第三話:追放先
どれほどの時間、意識を失っていたのだろうか。
ガタン! という、体を突き上げるような強い衝撃で、私は、暗く冷たい現実へと引き戻された。
「うっ……!」
荷台の壁に、またしても体を打ち付ける。もう、全身が痛みを通り越して、鈍い感覚しか残っていない。まるで、自分のものではないみたいだ。
耳障りな馬車の騒音に混じって、御者台の兵士たちの声が、まだ続いている。
「しかし、もうすぐ開拓村アステルだな」
その地名に、私の意識が、わずかに覚醒する。
「やっとかよ。こんなクソみてえな仕事、さっさと終わらせてえぜ。王都に帰ったら、酒だ、酒!」 「おうよ。それと、聖女様ミレーヌに拝謁、願おうぜ。ご利益があるかもしれねえ」 「違えねえ。あの後ろにいるクセェ毒婦様とは大違いだ。なァ?」
最後の一言は、明らかに荷台の私に向けられたものだった。
ゲラゲラと下品な笑い声が、板壁を突き抜けてくる。
ミレーヌ。ミレーヌ。
その名前を聞くだけで、私の奥歯が、ギリ、と嫌な音を立てた。
私の心を、この息が詰まるような暗闇の中で、憎悪という名の冷たい炎が、静かに焼いている。
あの女も、あの愚かな王太子も、そして、私を見捨てた父も。
私をこんな目に遭わせた連中全員。
もし。
万が一、億が一。
私がここから生きて出られるようなことが、あったなら。
その時は……。
いや。
無理だわ。
私は、かろうじて残っていた思考を、自分で打ち消した。
私は、このまま捨てられるのだ。兵士たちの噂を、私はこの耳で聞いた。『魔女』が住むという森。『魔獣』の縄張り。
私の未来は、この荷台の暗闇よりも、さらに黒く塗りつぶされている。
希望など、一欠片も残ってはいない。
その時だった。
馬車の速度が、ほんのわずかに緩やかになった。
ガタガタという車輪の音質が変わる。ひどい悪路から、少しだけ踏み固められた土の道に入ったようだった。
そして、外から、人々のざわめきが聞こえ始めた。
「ん? なんだあの馬車は」 「王都の馬車か? いや、紋章がねえぞ。ただの荷馬車だ」 「こんな辺境の村まで、何のようだ?」
村人たちの、訝しむような、警戒するような声。
それに対して、御者台の兵士が尊大な声で怒鳴り返した。
「王家からの勅命だ! 道を開けろ、愚図ども!」 「ひっ! お、王家!?」 「申し訳ありません!」
村人たちが、慌てて道を開ける気配が伝わってくる。
開拓村アステル。
ここが、あのライナルトが言っていた村。
私の脳裏に、王都の社交界で、貴族たちが嘲笑混じりに話していた噂が蘇る。
曰く、『王都のゴミ捨て場』。
曰く、『食い詰めた連中が、最後の望みをかけて流れ着く場所』。
私は、こんな場所の、さらに外れに捨てられるのだ。
ホロのわずかな隙間から、埃っぽい昼の光と共に、一瞬だけ外の光景が見えた。
王都の噂にあったような、『ゴミ捨て場』というほどではない。
道は舗装されておらず、土埃っぽいが、道沿いには質素ながらもしっかりとした造りの木の家々が並んでいる。遠くから、カン、カン、と鍛冶屋の打つ音や、家畜の鳴き声も聞こえてくる。
もちろん、あの王都の華やかさとは、何もかもが違う。だが、人々はここで、確かに生活を営んでいる。
道の脇では、好奇心に目を輝かせた子供たちが、物珍しそうに、けれど少し怯えた目でこの馬車を見ている。
馬車は、そんな質素な村の中心部を、あっという間に通過していく。
人々のざわめきが、急速に遠ざかっていく。
そして。
再び、道は獣道同然の悪路になった。
ガッタン、ゴットン!
木々の枝が、馬車の幌を、バサバサと不気味に叩く音がする。
鬱蒼とした、深い森。
まだ昼間だというのに、木々が空を覆い隠し、荷台の中は、さっきよりも暗くなった気がした。
そして、唐突に。
キキイイイイイッ!
馬のいななきと、耳障りな車輪の軋む音。
馬車が、急停止した。
その勢いで、私は前のめりにつんのめり、荷台の壁に体を強く打ち付けた。
「いっ……!」
鈍い痛みが走る。
「よし、着いたぞ! ここだ!」
兵士たちの、心底、安堵したような声。
ガチャン!
