第六話:未知の基地と魔女
死との対峙――。
目の前の巨大な狼型の魔獣が、私という哀れな獲物にとどめを刺すために、様子を伺っている。
泥と血にまみれ、二つの記憶に頭をかき乱され、最後は獣の餌食。
なんと、みじめな。
みじめで、哀れな最後。あの連中の筋書き通りの結末。
「……っ!」
悔しい。
死ぬのは怖くない。
いや、嘘。めちゃくちゃ怖いわよ!
でも、それ以上に!
私をこんな目に遭わせた、あのライナルトと、ミレーヌと、お父様に!
この無様な最期を、心の底から嘲笑われることが耐えられない!
私の指先が、背後の冷たい『壁』に触れていた、あの『箱』を掴んだ。
『インターフォン』。
前世の記憶が、そう告げている。
人を呼ぶための装置。
こんな、森の奥の絶望の縁で、一体、誰を呼べと?
兵士たちが噂していた、『魔女』?
上等じゃない!
この目の前の、よだれを垂らしたデカい犬に食い殺されるくらいなら、魔女に煮込まれた方が、まだマシだわ!
もうどうにでもなれ!
私は、混乱する頭のまま、前世の記憶が『ここを押せ』と主張する、その『箱』の、わずかに盛り上がった部分を泥だらけの指で、力いっぱい押し込んだ!
そして、その瞬間。
ピンポーン…………♪
「…………は?」
私と魔獣。
その両方(?)の動きが、完全に止まった。
今、鳴った?
この絶望の森のど真ん中で。
死ぬか生きるかの瀬戸際で。
王都の裕福な商人が、来客を知らせるために屋敷の門につけているような、なんとも間抜けで、呑気な『チャイム』の音が。
グルルル……?
魔獣が、信じられない、といった様子で、キョロキョロと辺りを見回している。牙をむき出しにしたまま、その発生源が分からない音に対して、警戒を強めている。
その赤い瞳に、明確な『困惑』が浮かんでいるのが、この状況で、妙におかしくて。
いや、おかしくないわよ!
『インターフォン』は、鳴った。
ということは、誰かが、この音を聞いた?
この『コンクリート』の『壁』の向こう側で?
私の期待と魔獣の困惑が、この薄暗い森の小さな空間で、奇妙な均衡を保つ。
ジ…………。
静寂。
ダメ。
やっぱり、空耳?
それとも、死ぬ間際の幻聴?
魔獣が、再び、グルルル……と低い唸り声を上げ、私という獲物に、その血走った目を戻しかけた、その時。
『…………あー。……うるさい。何の用だ』
「「!?」」
声がした!
あの『箱』――インターフォンから!
ノイズまみれで、何を言っているのか、半分も聞き取れない。
けれど間違いなく、人の声。
それも、どこか眠たそうで、不機嫌で、やる気のない、少女のような声。
ガウッ!?
魔獣も、その機械音混じりの声に、驚いたように、ビクッと体を震わせ、一歩、後ずさった。未知の存在の『声』に、その巨体とは裏腹な臆病ささえ見え隠れする。
いる!
この壁の向こうに、誰かいる!
私は、泥まみれの顔のまま、最後の気力を振り絞って、あの『箱』に向かって叫んだ。
「た、助けて! 誰か知らないけれど、助けてちょうだい!」
喉が、カラカラで、声がうまく出ない。
「私、食べられる! この馬鹿デカい狼に、今すぐ、食い殺されるのよ!」
私の必死の叫びに、インターフォンの向こうの『誰か』は、数秒、沈黙した。
ジジ……、という、ノイズの音だけが、不気味に響く。
まさか、切れた?
私の必死の懇願を無視した?
魔獣が、私と、忌々しい音を発する『箱』を交互に睨みつけ、再び、牙をむき出しにして、体勢を低くする。
ああ、ダメ。
今度こそ、本当に終わり……!
『……食べられる?……ああ。外のあれか。……面倒だな』
声は、まだ繋がっていた!
でも、何、その反応!?
面倒!?
人が、今まさに、死にそうになっているというのに!
「め、面倒とか、言ってないで!お願い、助けて!何でもするから!」
もう、公爵令嬢のプライドも、誇りも、何もかも、かなぐり捨てていた。
何でもする。
そう。
こんな獣の餌になるくらいなら、どんな屈辱にだって、耐えてみせる!
