第四話:森の探索と魔獣
ジクン、とした体の痛みが、私の意識を、重く、冷たい底から無理やり引きずり出した。
寒い。
背中が、まるで石の上に寝ていたかのように、ゴツゴツと痛む。
そして、何よりも……臭い。
昨日、私を絶望の底に叩き込んだ、あの悪臭。カビと、獣のフンと、何かが腐った匂いが混じり合った、耐え難いほどの腐臭。
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、昨日と何一つ変わらない、崩れ落ちた小屋の『残骸』だった。
抜け落ちた屋根の隙間から、白々しい、灰色の光が差し込んでいる。
朝……。
どうやら、私は、あのまま、この獣の寝床で意識を失っていたらしい。
……生きている。
その事実が、再び、私に絶望を突きつけてきた。
「う……っ」
体を起こそうとして、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
荷馬車で打ち付け、引きずり回され、泥の上に転がされた体は、一晩置いたことで、さらに悲惨な状態になっていた。まるで、自分のものではないみたいに、鈍い。
そして、強烈な感覚が私の思考を支配した。
喉が、焼けるように渇いている。
私は、必死に泥だらけの手で地面を探った。
昨日、あの兵士が投げよこした、水の皮袋。
あった。
私は、それを掴むと、口を開けて、逆さまにした。
だが。
カプ、カプ、と乾いた音がするだけで、湿った革の口からは、一滴の水も落ちてこなかった。
昨日、あの絶望の中で、全て、飲み干してしまったのだ。
「あ……ぁ……」
乾いた喉から、かすれた声が漏れる。
水がない。
一滴も。
強烈な不安が、私の全身を冷たい手で鷲掴みにしたようだった。
食べ物もない。
水もない。
このまま、ここで、じっとしていたら?
私は、間違いなく飢え死にする。
この獣のフンにまみれた、薄汚い小屋で、誰にも知られず、惨めに渇きと飢えに苦しみながら、死んでいく。
その光景を想像した。
そして、私の脳裏に、あの連中の顔が浮かんだ。
勝利に酔いしれる、ライナルト殿下。
可憐な被害者を演じきった、ミレーヌ。
私を『恥さらし』と切り捨てた、お父様。
彼らが、私のこの無様な最期を知ったら?
きっと腹を抱えて笑うだろう。
『愚かなコレット。やはり、あの女は、王宮でしか生きられなかったのだ』と。
『せいぜい、辺境の土くれにでもなって、魔獣のエサにでもなればいい』と。
「…………っ!」
ダメだ。
それだけは、絶対にダメだ。
このまま惨めに飢え死にすることだけは。
私を陥れた、あの連中に笑われることだけは。
そんなことを絶対に許せない。
ギリッ、と奥歯が鳴った。
生きる。
生きてやる。
こんな場所で、終わってたまるものですか。
私は、アインツベルク公爵令嬢、コレットよ。
たとえ、身分を剥奪され、泥にまみれようとも、私の誇りまで、あの連中にくれてやるつもりはない。
私は、残った全ての力を振り絞り、腐った床板に手を突き、よろよろと立ち上がった。
ボロボロのドレスが、昨日よりもさらに重く感じる。
食料を探しに行かなければ。
水を見つけなければ。
生きるために。
そして、いつか必ず、あの連中に、この屈辱を何倍にもして返してやるために。
私はその崩れかけた扉を押し開けた。
◇
私が、あの小屋と呼ぶのもおこがましい獣の巣のような、残骸を飛び出してから、ポチポチと歩いていた。
周囲は薄暗い森だ。昼間から、陰鬱になるような風景。
深い緑の迷宮。
どこを見ても、木、木、木。
ザワワ……、と葉擦れの音が、まるで私を嘲笑うかのように、四方八方から聞こえてくる。
私は、ボロボロになったドレスの裾を、もう気にするでもなく引きずりながら、必死に目を凝らしていた。
食料。
生きるために、今すぐ必要なもの。
昨日、兵士に投げつけられたあの石のようなパンは、涙と泥と一緒に、とっくの昔に胃袋に収まってしまった。皮袋の水も、昨夜の絶望の中で、最後の一滴まで飲み干してしまった。
喉が焼けるように渇いている。
お腹が、みっともないほど空いている。
こんな屈辱的な感覚は、生まれてこの方、初めてのことだ。
公爵令嬢としての私は、飢えや渇きなど、書物の中でしか知らない言葉だった。
「どこに……食べられるものなんて、どこにあるというのよ……!」
私のイライラした声が、湿った空気に吸い込まれて消えていく。
足元には、見たこともない草花や、不気味な色のキノコが、これみよがしに生えている。
赤と白のまだら模様のキノコ。
いかにも『毒があります』と言わんばかりの派手な姿。
「……馬鹿にしないでちょうだい」
私は、そのキノコを、すり減った靴の先で思い切り蹴飛ばした。
ブシュッ、と湿った音を立てて、キノコは砕け、中から、鼻を突くような酸っぱい匂いが立ち上った。
「うっ……!」
ダメだわ。こんなもの、口にしたら、あの連中に笑われる前に、もっと惨めな死に方をする羽目になる。
公爵家では、様々なことを学ばされた。
歴史学、政治学、帝王学。
そして、アステル王国貴族の嗜みとして、高等魔法理論も。
『魔力元素の構成理論』?『魔法陣の図形的考察』?
