆さまに、落ちている!
耳元で、空気を切り裂く、すさまじい音が、轟音となって、鳴り響いている!
「な、なにしやがるのよ! イーグル!」
『何もしていない。……貴公が、何もしないから、私が、機体を支えるのを辞めただけだ』
「なんですって!?」
『重力、というものを、知っているか? お嬢様。……この鋼鉄の体は支えがなければ、こうやって、地面に落ちるようにできている』
「そ、そんなこと、知ってるわよ! だ、だから、早く、支えなさいよ!」
『なぜ、私が? 貴公が、操縦するのだろう?』
イーグルの『声』は、どこまでも冷静で、そして、楽しんでいる。
こいつ……!
私を、墜落させる気だわ!
「う、動け! 動けえええええっ!」
私は、もうパニックだった。
右手の操縦桿をガチャガチャ! と、前後に、左右にメチャクチャに振り回す!
左手の『レバー』も、前後に、力任せにスライドさせる!
「上がれ! 上に、上がりなさいってば!」
だが、機体は、ピクリとも反応しない。
ただ、無慈悲に。
速度を上げながら。
眼下の雲海の、さらに下にあるであろう、『地面』に向かって、突き進んでいく!
ゴオオオオオオオオオッ!
風切り音が、さらに甲高くなる。
機体が、ガタガタと小刻みに揺れ始めた。
これが、あの前世の記憶で聞いた、『失速』というやつなの!?
速すぎる!
怖い!
「いやあああああっ! 死ぬ! 死んじゃうわよ!」
『当然だ。何もしていないのだからな』
イーグルの『声』は、まるで、他人事のように、冷ややかに、そう呟いた。
眼下の雲が、もう、すぐそこまで迫っている。
あの白い綿の中に、突っ込む!
私は、ギュッ、と目をつぶった。
ドンッ!
という、衝撃を覚悟した。
だが。
衝撃は、来なかった。
代わりに。
プツン。
と、何かの電源が切れたかのように。
私の視界が、一瞬で、真っ暗になった。
あの、すさまじい轟音も、機体の揺れも、何もかもが消え失せた。
「…………は?」
私が、恐る恐る、目を開けると。
そこは、さっきまでの真っ青な空ではなかった。
「……ここ、は」
白々しい照明。
無機質な金属の壁。
目の前には、沈黙した、無数の『計器』。
私は、格納庫にいた。
あの鋼鉄の竜の、狭いコックピットの中に戻っていた。
「…………」
私は、荒い息を必死に整えようとした。
「はあっ……!はあっ……!はあっ……!」
ジャージの背中が、じっとりと、冷たい汗で濡れている。
今のは……?
夢?
いや、違う。
あの、落ちていく時の、内臓がひっくり返るような、あの不快な感覚。
あれは、あまりにも生々しすぎた。
「今……私、死んだ……?」
私の、かすれた声が、静まり返ったコックピットに響いた。
その時。
『……死なない。仮想空間だからな』
スピーカーから、シビルのどこか楽しそうな声が聞こえてきた。
『ふむ、面白いデータだ。被験者の精神的負荷、最大値を記録。……墜落直前で、心拍の急激な上昇。……なるほどな』
「ひ、被験者ですって!?」
私は、スピーカーに向かって、叫び返した。
「あなた! 私が、どれだけ、怖い思いをしたと、思っているのよ!」
『怖い? なぜだ? 仮想空間だと、最初から説明しただろう。……ああ、そうだ。お前の『恐怖』という感情が、魔力にどう影響するか。それも、貴重なデータだ。……よし、イーグル。もう一度、だ』
「ま、まだやるの!?」
『当たり前だ。私の貴重な研究時間が無駄になるだろう。……今度は、もう少し、高度を上げてから、突き落としてみろ。落下時間の延長による、精神的影響の変化を測定する』
「あなた、悪魔……!」
あの子供、本気で、私を『研究素材』としか、思っていない!
