第十一話:重力の洗礼
私の必死の絶叫が、コックピットに響き渡るのと。
機体が、ありえないほどの角度で、急旋回を始めたのは。
まったく、同時のことだった。
「なっ…………!? ぎゃあああああああああっ!?」
グググググググウウウウウウウウッッ!!
とんでもない『力』が、私の全身を座席に向かって、真横から押し潰しにかかってきた!
それは、あの魔獣に追いかけられた時の恐怖とも、荷馬車で揺さぶられた時の不快感とも、まったく違う、純粋な『暴力』!
重い!
息が、できない!
まるで、私と座席の間に、昨日私を粉砕しようとした、あの岩石のゴーレムが入り込んできて、その全体重で、私を押し潰しにかかっているみたいだ!
「んぐっ……! う、ぐ……っ!」
喉の奥から、カエルが潰れたような、みっともない声が漏れる。
ダメだ、血が、全部、体の左側に持っていかれる!
顔の右半分が、急に冷たくなって、左半分に、全部の血液が集まってくるような、気持ちの悪い感覚!
視界が、ぐにゃり、と歪む。
いや、これは比喩なんかじゃない!
本当に、目の前の青空が、粘土みたいに、ぐにゃぐにゃと、ねじ曲がっていく!
『……ほう。これが貴公の限界か、お嬢様』
この、地獄のような圧迫感の中で、あの忌々しい『声』が、私の頭の中に平然と響いてきやがった。
イーグル!
「うるさ……い……! な、なにを……しやがるのよ……っ!」
私は、圧迫される肺から、最後の空気を絞り出すようにして、叫び返した。
『なにを、とは? マスターの命令通り、貴公に『空』の厳しさを教えてやっているだけだが?』
「こ、これが……!?」
『そうだ。……これが、貴公たちの貧弱な肉体にかかる『負荷』。……貴公の前世の記憶とやらが、『G(重力加速度)』と呼んでいたものだ』
知ってるわよ!
前世の記憶で、ジェットコースターとかいう、鉄の箱に乗せられて、この何十分の一かの『力』で、キャーキャー言っていた、あの感覚!
でも、これは、そんな生易しいものじゃない!
本気で、私を潰しに来ている!
「や、やめ……! やめなさ……!」
ググググググウウウウウウウウッッ!!
旋回が、さらにキツくなる!
ダメだ、意識が……!
目の前が、チカチカし始めた。
視界の端から、ゆっくりと、黒いカーテンが閉まってくるみたいに、何も見えなくなっていく。
これが『ブラックアウト』……!
私、失神する……!
私が、このまま、意識を手放しかけた、その瞬間。
フッ、と。
ほんの、ほんのわずかだけれど。
私を押し潰していた、あのゴーレムの手が緩んだ。
「……はっ……! ……はあっ……!」
閉じていた黒いカーテンが、サッ、と開いて、視界が戻ってくる。
肺に、ようやく、空気が流れ込んできた。
機体は、まだ旋回している。
相変わらず、とんでもない『G』とやらが、私にかかり続けている。
でも、さっきの意識が刈り取られるほどの圧迫感ではない。
……手加減、した?
こいつ、今、わざと……!
『……耐えろ、お嬢様』
イーグルの『声』が、さっきまでの嘲笑うような響きとは、少しだけ違う、どこか、真剣みを帯びた感じで、私の頭に響いてきた。
『これが『空』の洗礼だ』
「く……っ!」
マジか……!
こいつ、私が失神しない、ギリギリのところで、この『G』とやらを調整しやがった!
なんなのよ、それ!
私を試しているっていうの!?
なめないでちょうだい!
私が、誰だか、忘れたの!?
私は、コレット・フォン・アインツベルク!
あの、アインツベルク公爵家の、誇り高き令嬢だったのよ!
こんな、鉄の塊の、訳の分からない『洗礼』ごときで、みっともなく、意識を失ってたまるものですか!