アハハ!
笑わせてくれる。
今、この森の中で、そんな知識が何の役に立つというの?
目の前のキノコが食べられるかどうか、その理論で判別できるとでも?
ライナルト殿下との社交ダンスのステップを、いくら覚えていたところで、空腹が満たされるわけでもない。
私は、あの王宮で、一体、何を学んできたのだろう。
結局、私は、あの磨き上げられた床の上でしか生きられない、役立たずの人形だったというわけだ。
あのミレーヌや、ライナルト殿下、そしてお父様。
彼らは、私がこうなることを、すべて分かっていた。
私が、この森で、何もできず、ただ無様に飢え死にしていく様を想像して、今頃、王都で、高価なワインでも飲みながら、笑い合っているに違いない。
いや、もはや私のことなど、意識の欠片にもないのかもしれない。
「……冗談じゃ、ないわよ……!」
ギリッ、と奥歯を噛みしめる。
絶対に、死んでやらない。
あいつらの思い通りにはならない!
私は、自分の頬を、パン! と平手で叩いた。
じわり、と鈍い痛み。
いいわ。痛みがある。まだ、生きている証拠だ。
私は、再び歩き出した。
もっと奥へ。
何か、何かあるはずだ。
動物たちが食べている木の実とか、そういうものが。
ガサッ。
茂みが揺れる音に、私の体がビクンッ! と跳ねた。
思わず、心臓が喉から飛び出しそうになる。
……喉の奥が、ヒュッと音を立てた。
私は、硬直したまま、音のした方を睨みつけた。
茂みが、もう一度、小さく揺れた。
そこから、ピョン、と飛び出してきたのは、耳の長い、小さなウサギのような生き物だった。
それは、私を一瞥すると、興味もなさそうに、近くの草をムシャムシャと食べ始めた。
「…………」
……ウサギ。
ウサギ?
私は、ゴクリと乾いた唾を飲み込んだ。
あ、あれは……。
食べられる……?
王宮の晩餐で、ウサギのローストという料理が出たことがある。
でも、どうやって?
私が、この手で、あれを捕まえて、調理しろと?
無理だわ。
私には、そんな技術も、道具も、そして何より、覚悟もない。
ウサギは、私が葛藤している間にも、さっさと草を食べ終え、あっという間に、茂みの奥へと消えてしまった。
「ああ……!」
間抜けな声が漏れる。
私は、その場に、がっくりと膝をつきそうになった。
ダメだ。
私には、何もできない。
知識も、技術も、覚悟も、何もない。
あるのは、役立たずのプライドと、あの連中への憎しみだけ。
そんなもので、お腹は膨れない。
私は、よろよろと立ち上がり、また、当てもなく歩き始めた。
どれくらい、そうしていただろう。
もう、時間も、方角も、何もかもが分からない。
森は、その様相を、少しずつ変えてきていた。
さっきまでは、まだ、かろうじて木々の隙間から空が見えていたのに、今は、巨大な木々が、天蓋のように空を覆い尽くしている。
昼間だというのに、まるで夕暮れ時のように薄暗い。
足元は、ジメジメとした黒い土に変わり、腐葉土の匂いも、さっきまでの比ではなくなっていた。
ムワッ、とした湿気が、ボロボロのドレス越しに、肌にまとわりついてくる。
その時。
私は、ふと、あることに気づいて、足を止めた。
「……あれ?」
私は、目の前にある、ひときわ巨大な、ねじくれた木を見上げた。
その根元には、大きな空洞が開いている。まるで、何かの獣の巣穴のように。
「この木……」
見覚えがある。
いや、確実にある。
一時間ほど前にも、私は、この木の前を、通ったはずだ。
「そんな……」
私の背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がってくる。
腹の底が、キュウ、と冷たくなっていくのを感じた。
道に迷った?
