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元公爵令嬢の嗜みは『魔力による身体強化(G耐性)』ですわ?~追放先で戦闘機乗りになった私、生意気な相棒と引きこもり天才魔女に振り回されています~  作者: 速水静香
第一章:失墜と追放

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第四話:森の探索と魔獣

 ジクン、とした体の痛みが、私の意識を、重く、冷たい底から無理やり引きずり出した。


 寒い。


 背中が、まるで石の上に寝ていたかのように、ゴツゴツと痛む。


 そして、何よりも……臭い。


 昨日、私を絶望の底に叩き込んだ、あの悪臭。カビと、獣のフンと、何かが腐った匂いが混じり合った、耐え難いほどの腐臭。


 ゆっくりと目を開ける。


 視界に飛び込んできたのは、昨日と何一つ変わらない、崩れ落ちた小屋の『残骸』だった。


 抜け落ちた屋根の隙間から、白々しい、灰色の光が差し込んでいる。


 朝……。


 どうやら、私は、あのまま、この獣の寝床で意識を失っていたらしい。


 ……生きている。


 その事実が、再び、私に絶望を突きつけてきた。


「う……っ」


 体を起こそうとして、全身の筋肉が悲鳴を上げる。


 荷馬車で打ち付け、引きずり回され、泥の上に転がされた体は、一晩置いたことで、さらに悲惨な状態になっていた。まるで、自分のものではないみたいに、鈍い。


 そして、強烈な感覚が私の思考を支配した。


 喉が、焼けるように渇いている。


 私は、必死に泥だらけの手で地面を探った。


 昨日、あの兵士が投げよこした、水の皮袋。


 あった。


 私は、それを掴むと、口を開けて、逆さまにした。


 だが。


 カプ、カプ、と乾いた音がするだけで、湿った革の口からは、一滴の水も落ちてこなかった。


 昨日、あの絶望の中で、全て、飲み干してしまったのだ。


「あ……ぁ……」


 乾いた喉から、かすれた声が漏れる。


 水がない。


 一滴も。


 強烈な不安が、私の全身を冷たい手で鷲掴みにしたようだった。


 食べ物もない。


 水もない。


 このまま、ここで、じっとしていたら?


 私は、間違いなく飢え死にする。


 この獣のフンにまみれた、薄汚い小屋で、誰にも知られず、惨めに渇きと飢えに苦しみながら、死んでいく。


 その光景を想像した。


 そして、私の脳裏に、あの連中の顔が浮かんだ。


 勝利に酔いしれる、ライナルト殿下。


 可憐な被害者を演じきった、ミレーヌ。


 私を『恥さらし』と切り捨てた、お父様。


 彼らが、私のこの無様な最期を知ったら?


 きっと腹を抱えて笑うだろう。


『愚かなコレット。やはり、あの女は、王宮でしか生きられなかったのだ』と。


『せいぜい、辺境の土くれにでもなって、魔獣のエサにでもなればいい』と。


「…………っ!」


 ダメだ。


 それだけは、絶対にダメだ。


 このまま惨めに飢え死にすることだけは。


 私を陥れた、あの連中に笑われることだけは。


 そんなことを絶対に許せない。


 ギリッ、と奥歯が鳴った。


 生きる。


 生きてやる。


 こんな場所で、終わってたまるものですか。


 私は、アインツベルク公爵令嬢、コレットよ。


 たとえ、身分を剥奪され、泥にまみれようとも、私の誇りまで、あの連中にくれてやるつもりはない。


 私は、残った全ての力を振り絞り、腐った床板に手を突き、よろよろと立ち上がった。


 ボロボロのドレスが、昨日よりもさらに重く感じる。


 食料を探しに行かなければ。


 水を見つけなければ。


 生きるために。


 そして、いつか必ず、あの連中に、この屈辱を何倍にもして返してやるために。


 私はその崩れかけた扉を押し開けた。

 



 私が、あの小屋と呼ぶのもおこがましい獣の巣のような、残骸を飛び出してから、ポチポチと歩いていた。


 周囲は薄暗い森だ。昼間から、陰鬱になるような風景。


 深い緑の迷宮。


 どこを見ても、木、木、木。


 ザワワ……、と葉擦れの音が、まるで私を嘲笑うかのように、四方八方から聞こえてくる。


 私は、ボロボロになったドレスの裾を、もう気にするでもなく引きずりながら、必死に目を凝らしていた。


 食料。


 生きるために、今すぐ必要なもの。


 昨日、兵士に投げつけられたあの石のようなパンは、涙と泥と一緒に、とっくの昔に胃袋に収まってしまった。皮袋の水も、昨夜の絶望の中で、最後の一滴まで飲み干してしまった。


