第十二話:竜害警報
グルルルルルル…………ッ!
視界が、回る。
青い空と、白い雲海が、ミキサーにでもかけられたみたいに、目の前でぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。
「んぐ…………っ! ああああああっ!」
ダメだ、息が、止まる!
全身を、見えない巨人の手で、ぎりぎり、と雑巾みたいに絞り上げられる、あの忌まわしい『G』の圧迫感!
血が、頭から足先へと、一気に引きずり下ろされていく。
『……遅い!』
頭の中に、あのクソ生意気な『声』が、雷みたいに叩きつけられた。
イーグル!
『旋回機動からの上昇が、コンマ二秒遅れた! 貴公は、地面に激突して死にたいのか!?』
「む、無茶苦茶、言わないでよ……! こっちは、Gに耐えるだけで、精一杯だってのに……!」
『耐えろ!感覚を掴め!』
イーグルの容赦ない叱咤が、私の脳髄を直接、殴りつけてくる。
『この程度の負荷で、意識を手放すような『素人』に、私の翼を預けるつもりはない! 魔力を回せ! 身体強化のイメージを、全身に張り巡らせろ! 田舎王国の公爵令嬢として、叩き込まれた技術なのだろう!』
「や、やっているわよ! 今、必死に……!」
私は、奥歯をギリギリと噛みしめ、失神しかける意識の端っこで、必死に体内の『魔力』をかき集めた。
それを、見えない鎧みたいに、全身に、ぎゅっと纏わりつかせる。
公爵家で、こんな『実践的』な使い方を想定して、訓練させられたわけじゃないけれど!
でも、これをやらないと、私は、この『仮想空間』とかいう、地獄の訓練で、一分と持たない!
「……んあああああああっ!」
叫び声にならない、うめき声を上げながら、私は、右手に握った『操縦桿』に、魔力と『意志』を叩き込む。
――上よ! 上に、上がりなさい!
グオオオオオオオオオオオオッ!!
「きゃああああああああっ!?」
今度は、真下から!
さっきまでの旋回とは、比べ物にならない、象にでも踏みつけられたかのような、凄まじい圧力が、私を、座席の背もたれに、ベチャリと、張り付かせにかかってくる!
速い!
目の前の青空が、一瞬で、真上の、暗い宇宙の色に変わっていく!
急上昇!
『……ふん。ようやく、ハイハイから、つかまり立ちを覚えたか、赤子め』
「だ、誰が……! 赤子よ……っ!」
私は、圧迫される肺から、空気を絞り出しながら、必死に、言い返してやった。
シビルという、あのとんでもない子供に、この『基地』に拾われてから、もう、どれくらい経ったのか。
分からない。
この『基地』の中は、太陽の光も、月の光も、届かない。
あるのは、あの『管制室』の、白々しい照明と、シビルの、研究効率に基づいた、合理的な『時間割』だけ。
そして、私は、その『時間割』の大半を、この狭い『コックピット』の中で、過ごしていた。
来る日も、来る日も。
このクソ生意気な『人工妖精』イーグルに、こき下ろされながら。
あの悪魔みたいな子供、シビルに、私の絶叫や、失神寸前のデータを『貴重なデータ』として、記録されながら。
この『仮想空間』とかいう、地獄で、空を飛ぶ『訓練』をさせられ続けていた。
最初は、ただ、まっすぐ飛ぶことすら、ままならなかった。
『操縦桿』を、力任せに握りしめては、『原始的だ』とイーグルに嘲笑われ。
『G』の圧迫感に、何度も、みっともなく、意識を手放しかけた。
けれど。
(……悪くない)
私は、この全身の血が、沸騰しそうになるような、圧迫感の中で、不覚にも、そう感じていた。
王宮で、あの磨き上げられた床の上で、習わされていた、社交ダンス。
決められたステップ。
決められた相手。
決められた笑顔。
息が詰まるような、退屈な『お人形遊び』に比べれば。
この、死ぬか生きるか、一瞬の油断が、意識の途絶に繋がる、この『空』は。
何倍も、何百倍も、マシだった。
いいえ、マシ、なんかじゃない。
(……楽しい)
そう。
この鋼鉄の竜が、私の『意志』で、私の『魔力』で、空を切り裂く、この感覚。
