第十九話:賢者の食卓
あの湿った土と緑の匂いがする森から、重い金貨袋を担いだ金属の従者たちを引き連れて帰還した翌日のこと。
私は、ここ最近では感じたことのない、ある種の高揚感を抱いていた。
理由は単純にして明快。あの悪魔のような『時間割』の合間に訪れる、唯一の人間らしい時間――食事への期待である。
昨日、私はあの変人魔法使いシビルとの『取引』に基づき、開拓村アステルの在庫を根こそぎさらう勢いで、大量の食料を買い込んできた。
最高級の赤身肉、五十キログラム。
朝露に濡れた新鮮な葉物野菜、百キログラム。
ずっしりと重い根菜類に、五百個もの卵。
そして、村人たちが「今年は特に出来が良い」と太鼓判を押してくれた、籠いっぱいの果物たち。
これだけの食材があれば、たとえ料理人が三流でも、素材の力だけでそれなりの食卓が完成するはずだ。
ましてや、シビルは「今日の夕食は、少しはマシなものになるかもしれんな」と、あの小さな口で確かに言ったのだ。
あの『栄養バー』とかいう、味もそっけもない、ただ生命活動を維持するためだけの固形燃料に比べれば、焼いた肉に塩を振っただけの代物であっても、それは天上の晩餐に等しい。
私は、支給された無骨なジャージの襟を正し、心なしか軽やかな足取りで、食堂へと向かう通路を歩いていた。
コンクリートの壁に囲まれた殺風景な通路でさえ、今日ばかりは、王宮の大理石の回廊のように輝いて見える気がする。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
昨日の『竜害』討伐という、命を削るような実戦の疲労も、美味しい食事への期待の前では霧散していくようだ。
ステーキだろうか。それとも、野菜をたっぷり使ったシチューだろうか。
王宮で食べていたような、ソースの香りが鼻孔をくすぐる肉料理を想像し、私の胃袋は、卑しい音を立てそうになるのを必死で堪えていた。
プシュウ、と空気が抜けるような音と共に、食堂の金属扉がスライドする。
中は相変わらず、病院の待合室のように無機質で、飾り気のない空間だった。
銀色の長机と、座り心地の悪そうなパイプ椅子。
壁には、シビルが好む幾何学模様のアートとも呼べない図形が、申し訳程度に描かれているだけ。
だが、今日は違った。
その部屋の空気には、いつもの無臭とは異なる、何かが漂っているはず……。
「……あれ?」
私は、鼻をひくつかせた。
ステーキの焼ける香ばしい匂いも、スープの温かな湯気の香りもしない。
ただ、いつもの、少し埃っぽくて乾いた、機械油の匂いがするだけだ。
先に到着していたシビルが、部屋の隅にある配膳口の前で、腕組みをして待っていた。
相変わらずの、よれよれのローブ姿。ボサボサの銀髪は、今日も櫛を通した形跡がない。
「……遅いぞ、コレット。食事の時間は、一日のスケジュールの中で厳密に定められている。一秒の遅れも、私の研究効率を低下させる要因になり得る」
シビルは、私を見るなり、開口一番に文句を垂れた。
「……あら、ごめんなさいね。少し期待で足が浮ついてしまったみたいだわ」
私は、シビルの不機嫌さをさらりと受け流し、彼女の視線の先にある、配膳カウンターへと目を向けた。
そこには、まだ何も置かれていない。
「それで? 約束の『マシな夕食』はどこにあるの? まさか、これからあなたが腕を振るってくれる、なんてことはないでしょうけれど」
「……私が調理場に立つわけがないだろう」
シビルは鼻で笑うと、カウンターの奥に向かって、パチンと指を鳴らした。
「……おい、持ってこい」
ゴウン、ゴウン。
奥の厨房エリアから、重い足音が近づいてくる。
現れたのは、昨日、私の買い出しに付き添った、あの人間サイズの金属ゴーレムの一体だった。
その手には、大きな銀色のトレイが恭しく捧げ持たれている。
トレイの上には、同じ銀色の、ドーム状の蓋が被せられていた。
おお。
まさか、この無骨な基地で、王宮の晩餐のような演出にお目にかかれるとは。
私は、その銀色のドームを見つめ、期待に胸を高鳴らせた。