 喉が焼けるように渇いている。


 お腹が、みっともないほど空いている。


 こんな屈辱的な感覚は、生まれてこの方、初めてのことだ。


 公爵令嬢としての私は、飢えや渇きなど、書物の中でしか知らない言葉だった。


「どこに……食べられるものなんて、どこにあるというのよ……!」


 私のイライラした声が、湿った空気に吸い込まれて消えていく。


 足元には、見たこともない草花や、不気味な色のキノコが、これみよがしに生えている。


 赤と白のまだら模様のキノコ。


 いかにも『毒があります』と言わんばかりの派手な姿。


「……馬鹿にしないでちょうだい」


 私は、そのキノコを、すり減った靴の先で思い切り蹴飛ばした。


 ブシュッ、と湿った音を立てて、キノコは砕け、中から、鼻を突くような酸っぱい匂いが立ち上った。


「うっ……!」


 ダメだわ。こんなもの、口にしたら、あの連中に笑われる前に、もっと惨めな死に方をする羽目になる。


 公爵家では、様々なことを学ばされた。


 歴史学、政治学、帝王学。


 そして、アステル王国貴族の嗜みとして、高等魔法理論も。


 『魔力元素の構成理論』?『魔法陣の図形的考察』?


 アハハ!


 笑わせてくれる。


 今、この森の中で、そんな知識が何の役に立つというの?


 目の前のキノコが食べられるかどうか、その理論で判別できるとでも?


 ライナルト殿下との社交ダンスのステップを、いくら覚えていたところで、空腹が満たされるわけでもない。


 私は、あの王宮で、一体、何を学んできたのだろう。


 結局、私は、あの磨き上げられた床の上でしか生きられない、役立たずの人形だったというわけだ。


 あのミレーヌや、ライナルト殿下、そしてお父様。


 彼らは、私がこうなることを、すべて分かっていた。


 私が、この森で、何もできず、ただ無様に飢え死にしていく様を想像して、今頃、王都で、高価なワインでも飲みながら、笑い合っているに違いない。


 いや、もはや私のことなど、意識の欠片にもないのかもしれない。


「……冗談じゃ、ないわよ……!」


 ギリッ、と奥歯を噛みしめる。


 絶対に、死んでやらない。


 あいつらの思い通りにはならない!


 私は、自分の頬を、パン! と平手で叩いた。


 じわり、と鈍い痛み。


 いいわ。痛みがある。まだ、生きている証拠だ。


 私は、再び歩き出した。


 もっと奥へ。


 何か、何かあるはずだ。


 動物たちが食べている木の実とか、そういうものが。


 ガサッ。


 茂みが揺れる音に、私の体がビクンッ! と跳ねた。


 思わず、心臓が喉から飛び出しそうになる。


 ……喉の奥が、ヒュッと音を立てた。


 私は、硬直したまま、音のした方を睨みつけた。


 茂みが、もう一度、小さく揺れた。


 そこから、ピョン、と飛び出してきたのは、耳の長い、小さなウサギのような生き物だった。


 それは、私を一瞥すると、興味もなさそうに、近くの草をムシャムシャと食べ始めた。


「…………」


 ……ウサギ。


 ウサギ?


 私は、ゴクリと乾いた唾を飲み込んだ。


 あ、あれは……。


 食べられる……?


 王宮の晩餐で、ウサギのローストという料理が出たことがある。


 でも、どうやって?


 私が、この手で、あれを捕まえて、調理しろと?