「……あああああああああっっ!!」
私は、腹の底から、声にならない叫びを上げた。
全身の筋肉に、ありったけの力を込める!
お腹に! 足に! 首に!
この見えないゴーレムを、押し返してやる!
『……ほう? 貧弱な肉体にしては、少しは、抗うか』
「うるさ……い……!」
私が、歯を食いしばって、その圧迫感に耐えていると。
今度は、コックピットのスピーカーから、あの悪魔の『声』が、割り込んできた。
『……ふむ。右旋回による負荷データ、取得完了。……心拍数、基準値を大幅に超えている。……血圧も、いつ失神してもおかしくはない。……だが、意識は、かろうじて保持しているな!死にはしないだろう!問題ナシ!』
シビル!
全部、あの『管制室』で、私のデータを他人事みたいに記録しているわね!
『……よし。素晴らしいデータだ、コレット。……では、次だ』
「え……?」
『イーグル! 次は、左だ! 同じ負荷で、逆方向への旋回を開始しろ! 左右の筋肉の反応差を、測定する!』
「ま、待ちなさーーーーーい!?」
私の、悲痛な叫びも、むなしく。
フッ、と、右側からかかっていた圧力が、一瞬だけ、消え失せた。
つかの間の無重力。
そして、次の瞬間。
グググググググウウウウウウウウッッ!!
「ぎゃあああああああああっっ!!」
今度は、真逆!
左側から、さっきと、まったく同じ強さの『力』が、私を座席の右側へと、叩きつけにかかってきた!
「んぐっ……! ごふっ……!」
ダメだ、さっき、右側に寄っていた血が、今度は、全部、左側に逆流してくる!
頭が、ぐわんぐわん、する!
気持ち、悪い……!
『耐えろ、と言ったはずだ、お嬢様!』
「む、無茶苦茶、言わないでよ……!」
『これが、無茶苦茶だと? ……笑わせるな。これは、まだ『飛行』ですらない。……ただの『方向転換』だ』
「こ、これが……!?」
『……そうだ。マスター、このまま、急上昇(ハイGクライム)に、移行する』
『許可する。上昇角度、六十度。……機体への負荷と、パイロットの精神的負荷のデータを取る』
「な、なにを……勝手に……!」
私が、抗議の声を上げるよりも、早く。
グウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!
「あががががががっ!?」
今度は、真下!
真下から、さっきまでの旋回とは、比べ物にならないほどの凄まじい『力』が、私を、座席の背もたれへと、押し潰しにかかってきた!
ダメだ!
体が、持ち上がらない!
腕が、上がらない!
指一本、動かせない!
目の前の青空が、急速に、上へと流れていく!
機体が、今、機首を、真上に近い角度で、空へと突き進んでいる!
私は、その機体の中で、まるで巨大な象に、真正面から踏みつけられているみたいになっている!
息が……!
息が、吸えない……!
肺が、背中に張り付いちゃいそうだわ!
視界が、また暗くなっていく。
さっきの『ブラックアウト』よりも、もっと早い!
ダメだ、今度こそ、本当に……!
『……チッ。貧弱すぎるな!』
イーグルの忌々しそうな『声』が響いた、瞬間。
フッ、と。
また、あの象の足が、ほんの少しだけ緩んだ。
私が、失神する、ギリギリのところで、こいつ、また『手加減』しやがった!
まさに地獄だ!
「はあっ……! はあっ……! はあっ……!」
私は、スポンジみたいになった肺で、必死に空気を吸い込んだ。
「あ、あなた……!いい加減に……!」
『……マスター。この『素材』では、この程度が限界のようだ。……これ以上の負荷は、失神する。……そうなれば、貴女の『貴重な研究時間』とやらが、無駄になるが?』
イーグルが、シビルに向かって、報告(?)している。
なによ、それ!
私が、弱いって言いたいの!?