あの蓋の下には、肉汁滴る厚切りのステーキか、あるいは色とりどりの野菜が添えられたローストビーフが隠されているに違いない。
ゴーレムは、私の目の前のテーブルに、音もなくトレイを置いた。
「……さあ、食え。これが、お前が昨日、苦労して運んできた『最高品質の食材』。それを最適な状態へと加工した!」
シビルの言い方に、少し引っ掛かるものを感じたが、私はそれを無視した。
照れ隠しに決まっている。
私は、席に着くと、震える手で、その銀色の蓋の取っ手に手をかけた。
「……いただきますわ」
私は、優雅に、その蓋を持ち上げた。
パカッ。
そこにあったのは。
「……………………はい?」
私の口から、公爵令嬢らしからぬ、素っ頓狂な声が漏れた。
皿の上には、ステーキも、ローストビーフも、野菜のグリルも、何もなかった。
あるのは。
四角い、そして、茶色い塊。
一辺が、ちょうど三センチメートルほどの正立方体。
それが、広すぎる皿の中央に、ちょこん、と、五つほど、積み木のように積まれているだけだった。
湯気も立っていない。
ソースもかかっていない。
付け合わせの野菜もなければ、彩りを添えるパセリの一片すらない。
ただの茶色の四角い物体。
見た目は、そう。
子供が泥遊びで作った粘土細工か、あるいは、家畜の配合飼料を固めたブロックのようだった。
「…………」
私は、蓋を持ったまま、石像のように固まった。
脳の処理が追いつかない。
これは何?
前菜?
でも、まさか…。
「……なんだ、コレット。さっさと食わんか。冷めるぞ……まあ、常温でも安定するように設計しているから、冷めても問題はないが」
シビルは、さも当然のように、自分の席に着き、同じ『茶色い積み木』を、フォークで突き刺そうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
私は、ガタン! と音を立てて、椅子から立ち上がった。
「……シビル、あなた、私を馬鹿にしているの?」
「……は??」
シビルは、フォークに茶色い塊を刺したまま、キョトンとした顔でこちらを見ている。
その赤い瞳には、一点の曇りもない、純粋な疑問が浮かんでいた。
「これの!どこが!『マシな夕食』なのよ!?」
私は、皿の上の物体を指差して叫んだ。
「私が買ってきた、あのお肉は!?大量の野菜は!?あの新鮮な卵たちは、どこへ消えたのよ!」
「……ここにあるだろう」
シビルは、フォークの先にある、その消しゴムみたいな塊を、ひょい、と示した。
「……は?」
「……だから、ここにある、と言っているんだ」
シビルは、面倒くさそうに説明を始めた。
「……お前が買ってきた、大量の有機物は、全て、この基地の食品加工プラントに投入された。……そこで、不要な水分、骨、筋、皮、その他、消化吸収に不適切な部位を全て除去し、可食部のみを抽出。……さらに、最適な加工を行い、人間が必要とするビタミン、ミネラル、タンパク質、脂質、炭水化物を最適な形で配合し直した」
シビルは、誇らしげに胸を張った。
「……そして、加熱殺菌、滅菌処理を施し、保存性と携帯性に優れた、この形状へと圧縮成形したのだ。……名付けて、『完全栄養ミートキューブ』だ」
「…………」
完全栄養ミートキューブ。
あまりにも夢のない、そして、食欲を根こそぎ奪い去るようなネーミングセンスに、私はめまいを覚えた。
「……嘘、でしょう?」
「……嘘ではない。……これは、私の魔法理論と、この基地のオーバーテクノロジーが融合した、まさに『食』の革命だ。……従来の『栄養バー』よりも、さらにエネルギー効率が高く、消化器官への負担も最小限に抑えられている」
「私が聞いているのは、そういうことじゃなくて……!」
私は、頭を抱えた。
あの、脂の乗った赤身肉が。
みずみずしい野菜たちが。
とろりとした卵たちが。
全部、すり潰されて、混ぜ合わされて、乾燥させられて、こんな、ブロック塀の欠片みたいな姿にされてしまったなんて。
食材への冒涜だわ!