ついに、荷台の扉が、乱暴に開け放たれた。
数日ぶりに浴びる、まともな外の光。
だが、それは王都のきらびやかな陽光とは、まったく別物だった。
空を覆い尽くす木々の間から漏れ落ちる、まだらで、どこか冷たい日差し。
ムワッとした、湿った空気が、荷台の澱んだ空気と入れ替わるように流れ込んできた。
腐葉土の匂い。
得体の知れない獣の、生臭い匂い。
「さあ、降りろ! 毒婦様!」
兵士の一人が、土足で荷台に上がり込んできた。
そして、私の腕を、あの汗臭い手で、再び乱暴に掴んだ。
「やめな、さい……!」
抵抗しようにも、もう、指先に力すら入らない。
私は、文字通り、荷台から引きずり降ろされた。
「うぐっ……!」
足がもつれ、私は湿った冷たい土と、腐った落ち葉の上に、無様に転がされた。
ビリ、と、すでにボロボロだったドレスが、さらに裂ける。
緑と黒の汚物が、私の肌と髪にこびりつく。
「ヒャハハ! 見ろよ、あの様!」 「これが、あの高慢ちきな公爵令嬢サマとはなあ! 傑作だぜ!」
兵士たちが、腹を抱えて笑っている。
私は、泥にまみれた顔を上げ、彼らを睨みつけた。
だが、その視線には、もう何の力もなかった。王都にいた頃の私なら、この無礼者たちを、視線だけで黙らせることもできただろうに。
「ほらよ、忘れもんだ」
兵士の一人が、荷台から小さな革袋を一つ、私に向かって放り投げた。
カタン、と乾いた音を立てて、私の足元に転がる。
中身は、あの石のように硬いパンの食べ残し。それと、半分ほど残った水の皮袋。
これが、私の、全財産。
「じゃあな、お嬢様。せいぜい、魔獣と仲良くやるんだな!」 「ああ、例の『魔女』にもよろしく言っといてくれよ! 食われる前に、な!」
兵士たちは、最後に唾を吐き捨てるようにそう言うと、さっさと馬車に乗り込んだ。
「ヒヒーン!」
馬が、この不気味な森から早く立ち去りたいとでも言うように、高く、いなないた。
馬車が、ギシギシと重い音を立てて、方向転換を始める。
待って。
行かないで。
お願い。
私を、こんなところに、たった一人で、置いていかないで。
喉まで出かかったそのみっともない言葉を、私は、最後の誇りを振り絞って、必死に飲み込んだ。
ここで、こいつらに、情けを乞う?
それだけは、死んでも、できない。
私は、泥だらけの手で湿った地面を掴み、ふらつく体で、ゆっくりと立ち上がった。
そして、遠ざかっていく馬車を、まっすぐに見据えた。
それが、公爵令嬢コレット・フォン・アインツベルクとして、私にできる、精一杯の、虚勢だった。
兵士の一人が、私のその様子に気づいたのか、馬車の窓から顔を出し、下品な口笛を吹いた。
「せいぜい、その威勢がいつまでもつか、見ものだな! アハハ!」
ガタガタという車輪の音。
兵士たちの下品な笑い声。
それが、森の奥へと続く暗い道に、吸い込まれていく。
やがて、音は、完全に消えた。
◇
シン……、と、森が静まり返る。
いや、静かではない。
ザワワ……、ザワワ……。
風が、不気味なほど高い木々を揺らす音。
ホーホーという、聞いたこともない鳥の鳴き声。
遠くで、何かが、ガサガサと茂みをかき分けて動く音。
私は、ゴクリと乾いた唾を飲んだ。
背筋が、ゾワゾワと粟立つ。
ここが、私の幽閉先。
私は、おそるおそる、兵士たちが私を捨てた場所を見回した。
深い、深い、森の入り口。
木々は、王宮の庭園に植えられていた、手入れの行き届いたものとは比べ物にならないほど巨大で、不気味なほど、ねじくれ、曲がっている。
まるで、巨大な蛇が何匹も、空に向かってとぐろを巻いているかのようだ。
そして、その木々に、半ば飲み込まれるようにして、それは建っていた。
「…………は?」
私の口から、間抜けな声が漏れた。
ライナルトは言った。
『辺境の『開拓村アステル』――その、さらに外れの森の屋敷へ、追放する』
屋敷?