『……ふむ。確かに、これ以上のデータは、望めそうにないな。……よし、イーグル。今日の『Gの洗礼』は、そこまでだ』
シビルの、どこか、つまらなそうな『声』。
『……機体を、水平飛行に戻せ。……その後は、お前に任せる。……コレットが失神しない程度に、基礎的な機動訓練を、叩き込んでおけ』
「はあっ!? ま、まだやるの!?」
『当たり前だ。……コレット。お前は、まだ『飛んで』すらいないのだぞ?』
シビルの無慈悲な声が、スピーカーから響き渡る。
プツン。
スピーカーが、一方的に切れた。
……あ、あの子供……!
言いたいことだけ、言って、切りやがった!
『……とのことだ、お嬢様』
私の頭の中で、イーグルが、心底、うんざりした、という『声』で、呟いた。
「……あなたも、よ! さっきから、私を『貧弱』だの、『限界』だの!」
『事実を言ったまでだ』
「ぐ……っ!」
こいつ……!
本当に腹が立つ!
『……だが』
イーグルが、不意に言葉を続けた。
『……コレット。貴公、今、何をした?』
「は……? なに、って……?」
『さっきの急上昇(ハイGクライム)。……あの、象に踏まれたような圧迫感の中で。……貴公、ただ、気絶するのを我慢していただけではないな?』
「え……?」
言われてみれば。
あの時、私は、必死に意識を保とうとしていた。
全身の筋肉に、力を込めていた。
それと、同時に。
……ああ、そうだ。
私は、無意識のうちに、やっていた。
『魔力』を。
体の中を巡る、あの、アインツベルク公爵家の『力』を。
全身に張り巡らせていた。
あの見えないゴーレムや、象の足から、自分の内臓や血管が押し潰されないように。
守るために。
公爵家で、やらされた、あの訓練。
『魔力による身体強化』の、ごくごく基礎の基礎。
あんなもの、護身術として、本当に役に立つのかと疑っていたのだけれど。
今、私は、無意識にそれをやっていた。
『……ほう』
イーグルの『声』に、ほんの爪の先ほどの大きさだけれど。
『感心』とでも、いうような、響きが混じった気がした。
『……なるほどな。……ただの魔力だけが取り柄の世間知らずの令嬢、というわけでも、ないか』
「な……! 私をなんだと思っていたのよ!」
『……ふん。ほんの少しばかり、見直した、ということだ』
「…………」
な、なによ、それ。
さっきまで、あれだけ、私を『素人』だの、『赤子』だの、こき下ろしていたくせに。
急にそんな……。
……ダメだわ、調子が狂う。
イーグルは、そんな私の混乱など、お構いなしに続けた。
『……いいだろう。マスターの命令だ。……そして、貴公も、ほんの少しだけ見込みがある、と、絶対的な制空戦闘機たる、この私が特別に認めてやる』
「み、認めて……?」
『ああ。……本当の『空』を教えてやる』
「え……?」
『……いいか、コレット。……もう一度、私と『繋がれ』』
イーグルの『声』が、さっきまでの嘲笑うような響きでも、叱咤するような響きでもなく。
もっと、静かで、深い、『教師』のような響きに、変わっていた。
『……魔力を流し込め。……そしてその『操縦桿』を力任せに握るな。……貴公の『体』、そして、一部として感じろ』
「私の体……」
私は、ゴクリと唾を飲んだ。
さっきまでの疲労が、嘘のように背筋が、ピン、と伸びる。
私は、言われた通り、深く息を吸い込み。
再び、意識を内側へと、集中させた。
ジン…………。
私の魔力が、再び、この鋼鉄の竜の、隅々へと染み渡っていく。
さっき、初めて右に曲がった時よりも、もっと深く。
もっと、鮮明に。
この機体が私の『手足』になっていく、あの不思議な感覚。
『……そうだ。その感覚だ』
イーグルの『声』が、私の思考を導いていく。
『……では、行くぞ、コレット。……今度は、貴公の『意志』で飛んでみせろ』
イーグルの言葉と同時に。
機体を安定させていた、『補助』が。
スッ、と、消え失せた。
「…………!」
一瞬、体がふわり、と浮く。
さっき、墜落した時の嫌な感覚が蘇りそうになる。
「ひっ……!」
『……落ち着け!』
イーグルの鋭い『声』が、私のパニックを寸前で叩き伏せた。
『……イメージしろ! 貴公は、今、飛んでいる!この鋼鉄の翼は、貴公のものなのだ!』
「わ、私の……翼……!」
『そうだ! 左手の『スロットル』を、両方とも、ゆっくりと前に押し出せ!ただ、押すな!魔力を込めろ!真っ直ぐ『前へ』と、強くイメージしろ!』
「ん……!」
私は、言われた通り、左手の『スロットル』を、ゆっくりと前に押し込む。
そこに魔力を込めて。
――前へ!