あの傲岸不遜なイーグルが、ほんの少しずつ、私を『乗り手』として、認め始めている、この手応え。
それが、私、コレット・フォン・アインツベルクが、生まれて初めて、心の底から感じた『歓喜』だったのかもしれない。
『……おい、お嬢様。ニヤついている暇があるか』
「ニヤついてないわよ!」
『……嘘をつけ。貴公の魔力の流れが、ほんのわずか、緩んでいる。……その『G』の中で、一瞬でも気を抜けば、どうなるか。……また、地面に叩きつけられたいか?』
「くっ……! 分かっているわよ!」
私は、再び、全身の魔力と筋肉に、力を込めた。
急上昇で、暗転しかけた視界が、クリアに戻ってくる。
機体は、今、音速を超える速度で、この『仮想空間』の、どこまでも続く、青空を、突き進んでいる。
そう。
ようやく、まともな『連携』が、取れ始めてきた。
この生意気な『相棒』と、私と。
高速での飛行。
急旋回。
そして、この、地獄のような『G』への耐性。
この調子なら、いつか本当に……。
私が、そんな、復讐への新たな手応えを、掴みかけた、その瞬間だった。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!
「…………は?」
いきなり。
鼓膜を、直接、引き裂くかのような、けたたましい『警報』が、鳴り響いた。
それは、コックピットのスピーカーから、でもなければ、私の頭の中の、イーグルの『声』でもない。
この『基地』全体から、鳴り響いている、本当の『アラーム』!
『……チッ』
私の頭の中で、イーグルが、忌々しそうに、舌打ちをした。
ブツンッ!
次の瞬間。
目の前に広がっていた、あの、真っ青な『仮想空間』が、テレビの電源が、乱暴に引き抜かれたみたいに、唐突に、真っ暗になった。
「きゃっ!?」
いきなり、現実へと、引き戻される。
そこは、さっきまでの、光あふれる『空』ではない。
格納庫の、白々しい照明に照らされた、狭く、暗い、『コックピット』の中。
目の前には、今は、もう、光を失った、黒い『計器』の群れ。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!
あの、耳障りな警報だけが、この現実の『格納庫』の中で、ガンガンと、鳴り響いている。
「な、なんなのよ、一体!?」
私は、さっきまでの『G』の訓練で、まだ、ジンジンと痺れている体で、必死に、スピーカーに向かって、叫んだ。
「シビル! 何が、起きたのよ! また、あなたの『実験』の、一環でしょう!」
『…………』
返事がない。
スピーカーは、沈黙している。
ただ、あの、けたたましい、警報の音だけが、私の不安を、無責任に、かき立てていた。
「シビル! 答えなさい!」
私が、もう一度、怒鳴りつけた、その時。
『……うるさいぞ、お嬢様。少し、静かにしろ』
私の頭の中で、イーグルが、さっきまでの、訓練中の、あの傲岸不遜な『声』とは、まったく違う、どこか、張り詰めた、低い『声』で、私を制した。
「な、なによ……!」
『……これは、訓練ではない。……本当の『警報』だ。……そして、マスターは、今、それの対応に、追われている』
「本当の……警報?」
その言葉に、私の背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がってくる。
あのシビルが?
あの、いつも、ふてぶてしく、『玉座』にふんぞり返って、私を『研究素材』としか、見ていない、あの子供が。
今、対応に、追われている?
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!
警報は、鳴り止まない。
それどころか、さっきよりも、さらに、音量が上がった気がする。
ゴウン、ゴウン、と、格納庫のどこかで、ゴーレムたちが、慌ただしく、動き回るような、重い足音が、反響している。
なんなのよ、一体。
この、鉄壁のはずの『基地』で、何が、起きているっていうの……!