目の前にあるのは、屋敷などという、立派なものでは、断じてない。
それは、誰かが昔、炭焼きか何かで使っていたのかもしれない、小さな『小屋』。
いや、『小屋』と呼ぶことすら、おこがましい。
建物の『残骸』だ。
壁は、あちこちが崩れ落ち、大きな穴が開いている。そこから、森の不気味な蔓植物が、内部へと侵入している。
屋根は、半分以上が抜け落ちて、空がそのまま見えていた。
扉だったらしい木片が、片方の、錆びついた蝶番だけでかろうじてぶら下がり、風が吹くたび、キィ……キィ……と、不気味な音を立てている。
まるで、巨大な獣に食い破られた、何かの哀れな骸のようだった。
私は、立ち尽くした。
これが?
これが、私の『終の棲家』?
私は、何かに引かれるように、その『残骸』へと一歩へと、足を踏み出した。
近づくにつれ、強烈な匂いが私の鼻を突いた。
ウッ……!
私は、思わず口元を押さえた。
カビの匂い。
何かが腐って、澱んだ、古い水の匂い。
そして、間違いなく、獣のフンの匂い。
それらが、この森の湿った空気の中で発酵し、暴力的なまでの悪臭となって、私に襲いかかってきた。
これまでの人生で、こんな、生き物の生存を拒絶するかのような匂いを嗅いだことはなかった。
意を決して、私は、その『扉だったもの』に触れた。
ザラリ、とした、乾いた感触。
力を込めると、キイイイイ……ッ! と、木片が、断末魔のような悲鳴を上げた。
中は、外から見るよりも、さらに、悲惨だった。
床板は、ほとんどが腐り落ち、湿った黒い地面がむき出しになっている。
わずかに残った床板の上にも、得体の知れない、白くヌメヌメとしたキノコが、ニョキニョキと生えていた。
部屋の隅には、明らかに、何かの獣が寝床にしていたのだろう、落ち葉や獣の毛が山積みにされている。
そして、そのフンが、あちこちに、新しく散らばっている。
「…………」
言葉が出ない。
ここは、人間の住む場所ではない。
獣の巣だ。
私はここに、『幽閉』される。
未来永劫。
ライナルト。
ミレーヌ。
お父様。
あなた方は、私に、ここで暮らせと?
この獣のフンにまみれた、腐臭漂う場所で?
『捨て置き』。
あの兵士たちの嘲笑う声が、頭の中でグルグルと回る。
ああ、そうか。
そういうことか。
彼らは、私に死ねと言っているのだ。
それも、ただ、首を刎ねて殺すのではない。
公爵令嬢としての誇りを、人間としての尊厳を、徹底的に踏みにじり、辱め、絶望させ尽くした上で、獣のエサとして、あるいは、この不衛生な場所で病気になって、惨めに苦しんで死ねと。
なんと、手の込んだ『死刑宣告』だろうか。
私の膝から、カクン、と力が抜けた。
私は、その場に崩れ落ちた。
腐った床板が、私の体重で、ミシリ、と音を立てて沈む。
もう、ドレスの汚れなど、どうでもよかった。
「フ……」
私の唇から、乾いた息が漏れた。
「フフフ……」
おかしい。
あまりにも、おかしい。
この用意された、絶望が。
私をここに追いやった、あの連中の底知れない悪意が。
そして、こんな場所で、まだ、生きている私自身が。
「アハ……アハハハハハハ!」
笑いが止まらない。
私は、喉が張り裂けんばかりに笑い続けた。
「屋敷ですって!? これが!? アハハハハ!」
獣の巣の中で、泥だらけの公爵令嬢が、一人、高笑いしている。
これ以上の喜劇が、この世にあるというの?
これ以上の悪夢があるというの?
「見ていらっしゃい、ライナルト殿下! ミレーヌ!」
私は、抜け落ちた屋根の向こう、木々の隙間から見える、憎らしいほど穏やかな灰色の空に向かって、叫んだ。
「これが、あなた方の望んだ結末ですわ! 満足、なさいました!?」
笑いすぎて、涙が出てきた。
いや、これは涙だ。
悔し涙? 悲しみの涙?それとも、絶望の涙?
もう、分からない。
泥と埃と、涙で、私の顔はぐしゃぐしゃだった。
どれくらい、そうしていただろうか。
笑い疲れて、叫び疲れて、私は、腐った落ち葉と獣の毛が積もる、その山の上に倒れ込んだ。
強烈な悪臭が、直接、脳を刺激する。
もういい。
疲れた。
何もかも面倒だわ。
このまま、ここで眠ってしまおうか。
そうすれば、次に目が覚めることはないかもしれない。
それも、いいかもしれない。
あの連中に、これ以上、笑われるくらいなら……。
私の意識は、この悪臭と絶望の底へ、ゆっくりと沈んでいった。