私の『何でもする』という言葉が、琴線に触れたのか。
あるいは、別の何かが、彼女の興味を引いたのか。
『……待て』
不意に声のトーンが、ほんのわずか変わった。
眠たそうなのは、相変わらずだけれど、そこに、かすかな『興味』のようなものが混じった。
『お前、今、その『箱』を『押した』のか?』
「はあっ!?押したわよ! さっき、私が押したの! だから、鳴ったんでしょう!?」
何を、今さら、分かりきったことを!
早く! 早くしないと、この魔獣が、また飛びかかってくる!
『……ほう』
インターフォンの向こうで、少女が感心したように息を漏らした。
『あの『インターフォン』は、私の魔法で、外にいるものには認識できないように、幻術をかけていたはずだが。……いや、それ以前に、あれが『押す』ための道具だと、なぜ分かった?』
「そ、そんなこと、どうだっていいでしょう!?」
前世の記憶が、そう告げていたからよ!
なんて、この状況で説明できるわけがない!
「いいから、早く! 死ぬ!私、死んじゃうわよ!」
『……ふむ。その道具の『使い方』を、なぜか知っている。……そして、その魔力パターン。……これは、アインツベルク公爵家のものか。だが、それだけじゃないな、なんだ、これは……』
ぶつぶつと、ノイズ混じりに、少女の分析するような声が続く。
ガアアアアアアアアアアッッ!!
もう待てない!
痺れを切らした魔獣が、私と、私がしがみついている『壁』ごと、食い破ろうと、再び、その巨体で突進してきた!
「いやあああああっ!」
『……チッ。うるさいな。……まあ、いい。面白い。実に興味深い。……貴重な、『研究素材』の可能性だ』
その少女の冷たい呟きが、聞こえた、次の瞬間。
『――許可する。入れ』
ゴウウウウウウウウウンッ!!
重い。
何かが動く音。
私が背中を預けていた、あの無機質な『壁』。
それが、私の目の前で、横へとスライドしていく。
「え…………?」
壁が開く?
魔法?
いや、違う。
前世の記憶が、これを知っている。
これは、魔法なんかじゃない。
もっと、機械的で無慈悲な、『科学』の力。
『自動ドア』?
いや、これは、もっと物々しい。
SFに出てくるかのような、分厚いコンクリートの壁が動く。
開いた壁の向こうから、光が溢れ出してきた。
太陽の光でも、月明かりでも、松明の火でもない。
白々しく均一で、それでいて目が痛くなるほど、明るい光。
そして、匂い。
森の腐葉土と獣の悪臭とは、まったく違う、乾いた、どこか埃っぽい、それでいて、清潔な『機械』の匂い。
ガアアアアアアアアアアッッ!!
魔獣は、獲物が逃げ込む、その光の『穴』を見て、止まれなかった。
いや、止まらなかった。
獲物を、逃がすまいと、その開いた扉の向こうへ、私ごと飛び込んできた!
「きゃあああああっ!」
私は、その光の中に引きずり込まれるように転がり込んだ。
硬い。
泥でも、土でも腐った葉でもない。
冷たくて、硬い、全てが均一にならされた、人工的に平らな『金属』の床。
そこに、泥だらけの私が無様に転がる。
そして、私を追って、通路に飛び込んできた、巨大な魔獣。
そいつは、しかし、すぐに、その場で、ピタリ、と動きを止めた。
グルルル……?
魔獣が困惑している。
その視線の先。
通路の奥。
そこでは、何かが動いてくる。
ゴウン……。
ゴウン……。
重い足音。
それは、生き物の足音ではなかった。
岩と金属が、擦れ合うような、無機質な音。
やがて、その『何か』が、光の中に、その全貌を現した。
「…………ぁ」
私の喉から、かすれた声が漏れた。
それは、人型、だった。
でも、人ではない。
私よりも、三回りは大きい。
岩石を、無骨に組み上げたような、胴体と太い腕。
頭があるべき場所には、赤い、一つの『光』が、不気味に点滅している。
『ゴーレム』。
公爵家の書庫で見た、戦争で使用する、兵器。
それが、なぜここに?
ゴーレムは、私と、私の背後で立ち尽くす魔獣を、その赤い『光』で、スキャンするように見比べた。
そして。
ピタッ、と、その動きを魔獣の上で止めた。
おそらく、一秒にも満たない時間。
ゴーレムは、判断を下した。
次の瞬間。
ゴウッ!