生産者への反逆行為よ!
あの肉屋の親父がこれを見たら、泣いて怒るに違いない。
「……どうして、そのまま焼いてくれなかったのよ……」
私の口から、悲痛な声が漏れた。
「……焼く? 直火でか?」
シビルは、心底、信じられない、という顔をした。
「……野蛮な。……あんな不安定な加熱方法では、不均一にしかタンパク質が変性しないし、何より、焦げによって発がん性物質が生成されるリスクがある。……そんな極めて野蛮極まりない不確定要素の塊を、私の貴重な『実験体』の体内に入れるわけにはいかん」
「……あなたねえ」
「……それに、生野菜など論外だ。……洗浄したとはいえ、微細な寄生虫や細菌が残留している可能性はゼロではない。……お前が腹を下して、訓練を休むことになったら、その損失は計り知れないんだぞ?」
やはり、シビルの主張は、どこまでも合理的で、そして、どこまでも人間味が欠落していた。
この子にとって、食事とは、ただのパラメータ調整なのだ。
車にガソリンを入れるのと、何ら変わりはない。
「……食べる気になれないわ」
私は、椅子に座り込み、皿の上の『積み木』を睨みつけた。
こんな、ゴムのような、粘土のようなものを口に入れるなんて、人間の尊厳に関わる。
「……ふん。見た目に騙されるな、コレット」
シビルは、私の落胆など意に介さず、自分のフォークに刺したキューブを、パクリと口に放り込んだ。
そして、モグモグと無表情で咀嚼する。
「……お前が気にしていた、『味』には、こだわったつもりだ」
「……味?」
「……ああ。文献にある『人間が脳髄から欲する、極上の肉の味』というデータを元に、味覚成分を合成し、添加してある。……食ってみろ」
言われて、私は、恐る恐るフォークを手に取った。
銀色のフォークの先で、その茶色い塊を突っつく。
プニッ。
硬いと思っていたそれは、予想に反して、妙な弾力があった。
硬めのゴムか、あるいは、古くなったパンの耳のような感触。
ナイフを入れる気にもなれない。
私は、意を決して、その一つを突き刺し、口へと運んだ。
鼻に近づけても、匂いはほとんどしない。
わずかに、人工的な香りがするだけだ。
……ええい、ままよ!
私は、目をつぶり、その『異物』を口の中に放り込んだ。
噛む。
グニュッ。
……うわ、最悪。
歯ごたえは、まさにゴムだった。
あるいは、生焼けのパン生地を、さらに圧縮したような、粘着質で、不快な弾力。
とても、食べ物の食感とは思えない。
吐き出したい。
そう思った、次の瞬間だった。
じゅわっ。
「…………え?」
私の舌の上で、何かが弾けた。
そのゴムのような塊の中から、信じられないほど濃厚な『旨味』が、奔流となって溢れ出してきたのだ。
それは、確かに『肉』の味だった。
それも、ただの肉ではない。
王宮の晩餐会で供されるような、熟成された最高級の赤身肉を、炭火でじっくりと焼き上げ、岩塩と胡椒だけで味付けしたような、あの野生味溢れる、純粋な肉の旨味。
噛めば噛むほど、肉汁のようなエキスが染み出してくる。
脂の甘み。
赤身のコク。
そして、ほのかな炭火の香りがする。
……美味しい。
認めたくないけれど、味だけは絶品だった。
脳が混乱していた。
歯は「これはゴムだ」と訴えているのに、舌と鼻は「これは極上のステーキだ」と認識している。
その認知の不協和音が、頭の中で警鐘を鳴らす。
「……く、悔しいけれど……味は、悪くないわ」
私は、負けを認めるように、ゴクリとそれを飲み込んだ。
喉越しも、また、最悪だった。
粘土の塊を飲み込んだような、胃にドスンと落ちる重み。