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!
「きゃっ!?」
さっきまでの『G』とは、違う!
今度は、背中から、座席に、ドンッ! と、蹴飛ばされたような、強烈な『加速』!
目の前の青空が猛烈な勢いで、後ろへと飛んでいく!
速い!
速い、速い、速い!
「こ、こんなに……!?」
『……この私の、ほんのごく一部、『力』の入り口だ!』
イーグルの『声』が、どこか誇らしげに響き渡る。
『……さあ、どうする、コレット! このまま、まっすぐ突っ込むだけか!? あのマスターの『研究』とやらが、終わるまで、ただ、加速し続けるか!?』
「そ、そんなわけ、ないでしょう!」
私は叫び返した。
もう、さっきまでの恐怖は、どこかへ吹き飛んでいた。
代わりに、私の胸を焦がしているのは。
興奮。
そして歓喜。
これが空を『飛ぶ』っていうこと……!
「……右よ!」
私は、魔力を込めたまま、右手の『操縦桿』を、さっき教わった通り、わずかに、ゆっくり右へと傾けた。
――曲がれ!
グウウウウウウウウウッッ!!
「んんんんんんんっっ!!」
また、来た!
あの『G』!
左側から、私を、押し潰そうとする、あの、見えないゴーレム!
でも!
さっきとは、違う!
私は、もう、ただ潰されるだけの哀れな『素材』じゃない!
「……あああああああっっ!!」
私は、叫びながら、全身に『魔力』を巡らせる!
あの、ゴーレムの『圧迫』に、真正面から抗ってやる!
そして、機体は、私の『意志』に応えて、右へと旋回していく!
「……やった」
私の口から、今度こそ、はっきりとした歓喜の声が漏れた。
「やったわ! イーグル!」
『……ふん。ようやく、赤子がハイハイを覚えた程度だな』
「な……!また!私が赤子ですって!?」
『そうだ。……だが』
イーグルの『声』が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
『……まあ、今日のところは、上出来だ。……お嬢様』
「…………」
なんなのよ、こいつ。
本当にムカつく!
でも。
でも、今は……。
私は、目の前に広がる、どこまでも続く、青い空と白い雲海を見つめていた。
まあ、もはや公爵令嬢コレット・フォン・アインツベルクは、一度死んでいるのだ。
あの獣の森で、泥の中に突っ伏した、あの瞬間に。
そして、今。
私は、空にいる。
この生意気で傲岸不遜で、ムカつく『声』の、鋼鉄の竜と一緒に。
……悪くない。
いいえ、最高よ!
「……見てなさい、イーグル!」
私は、操縦桿を握りしめ、加速する機体の中で、高らかに宣言した。
「私、すぐに、あなたを、乗りこなしてみせるわ!そして……!」
私の脳裏に、あの、玉座の間で、私を嘲笑った、あの連中の顔が浮かぶ。
ライナルト。
ミレーヌ。
お父様。
「……絶対に、後悔させてやるんだから……!」
私の冷たい決意が、この『仮想空間』の青空に広がっていく。




