第二話:絶望の移送
玉座の間から力ずくで引きずり出された私は、まるで罪人のように王宮の裏手へと連行された。
兵士たちの無骨な手は、私の腕を掴んで離さない。引き裂かれたドレスの裾が、冷たく、埃っぽい石の床をこすっていく。さっきまでの華やかな夜会が、まるで遠い昔の出来事のようだ。
「離しなさい! 無礼者!」
私は、公爵令嬢として残された最後の矜持を振り絞って叫んだ。
だが、兵士たちは私の言葉など意にも介さず、ただ嘲笑を浮かべるだけだ。
「まだ、令嬢気取りかよ」
「もうあんたは追放されたんだぜ、毒婦様」
その呼び名に、私の全身がカッと熱くなる。
違う。私はそんなことはしていない。
しかし、私の声はもう誰にも届かない。
彼らは私を、王宮の裏口、使用人や業者が使う薄汚れた通路へと押しやった。
夜の空気が、肌を刺す。
そこに待機していたのは、王家の紋章どころか、まともな装飾すらない、荷物用の幌馬車だった。馬の匂いと、古い藁、そして家畜のフンが混じった、これまで嗅いだことがないような悪臭。
「さあ、乗れ!」
兵士の一人が、私を乱暴に馬車の荷台へと突き飛ばした。
「きゃあっ!」
受け身も取れず、私は荷台に積まれていた汚れた藁の上へと叩きつけられる。
ゴスッ、と鈍い音。
シルクのドレス越しに、硬い床板と、チクチクする藁の感触が伝わってくる。
間髪入れず、荷台の分厚い扉が、ギイ、という耳障りな音を立てて閉められた。
ガチャン、と外から閂がかけられる重い音が響く。
完全な暗闇。
一筋の光も差し込まない、息が詰まるような黒。
それが、今の私の状況を、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
すぐに、馬車がガタン、と大きく揺れ、動き始めた。
御者台に座る兵士たちの、下品な笑い声が、板一枚隔てただけのはずなのに、妙に遠く聞こえる。
王都の石畳の上を、馬車はガタガタと不快な音を立てて進んでいく。
私は、叩きつけられた衝撃でじわりと痛む体を起こそうとした。だが、馬車はわざとやっているのかと思うほど、荒々しく揺れ動く。
ガタン! ゴトン!
そのたびに、私の体は荷台の壁や床に打ち付けられた。
「うっ……!」
もう、令嬢としての体面を取り繕う余裕など、どこにも残っていない。
私はただ、汚れた藁の中にうずくまり、この拷問のような揺れに耐えるしかなかった。
やがて、馬車の速度が少し落ち、何かの門をくぐるような、こもった音がした。
王都の門だ。
私は、もう、あの王都に戻ることはない。
その事実が、冷たい鉄の塊のように、私の腑に落ちていく。
石畳の道が終わり、馬車は未舗装の街道へと入ったらしい。
揺れは、さっきまでの比ではなくなった。
ガッタン! ゴットン!
まるで、巨大な獣の胃袋の中で、消化されるのを待つ獲物だ。
体中が痛い。埃とカビの匂いで、まともに息もできない。
そして何より、私の誇りを容赦なく砕いていくのは、御者台から途切れなく聞こえてくる、あの兵士たちの会話だった。
「いやー、しかし、傑作だったな!」
「ああ、王太子殿下がああもバッサリやるとは思わなかったぜ」
「あのコレットとかいう女、いつもツンとすまして、俺たちみてえな兵士なんざ、虫ケラ同然に見てやがったからな。いい気味だ!」
ゲラゲラと、獣のような笑い声が暗闇に響く。
「それにしても、あのミレーヌ様? だっけか。可愛かったなあ」
「ああ、聖女様だろ? あんなか弱いお方を毒殺しようだなんて、あの女、とんでもねえ悪党だぜ」
「嫉妬、ってやつか。怖え、怖え」
違う。
違う、違う、違う!
私はやっていない。あれはミレーヌの演技だ。私を陥れるための罠だ。
私は、暗闇の中で唇を噛みしめた。
血の味が、じわりと口の中に広がる。
あの時、玉座の間で、最後に見たミレーヌの顔。ライナルト殿下の胸に顔をうずめながら、私に向けた、あの満足げな視線。
あの顔が、この暗闇の中で、嫌というほど鮮明に思い出される。
そして、父。
『アインツベルク家の恥さらしめが』
私を切り捨てた、あの冷たい声。
彼らは皆、グルだったのだ。私という存在が邪魔だった。だから、ミレーヌという『聖女』を担ぎ上げ、私を『毒婦』に仕立て上げた。
あまりにも、稚拙で、悪趣味な芝居。
だというのに、私はその芝居にまんまと乗せられ、今、家畜同然にこんな場所へ運ばれている。
悔しい。
悔しくて、腹の底が、マグマのようにドロドロと煮えくり返る。
だが、今の私に何ができる?