しかし、その味に騙されて、私は確かにそれがおいしいと誤認を起こしていた。
それがまた悔しく感じてしまう。
「……だろう? 私の計算に狂いはない」
シビルは、得意げに鼻を鳴らした。
「……けど、食感が最悪よ」
私は、すかさず反撃した。
「……まるで、古くなったタイヤを噛んでいるみたいだわ。……食事には、味だけじゃなくて、歯ごたえとか、見た目とか、そういう『喜び』が必要なのよ」
「……喜び?また、非合理的なことを」
シビルは、呆れたように肩をすくめた。
「……食感など、消化においては阻害要因でしかない。……よく噛まなければならないステーキよりも、このキューブ形状の方が、消化酵素の浸透率が高く、胃腸への負担が少ない。……お前が、訓練後に疲労した状態で摂取するには、これが最適解だ」
最適解。
その言葉が、私の癇に障った。
「……もういいわ。私が自分で作る」
私は、残りのキューブが入った皿を押しやった。
「……幸い、厨房には、まだ加工されていない食材が大量に残っているはずでしょう? ……私が、自分で調理するわ。簡単なスープと、お肉を焼くだけでいいの」
私は、席を立ち、厨房の方へと向かおうとした。
せめて、卵の一つでも残っていれば、オムレツくらいは作れるはずだ。
だが。
「……待て」
シビルの冷たい声が、私の足を止めた。
「……だめだ。それは許可しない」
「……はあ? どうしてよ。自分の食事くらい……」
「……前にも言ったはずだぞ、コレット」
シビルは、その赤い瞳で、私を射抜いた。
「……お前による『加熱調理』など、不確定要素の塊だ。……火加減のミスによる焦げ、調理器具の洗浄不足による細菌の混入、生焼けによる食中毒のリスク。……素人の料理など、毒物を生成する実験と変わらん」
「……失礼ね! 私だって、簡単な料理くらい……!」
「……それに」
シビルは、私の言葉を遮った。
「……お前は、私の貴重な『被検体』だ。……お前のバイタルデータ、栄養摂取状況、代謝サイクル、その全てを、私はこの『完全食』を基準に管理している。……そこへ、お前が勝手に作った、栄養バランスの崩壊した『料理』などというノイズを投入されてみろ」
シビルは、心底、恐ろしいことを想像したかのように、身震いした。
「……データの整合性が取れなくなる! 研究データに誤差が生じる! ……そんな事態は、万死に値する!」
「……万死、って……」
大げさすぎる。
たかが、オムレツ一つで。
「……分かったわよ。……分かりました」
私は、深いため息をついて、再び席に座り直した。
この子と議論しても、勝てる気がしない。
私は、再びフォークを手に取り、残りの『茶色いゴム』を突き刺した。
「……食べてやるわよ。……食べればいいんでしょう」
私は、ヤケクソ気味に、キューブを口に放り込んだ。
グニュッ。
じゅわっ。
不快な食感と、天国のような味が、口の中で喧嘩をする。
なんとも言えない体験。
私は、無心で顎を動かしながら、目の前の少女を観察した。
シビルは、この物体を何の疑問も抱かずに、摂取し続けている。
たしかに彼女にとっては、これが『食事』の終着点なのかもしれない。
ああ……まあ、ある意味で、人類すべての食事を終わらせる終着点なのかもしれないけれど。
(……本当に、変わった子)
私は、この味気ない食堂で、最高級の食材が無残な姿に変わり果てた『完全食』を口に放り込みながら、自分の置かれた状況というものを、改めて噛み締めていた。
これが、私の求めた『マシな夕食』の結末だなんて。
前途多難だわ、本当に。
私は芳醇すぎる肉の味を感じながら、強い頭痛を感じた。