 無理だわ。


 私には、そんな技術も、道具も、そして何より、覚悟もない。


 ウサギは、私が葛藤している間にも、さっさと草を食べ終え、あっという間に、茂みの奥へと消えてしまった。


「ああ……!」


 間抜けな声が漏れる。


 私は、その場に、がっくりと膝をつきそうになった。


 ダメだ。


 私には、何もできない。


 知識も、技術も、覚悟も、何もない。


 あるのは、役立たずのプライドと、あの連中への憎しみだけ。


 そんなもので、お腹は膨れない。


 私は、よろよろと立ち上がり、また、当てもなく歩き始めた。


 どれくらい、そうしていただろう。


 もう、時間も、方角も、何もかもが分からない。


 森は、その様相を、少しずつ変えてきていた。


 さっきまでは、まだ、かろうじて木々の隙間から空が見えていたのに、今は、巨大な木々が、天蓋のように空を覆い尽くしている。


 昼間だというのに、まるで夕暮れ時のように薄暗い。


 足元は、ジメジメとした黒い土に変わり、腐葉土の匂いも、さっきまでの比ではなくなっていた。


 ムワッ、とした湿気が、ボロボロのドレス越しに、肌にまとわりついてくる。


 その時。


 私は、ふと、あることに気づいて、足を止めた。


「……あれ?」


 私は、目の前にある、ひときわ巨大な、ねじくれた木を見上げた。


 その根元には、大きな空洞が開いている。まるで、何かの獣の巣穴のように。


「この木……」


 見覚えがある。


 いや、確実にある。


 一時間ほど前にも、私は、この木の前を、通ったはずだ。


「そんな……」


 私の背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がってくる。


 腹の底が、キュウ、と冷たくなっていくのを感じた。


 道に迷った?


 いいや。


 『あっさりと』道に迷ってしまった。


 あの獣の巣だった小屋に、戻る道も分からない。


 開拓村アステルが、どの方角にあるのかも分からない。


 私は、この薄暗い、不気味な森の真ん中で、道に迷ってしまっていた。


「嘘よ……」


 乾いた唇から、か細い声が漏れる。


「そんな……。どうしよう……」


 焦りが、一気に私の思考を鈍らせていく。


 パニック、というやつだ。


 落ち着きなさい、コレット。


 私は、アインツベルク公爵家の令嬢。


 どんな時でも、冷静で、優雅でいなければならない。


 そう教えられてきた。


 だが、その教えは、今、何の役にも立たない!


 冷静になって、この状況がどうにかなるというの!?


 お腹は空いた!


 喉は渇いた!


 そして、あの小屋への帰る道も分からない!


「どうしろっていうのよぉっ!」


 私は、その場にしゃがみ込み、地面を拳で叩いた。


 硬い木の根が、拳に当たって、ジンジンと痛む。


 その痛みが、さらに私の焦りをかき立てる。


 涙が、また溢れてきそうになった。


 でも、もう泣かない。


 泣いたって、パンも水も湧いてはこないのだから。


 私は、泥だらけの手で顔を乱暴に拭った。


 その時だった。


 ザッ…………。


 ごく、わずかな音。


 土を踏む音。


 さっきのウサギとは、明らかに違う。


 もっと、重い。


 私の動きが、ピタリ、と止まった。


 全身の産毛が、ブワッ、と逆立つのが分かった。


 ザワワ……、という森の音に混じって、確かに、それは聞こえた。


 私の、すぐ背後で。


 ゆっくりと、ゆっくりと、土を踏みしめる音。


 それに混じって、フウウウウ……、という、低い唸り声のような、荒い息遣い。


 そして。


 あの匂い。


 小屋の中で嗅いだ、獣の生臭い匂い。


 それが、今、あの時とは比較にならないほどの強烈な悪臭となって、私の鼻腔を、直接、殴りつけてきた。


 ダメだ。


 振り向いては、ダメだ。


 私の本能が、そう、金切り声を上げている。


 けれど、確認をしなければ、安全の確保ができない。


 私はゆっくりと、後ろを向いた。


 そして。


 私は、見た。


 私の背後、ほんの数歩先の茂みから、ぬう、と姿を現した、それ。


「…………ぁ」


 声が、出なかった。


 それは、狼、だった。


 いや。


 私が、王宮の図鑑で見たことのある『狼』などという、可愛らしい生き物では、断じてない。


 まず、その大きさが尋常ではなかった。


 馬。


 それも、王宮の馬車を引いていた、あの大型の軍馬。


 あれと、同じくらい。


 いや、もしかしたら、それ以上に巨大だ。


 ゴツゴツとした、黒い毛皮。


 岩のように盛り上がった、肩の筋肉。


 そして、何よりも。


 私を、まっすぐに見据えている、二つの赤い光。


 それは瞳だった。


 憎悪と飢え。


 その二つの感情だけで、できているかのような、血のように、赤い瞳。


 そこにある、大きく裂けた口元から、ダラダラと、粘着質のよだれが滴り落ちている。


 その牙は、まるで、肉を切り裂くためにだけ研ぎ澄まされた、短剣のようだった。


 グルルルルルル…………。


 地響きのような低い唸り声が、私の体を、直接、揺さぶる。


 狼型の魔獣だ。


 あの兵士たちが、噂していた存在。


 それが今、私の目の前にいる。


 時間が止まった。


 いや、私だけが止まってしまった。


 体が、指一本、動かない。


 まるで、私そのものが、冷たい氷の塊になってしまったみたいに感じられた。


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