ゴーレムの岩石でできた巨体が信じられないほどの瞬発力で動いた。
魔獣が反応するよりも早く。
巨体、そこにある岩の腕が空気ごと、魔獣の胴体に叩きつけられた。
グシャアアアアアアアアッッ!!
水風船が弾けるような。
熟れた果実が、壁に叩きつけられるような。
そんな、生々しい鈍い音が、狭い通路に鳴り渡った。
「…………」
言葉が出なかった。
あの馬ほどもあった、巨大な魔獣。
私を、絶望の淵に叩き込んだ、恐怖の象徴。
それが、今。
たった、一撃。
ゴーレムの、たった一撃で、肉と、骨と、血反吐が一緒くたになった、ただの『肉塊』に変わって、通路の外へと吹き飛ばされていた。
あまりにもあっけない。
あまりにも一方的な、『暴力』。
ゴーレムは、自分が吹き飛ばした『肉塊』を、その赤い『光』で一瞥すると、無機質な動作で通路の外を『確認』した。
そして、今度は、ゆっくりと、こちらに、その『赤い光』を向けた。
「ひっ……!」
私は、金属の床に尻もちをついたまま、必死に後ずさろうとした。
ダメだ。
魔獣を、一撃で。
次は私?
この泥まみれの侵入者を、排除する?
ゴーレムが、私に向かって、その魔獣を粉砕した、岩の腕を向けている。
ああ、結局、同じ。
獣に食われるか、ゴーレムに潰されるか。
私の最期は、どうして、こうも無慈悲なの……!
私が、ギュッ、と目をつぶった、その時。
『あー。……それを壊すな。貴重な研究材料だ。……そいつは、こっちへ、持ってこい』
また、あの眠たそうな声。
今度は、インターフォンからではなく、通路の奥、ゴーレムよりも、さらに向こう側から、直接、聞こえてくる。
その声に応えるかのように、ゴーレムは持ち上げた腕を、そのまま、私に向かって、伸ばしてきた。
「いやあああああっ! さわらないで……!」
私は、必死に、その手を振り払おうとした。
だが、岩石でできた、巨大な指が、私の、ボロボロになったドレスの襟首を、まるで子猫でも掴むかのように、ひょい、と、掴み上げた。
「な、なにし……! 離しなさい! 無礼者っ!」
私の体が宙に浮く。
公爵令嬢としての最後の矜持が、私に、そう叫ばせていた。
だが、ゴーレムは、そんな私の抵抗など、意にも介さず。
私を、小脇に、いや、その巨大な手のひらの上に、まるで荷物のように乗せると。
ゴウン。
ゴウン。
と、重い足音を立てて、通路の奥へと歩き始めた。
私の背後で、あの巨大な『コンクリート』の『扉』が、再び、ゴウウウウウウウウウンッ! と、音を立てて閉まっていく。
森の湿った空気と、魔獣の血の匂いが遠ざかっていった。
◇
ゴーレムに運ばれていく、数十秒間が、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
通路は、どこまでも続いているように見えた。
壁も、床も、天井も、すべてが、あの無機質な灰色の『コンクリート』と、冷たい『金属』出来ていた。
その途中、交差する通路を、私を運んでいるこの個体とは明らかに違う、さらに大型のゴーレムが、重い資材のようなものを運んでいくのが見えた。
やはり、ここは人の住む場所ではない。
では、ここは一体、どこ?