私が、この、訳の分からない、重苦しい空気と、けたたましい警報音の板挟みになって、どうしていいか、分からずにいると。
ザ…………。
スピーカーの電子的な雑音。
そして。
『…………チッ。面倒なものが、起きたな』
シビルの、いつもの、眠たそうな、あの『声』が聞こえてきた。
けれど、その『声』は、いつもの、眠たそうな響きの、その奥底に。
明確な『苛立ち』と、ほんのわずかな『焦り』のようなものが、滲んでいるのを、私は、聞き逃さなかった。
「シビル! どうしたのよ! 何が、あったの!」
私は、スピーカーに向かって、叫び返した。
『……ああ、コレットか。……うるさい警報は、今、止めた』
シビルが、そう言った、次の瞬間。
ウウウウウウウウウウッッ!!
と、鳴り響いていた、あの、耳障りな警報が、ピタリ、と止んだ。
シーン……。
格納庫に、静けさが戻る。
いや、静けさじゃない。
さっきまでの、けたたましい音が、消えたことで、逆に、この、異常な事態の『重さ』が、私の体に、ずしり、と、のしかかってきた。
「……何が、面倒なもの、ですって?」
私は、ゴクリと乾いた唾を飲み込みながら、尋ねた。
『……ああ。今、基地の外に置いている、外部センサー……この基地の周囲に張り巡らせた、魔力探知網が、異常な反応を捉えた』
「異常な反応?」
『そうだ。……開拓村アステル。……お前が、捨て置かれていた、あのクソ田舎の村だ』
「あの村が……!?」
あの村が、どうしたというのよ。
『……その、開拓村アステル方面に向かって、異常に強大な魔力反応が接近している』
シビルの声は、淡々としていた。
まるで、天気予報でも、読み上げるかのように。
『……あの村の貧弱な自警団や役に立たない、村の『魔法使い』ごときでは、到底、太刀打ちできんだろう。……放っておけば、あの村は、今日、消滅するだろうな』
「しょ、消滅……!?」
な、なによ、それ!
いったい、何が、あの村に向かっているっていうのよ!
シビルは、私の、そんな焦りなど、まるで意にも介さず。
どこか、楽しそうにさえ、聞こえる『声』で、続けた。
『……ふむ。ちょうどいい』
「は…………?」
『ちょうどいい、と言ったんだ』
シビルの声が、あの、私を『研究素材』として、見定める時の、あの無邪気で残酷な『声』に、変わっていく。
『コレット』
「な、なによ……!」
『シミュレーターは、そこまでだ』
シビルは、高らかに、そう、宣言した。
『ちょうどいい、サンプルが、向こうから、やって来てくれた。……これより、『実践テスト』を開始する』
「……………………は?」
私の口から、間抜けな声が漏れた。
今、このちんちくりんのお子様は、何て言った?
じっせん?
「はあああああっ!? 実践ですって!?」
私は、思わず、コックピットの中で、素っ頓狂な声を上げた。
冗談じゃないわよ!
「ま、待ちなさいよ! 実践って、どういうこと……!」
あの『仮想空間』の中で、グルグル回されていただけじゃないの!
それなのに、いきなり実践!?
何かの本物と戦えとでも言うつもり!?
『……ああ、問題ない。出撃だ!』
シビルは、私の、この必死の抗議を、いつものように鼻で笑うかのように、一蹴した。
『……相手は、ちょうどいい。……お前の『鉄の竜』の、最初の『獲物』として、これ以上ない、上等な交戦相手だ』
「だ、だから! その相手は、なんなのよ!」
シビルは、私の問いに、ようやく、答えた。
その声は、どこまでも、淡々としていて冷たかった。
『……開拓村アステルの近隣に、『巨大な野生のドラゴン』が接近している』
「…………」
ドラゴン。
竜。
アステル王国の、あの『竜騎士団』が乗っている、あのトカゲのお化け。
それも、『巨大な』、『野生』の?
『……そうだ。お前たちの、原始的な世界で言うところの……』
シビルは、そこで、わざとらしく言葉を切ると。
まるで、私に、判決を言い渡すかのように、告げた。
『――『竜害』だ』
竜害。
その言葉が、アステル王国の公爵令嬢として、育てられてきた、私の『記憶』の中で、最悪の『意味』を持って、響き渡った。
天災。
地震や洪水と同じ。
人の力では、どうすることもできない、圧倒的な『厄災』。
私は、コックピットの中で言葉を失い、ただ呆然としていた。