『……チッ。マスターも悪趣味な』
今度は、私の頭の中で、イーグルが忌々しそうに呟いた。
「あなたも、よ!いきなり手を放すなんて、どういうつもりなの!」
『だから言っただろう、素人』
イーグルの『声』が、私を、心の底から馬鹿にするように響いてきた。
『その操縦桿は、物理的に動かすものではない、と』
「じゃあ、なんなのよ! どうやって、これを動かせっていうの!」
『……はあ』
イーグルが、深々と、ため息をついた(ように、私には感じられた)。
『貴公は、赤子か? ……いいか、よく聞け、お嬢様。……その『操縦桿』も、『スロットル』も、貴公が、その貧弱な腕力で、ガチャガチャと、振り回すためのものではない』
「じゃあ……!」
『それは、貴公の『思考』……その貧弱な飛行へのイメージを、この私に伝達するための『補助装置』に過ぎん』
「し、思考……? 思考で、ですって?」
私は、呆然と、右手に握られた操縦桿を見つめ直した。
これを動かすんじゃない。
ただ、考える、と?
「そんな、馬鹿な……!」
『馬鹿な、ではない。……アステル王国の原始的な『竜騎士』どもは、どうしている?』
「竜騎士……?」
『そうだ。奴らは、あのトカゲどもと、魔力で『契約』し、意思を通わせているのだろう? ……それと、同じことだ』
「同じ……?」
『いや、違うな』
イーグルは、自分で、自分の言葉を訂正した。
『あんな、生臭い獣の機嫌を伺うような、原始的な『同調』ではない。……この空の絶対的な覇者たる、私と貴公のリンクは、もっと、直接的で絶対的だ』
「…………」
『貴公は、ただ、イメージしろ。……『右に曲がりたい』『上に昇りたい』と。……そう、強く、念じるだけでいい』
「念じる……だけ」
『そうだ。貴公の貧弱な『思考』を、この私が読み取り、この鋼鉄の翼に反映させてやる。……貴公がやるべきは、それだけだ』
イーグルは、冷たく、そう言い放った。
思考で操縦する。
もしかして、その思考とやらは、空を飛ぶことができない人類にとって、かなり難しいことなのでは?
「……納得いかないわ」
私が、そう呟くと。
『……ふん。貴公が、納得しようが、しまいが、事実は事実だ』
イーグルは、冷酷に、突き放した。
『どれだけ、貴公が、その原始的な『常識』に、縛られていようが、知ったことではない。……ここでは、この私と、マスターの『ルール』が、全てだ』
「くっ……!」
言い返せない。
現に、私は、さっき、この『ルール』を知らなかったせいで、無様に、地面に叩きつけられたも同然の目に遭ったのだから。
私が、悔しさに、唇を噛み締めていると。
コックピットのスピーカーから、シビルの、どこか退屈そうな声が、割り込んできた。
『……おい!無駄口は、そこまでだ。……私の貴重な『研究時間』が、お前たちの非生産的な口論で奪われていくのは、無駄だ』
「なっ……! これは、操縦に必要な議論で……!」
『議論は、不要だ。……行動で示せ』
シビルの冷たい声。
『コレット。お前の前世の常識が、ここでは、どれだけ無力か。……イーグル。お前が、どれだけ、この『素人』に、イラついていようが、知ったことではない』
シビルは、そこで、一度、言葉を切ると。
まるで、判決を言い渡すかのように、告げた。
『……二人とも、私の『研究』にとっては、等しく、『興味深い研究素材』でしかないのだからな』
「そ、素材……!」
『……チッ』
私と、イーグル(の『声』)が、同時に、反発の声を上げた。
気が合う、なんて、絶対に認めたくないけれど。
この瞬間だけは、あの『管制室』にいる、悪魔のような子供に対する、怒りの感情だけは、一致していた。
『さあ、実験を続行するぞ』
シビルは、私たちの反発など、まるで意に介さず、無慈悲に、そう宣言した。
「ま、待ちなさい!心の準備が……!」
『……仕方あるまい。マスターの命令だ』
私の頭の中で、イーグルが、心底、うんざりした、という『声』で呟いた。
『……いいか、お嬢様。次こそは、少しはマシな『思考』をしてみせろ。……さもなくば』
イーグルの『声』が、楽しそうに、低く、響いた。
『――何度でも、地面に叩きつけてやる』
「なんですってえええええええ!?」
私の絶叫が、コックピットに響き渡るのと。
再び、私の視界が、あの真っ青な、空のど真ん中に放り出されたのは。
まったく、同時のことだった。