いいや。
『あっさりと』道に迷ってしまった。
あの獣の巣だった小屋に、戻る道も分からない。
開拓村アステルが、どの方角にあるのかも分からない。
私は、この薄暗い、不気味な森の真ん中で、道に迷ってしまっていた。
「嘘よ……」
乾いた唇から、か細い声が漏れる。
「そんな……。どうしよう……」
焦りが、一気に私の思考を鈍らせていく。
パニック、というやつだ。
落ち着きなさい、コレット。
私は、アインツベルク公爵家の令嬢。
どんな時でも、冷静で、優雅でいなければならない。
そう教えられてきた。
だが、その教えは、今、何の役にも立たない!
冷静になって、この状況がどうにかなるというの!?
お腹は空いた!
喉は渇いた!
そして、あの小屋への帰る道も分からない!
「どうしろっていうのよぉっ!」
私は、その場にしゃがみ込み、地面を拳で叩いた。
硬い木の根が、拳に当たって、ジンジンと痛む。
その痛みが、さらに私の焦りをかき立てる。
涙が、また溢れてきそうになった。
でも、もう泣かない。
泣いたって、パンも水も湧いてはこないのだから。
私は、泥だらけの手で顔を乱暴に拭った。
その時だった。
ザッ…………。
ごく、わずかな音。
土を踏む音。
さっきのウサギとは、明らかに違う。
もっと、重い。
私の動きが、ピタリ、と止まった。
全身の産毛が、ブワッ、と逆立つのが分かった。
ザワワ……、という森の音に混じって、確かに、それは聞こえた。
私の、すぐ背後で。
ゆっくりと、ゆっくりと、土を踏みしめる音。
それに混じって、フウウウウ……、という、低い唸り声のような、荒い息遣い。
そして。
あの匂い。
小屋の中で嗅いだ、獣の生臭い匂い。
それが、今、あの時とは比較にならないほどの強烈な悪臭となって、私の鼻腔を、直接、殴りつけてきた。
ダメだ。
振り向いては、ダメだ。
私の本能が、そう、金切り声を上げている。
けれど、確認をしなければ、安全の確保ができない。
私はゆっくりと、後ろを向いた。
そして。
私は、見た。
私の背後、ほんの数歩先の茂みから、ぬう、と姿を現した、それ。
「…………ぁ」
声が、出なかった。
それは、狼、だった。
いや。
私が、王宮の図鑑で見たことのある『狼』などという、可愛らしい生き物では、断じてない。
まず、その大きさが尋常ではなかった。
馬。
それも、王宮の馬車を引いていた、あの大型の軍馬。
あれと、同じくらい。
いや、もしかしたら、それ以上に巨大だ。
ゴツゴツとした、黒い毛皮。
岩のように盛り上がった、肩の筋肉。
そして、何よりも。
私を、まっすぐに見据えている、二つの赤い光。
それは瞳だった。
憎悪と飢え。
その二つの感情だけで、できているかのような、血のように、赤い瞳。
そこにある、大きく裂けた口元から、ダラダラと、粘着質のよだれが滴り落ちている。
その牙は、まるで、肉を切り裂くためにだけ研ぎ澄まされた、短剣のようだった。
グルルルルルル…………。
地響きのような低い唸り声が、私の体を、直接、揺さぶる。
狼型の魔獣だ。
あの兵士たちが、噂していた存在。
それが今、私の目の前にいる。
時間が止まった。
いや、私だけが止まってしまった。
体が、指一本、動かない。
まるで、私そのものが、冷たい氷の塊になってしまったみたいに感じられた。