この暗い荷台の中で、不快な揺れに耐え、下品な噂話を聞かされ続けることだけ。
時折、馬車のホロのわずかな隙間から、外の光が細く差し込むことがあった。
その瞬間、隙間から、兵士のいやらしい目が、私を覗き込んでいるのが見えた。
その品定めをするような、ねっとりとした視線。
「ヒッ……!」
私は、思わず身を縮こませた。
引き裂かれたドレスが、はだけている。
公爵令嬢コレット・フォン・アインツベルク。王都の誰からも羨望の的とされ、模範的な淑女として振る舞ってきた私が、今や、名も知らぬ下級兵士たちの欲望の視線に晒されている。
これ以上の屈辱があるだろうか。
私の誇りは、もうズタズタだった。
どれほどの時間が過ぎたのか、もう分からなかった。
太陽が昇り、沈み、また昇る。それを、荷台の中の温度の変化だけで、ぼんやりと感じる。
一日か、二日か。
ガタン、と馬車が止まった。
私は、緊張で体を硬くした。
外から、兵士たちの声がする。
「おい、交代だ。飯だぞ」
荷台の扉が、まぶしい外の光とともに、乱暴に開け放たれた。
目がくらむ。
私は、とっさに腕で顔を覆った。
「ちっ、クセぇな」
聞き覚えのない声。交代した兵士だろうか。
次の瞬間、何かが荷台に放り込まれた。
カタン、と乾いた音を立てて、私の足元に転がったのは、黒く焦げた、石のように硬いパンと汚れた水の皮袋だった。
「ありがたく食えよ、毒婦様。それ食ったら、また出発だ」
扉が、再び無情にも閉められる。
また暗闇。
私は、しばし、足元のパンを見つめていた。
泥と、藁くずがついている。
こんなもの、私が王都にいた頃なら、犬にすら与えなかっただろう。
だが。
グウウ、と、私の腹が、みっともない音を立てた。
生きている。
私は、まだ、生きている。
このまま、惨めに自ら死を選ぶ?
いいや!
そんなの冗談じゃない。
そんなことをしたら、それこそ、あのライナルトとミレーヌの思う壺だ。
私は、その硬いパンを拾い上げた。
その土を払い落とし、力いっぱい、かじりついた。
酸っぱい匂い。口の中で、砂利のようにジャリジャリする。
おいしいも、まずいもない。
ただ、生きるための『餌』だ。
私は、皮袋の水をあおり、パンを無理やり胃袋に流し込んだ。
ポタポタと、何かがパンの上に落ちる。
涙だった。
悔しい。
こんなものを、こんな思いをしてまで、食べなければならない自分が。
こんな場所に、私を追いやった、あいつらが。
許せない。
絶対に、許せない。
私は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、残りのパンをすべて食べた。
◇
再び、馬車は動き出した。
揺れは、前にも増してひどくなっている。もう、まともな街道ですらなくなったのかもしれない。
交代した兵士たちも、やはり退屈しのぎに、私の噂話で盛り上がっているようだった。
「しかしよお、あの追放先ってのは、どうなんだ?」
「ああ、開拓村アステルだろ? 聞いたことあるぜ。王都から馬車で何日もかかる、ド辺境だ」
「それだけでも十分キツいのに、その、さらに外れの森なんだろ? ほとんど、魔獣の縄張りじゃねえか」
魔獣。
その言葉に、私の体がこわばる。
いくら社交界でしか学んで来なかった私でも、その単語が意味する危険性くらいは理解できる。
「まあ、どうせ『捨て置き』なんだろ。あんな場所に追放なんざ、名ばかりだ。すぐに魔獣に食われておしまいさ」
「アハハ! 違えねえ!」
ああ、やはり。
私が考えた通りだ。
これは、緩やかな『死刑宣告』。
ライナルトも、父も、私が辺境で惨めに死ぬことを望んでいるのだ。
「いや、待てよ」
一人の兵士が、不意に声を潜めた。
「俺、昔、その辺の出身のヤツから、妙な噂を聞いたことがある」
「噂? なんだよ、それ」
「あの開拓村の外れの森……あそこには、昔から『魔女』が住んでるって話だ」
魔女。
その古めかしい響きを持った単語が、暗闇の中で妙な現実味を帯びて、私の耳に届いた。
「はあ? 魔女だあ? お前、子供じゃねえんだぞ」
もう一人が、馬鹿にしたように笑う。
「いや、本当なんだって! なんでも、その森に近づいたヤツは、誰も戻ってこねえらしい。得体のしれない、そりゃあ恐ろしい魔女がいて、迷い込んだ人間を……」
ゴクリ、と兵士が唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
「まあ、王都のお偉いさん方は、そんな田舎の迷信なんざ、知らねえだろうがな」
「へえ……。じゃあ、なんだ? あの公爵令嬢サマは、魔獣に食われるか、その『魔女』に食われるかってわけか。どっちにしろ、末路は悲惨だな!」
「まさに、毒婦にお似合いの最期だぜ! ガハハハ!」
兵士たちの下品な笑い声が、ガタガタという馬車の騒音と混じり合う。
だが、私の耳には、もうその笑い声は届いていなかった。
魔女。
得体のしれない、恐ろしい魔女。
未開の地。
それが、私の『終の棲家』。
私の心を、灰色だった絶望が、さらに一段、暗い色に塗りつぶしていく。
そんな場所で、私は、一体どうやって生きていけというの。
いや、そもそも、生きることを許されているのか。
ガタン、とひときわ大きな衝撃が、私の体を打ち付けた。
もう、痛みも感じなくなってきた。
ただ、暗闇と、揺れと、絶望だけが私を包んでいた。