私の知っている、アステル王国。その、どこにもこんな場所はないはず。
王宮の地下牢ですら、もっと人間味のある、石造りのはず。
何かの『施設』。
それも軍や研究所といった、一般人が立ち入れないような場所だ、と、前世の記憶が、そう警告している。
やがて、通路は開けた場所に出た。
広い。
王宮にある、部屋よりも、ずっと広いかもしれない。
そして高い。
天井がはるか上だ。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
壁一面に、大小、様々な光る『板』が埋め込まれている。
その『板』には、私には理解できない、文字や図形が高速で流れていく。
部屋の中央には、見たこともない、複雑な『機械』が、いくつもうずくまっている。
そして、それらすべての『機械』の中心。
ひときわ巨大な椅子。
いや、もはやそれは、椅子、というより『玉座』と呼ぶべき、何か。
その『玉座』に、そっくり返るように、ふんぞり返って、足を組んで座っている、人物がいた。
ゴーレムは、その『玉座』の前まで来ると、私を、その硬い床の上に、ポイ、と、無造作に降ろした。
「きゃっ……!」
泥まみれの尻を、また強打する。
「いっ……! あなた! 少しは、丁寧に扱えないの!?」
私は、反射的に、ゴーレムを睨みつけた。
だが、ゴーレムは、私に、一切の興味も示さない。
ただ、その『玉座』の主の後ろに、音もなく控えている。
私は、ようやく、自分を、この訳の分からない場所へ『招き入れた』、張本人と向き合うことになった。
『魔女』。
あの兵士たちが噂していた、『恐ろしい魔女』。
そのイメージとは、似ても似つかない、存在だった。
それは、一人の少女だった。
歳は、私よりずっと下に見える。
十歳を超えるか、それくらいの幼い少女。
ボサボサに伸び放題の銀色の髪。
よれよれのローブ。その何度も洗濯した結果、使い込まれている感じのよれよれさ。
そんな感じの幼い少女が、私を見下ろしていた。
その理知的すぎる、赤い瞳で。
そこには、子供特有の無邪気はない。
あるのはただ。
研究者が、珍しい『虫』を観察するような探求心だけ。
少女は、私を頭のてっぺんから、泥まみれの足の先まで、じろじろと、値踏みするように眺めると。
やがて、小さくため息をついた。
「……ふむ」
第一声が、それだった。
「想像以上に、汚いな」
「…………は?」
私の口から間抜けな声が漏れた。
今、この子、何と?
汚い?
私に向かって?
公爵令嬢コレット・フォン・アインツベルクに、向かって!
「な……! なんですって!?」
私は、疲労も、恐怖も、何もかも、忘れて、その場から跳ね起きた。
だが、勢いが良すぎて、足がもつれる。
「あっ……!」
私は、無様に尻もちをついた。
アハハハハ、と、乾いた笑いが、どこからか聞こえた気がした。
ああ、もう!
最悪だわ!
私の公爵令嬢としての威厳が、ボロボロに、崩れ落ちていく!
少女は、そんな私のみっともない、一通りの様子を無表情のまま、見届けると。
再び、小さく、ため息をついた。
「まあ、いい。泥だらけで臭いは、ひどいが……。お前、さっき、インターフォン越しに言ったな。『何でもする』、と」
「……! そ、それは……」
確かに言った。
死ぬか生きるかの瀬戸際で。
少女は、私の言葉の詰まりなど、お構いなしに続けた。
「そして、何より、面白いのは、そこだ」
少女の、赤い瞳が私を射抜いた。
「お前の、その頭。……その混濁した、『記憶』」
「…………っ!」
私は、息が詰まった。
この子、分かっている?
私の頭の中で、今、何が、起きているのか。
コレット・フォン・アインツベルクの記憶と。
『日本』という、国で生きていた、見ず知らずの女性の記憶が。
ぐちゃぐちゃに、入り乱れていることを。
「『前世の記憶』、とでも言うべきか。……ふむ。あるいは、単なる妄想なのか。だが、素晴らしい! 実に素晴らしい!」
少女は、そこで初めて表情を変えた。
無表情だった、その顔に、歓喜の笑みを浮かべた。
それは、まるで新しい『オモチャ』を見つけた、子供のような無邪気で、残酷な笑みだった。
「高い『魔力適性』! それに加えて、この『基地』の技術と、親和性を持つかもしれない、記憶!」
少女は、玉座から、バッ、と立ち上がる。
「理想的な組み合わせの可能性だ! これ以上の『素材』は無いだろう! これさえ、あれば! 私の研究は! さらに進展する!」
「そ、素材……? 研究……?」
私は、あまりの展開に、ついていけない。
この子、一体、何を言っているの?
少女は、ひとしきり語り終えると、こちらを再び向き変える。
そして、再び、その赤い瞳で私を射抜いた。
「ようこそ、アインツベルクに連なるものよ」
少女は、よれよれなローブの裾を、ほんの申し訳程度に、つまむと、王宮の作法からはかけ離れた、お辞儀をしてみせた。
「ようこそ、私の『基地』へ。……歓迎するぞ、『研究素材』」
楽しそうに、その唇がつり上がっていく。




