講和へ向けた進攻
講和へ向けた進攻
インドとスエズ運河を失い、追い詰められたイギリスは政権交代し、中立を宣言した。
1945年3月、まともに戦える連合国はアメリカとソ連だけとなり、そのソ連をもアメリカは支え、太平洋、大西洋、西部戦線、イタリア戦線、アフリカ戦線と戦場を抱えていた。
太平洋戦線では、ウェーク島をB-29やB-24で爆撃する事もあったが、日本の迎撃機に対応され爆撃を成功させる事ができるのは、B-29による高高度爆撃ぐらいだった。
それも、日本のジェット戦闘機が迎撃に上がるようになってからは、容易に爆撃を成功させるのは困難になっていった。
東太平洋では日独の潜水艦が跳梁しており、艦船への被害が続出していた。
ドイツUボートはソ連への支援船団を狙っていたが、旧式のUボートであったため対処できる事も多かった。
大西洋では、ドイツの新型Uボートが猛威を振るっており、戦地への輸送が阻害されていた。
特に西部戦線への補給が妨害されており、フランスでは苦しい戦いを強いられていた。
イタリア戦線では、イギリス軍が抜けた事でドイツ軍の反転攻勢が止められず、後退を繰り返していた。
北アフリカでは日本軍にスエズ運河を押さえられ、日本艦隊が地中海に入ってからは夜間の制空権・制海権を奪われていた。
リビアとチュニジアの要所を確保されてからは、日本の夜間空襲を行う航空機が多数配備され、地中海に安全な場所はなくなった。
地中海の昼間はドイツ空軍が活動し、夜間は日本軍が夜襲をかけてくる。
イタリアへの補給線が航空攻撃に晒されるため、イタリアからの撤退も検討されていた。
北アフリカのアメリカ軍と自由フランス軍は、チュニジア・アルジェリア・西リビアで日本軍への攻撃を試みたが、日本の航空機の攻撃圏内に入った段階で夜間空襲を受ける事になり、逆に北アフリカの枢軸勢力圏を広げる結果となっていた。
これによりチュニジアは完全に制圧され、ヴィシーフランスの統治下に入った。
現在、日本軍の戦車はM4中戦車と同程度の物が確認されており、戦車同士の戦いとなれば互角以上に戦えるのだが、とにかく夜間空襲と歩兵の夜襲が強く、M4中戦車もバズーカを持った歩兵に撃破される事が多かった。
あまりの日本歩兵の強さに、「M4中戦車の装甲を刀で切り裂いた」などという話が出てくる程であった。
アメリカを対独参戦させるために、三国同盟を結んでいた日本を挑発し、アメリカに宣戦布告をさせる事には成功した。しかし、アメリカの準備が整い反撃を開始し、日本をこのまま屈服させるはずだったのだが、1943年夏頃からおかしくなってしまったのである。
今では日本どころかドイツも盛り返しつつあり、東部戦線ではソ連軍を押し戻しつつあった。
物量が強みだったアメリカは、日独の潜水艦の通商破壊により、前線に大量の物資を送る事ができず苦戦していた。
アメリカに残された手札は少なく、もはやマンハッタン計画の新型爆弾成功に期待するしかなかった。
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1945年4月。日本は日ソ中立条約の不延長をソ連に通告した。
これで独ソが講和するのならば、戦争終結も早まったのだろうが、細いとはいえアメリカからの支援も続いており、ソ連はドイツと講和する事はなかった。
日本はスエズ運河を確保し、西リビア・チュニジアにも航空基地を進出させた。
北アフリカの航空基地には有力な航空戦力を展開し、魔法と技能持ちによる夜間空襲を行わせ、日独の地中海航路を安定化させていた。
日本は、機動部隊が地中海に入った段階で夜間空襲の範囲を広げ、制空権下で西リビアとチュニジアの要所へ夜間上陸作戦を行い、飛行場を確保していった。
連合国軍の戦力は、フランスやイタリア方面に偏っており、北アフリカには大戦力は展開していなかった。
海上から日本機動部隊が制空権を確保し、エジプト、西リビア、チュニジアへと航空基地を前進させていき、連合国軍の反撃を排除していった。
西リビアとチュニジアの占領地に対する、連合国軍の大規模な奪還作戦が行われようとしていたが、魔法と技能を活かした偵察によりこれを察知し、夜間空襲と陸軍の夜襲で粉砕し、占領地が拡大する結果となった。
チュニジアと、西リビアやアルジェリアの占領地はヴィシーフランスへ引き渡し、日本は西リビアとチュニジアの要所を飛行場として使用していた。
日本の目的は地中海航路の安定であり、占領地拡大ではなかった。
地中海航路が安定し、北アフリカの基地航空隊が整った段階で、日本海軍は二線級の小型空母数隻と護衛艦隊を残し、主力の機動部隊を引き上げさせた。
インド洋も安定しており、戦艦部隊はインド沿岸に攻撃目標がなくなった段階で、本土へ引き上げていた。
アンダマン・ニコバル諸島、セイロン島、アッズ環礁、ソコトラ島は航路の安全確保のため確保されており、哨戒のための航空隊や護衛艦艇が展開していた。
地中海からインド洋、そして日本へと航路が安定した事から、交易が再開されており、技術交流なども盛んに行われていた。
日独の巻き返しの結果として、各戦線へのアメリカによる補給を阻害しており、ソロモン諸島以上の消耗をアメリカに強いていた。
しかしそれでもアメリカは講和には応じず、徹底抗戦の構えだった。
つまり、アメリカの民意は継戦を容認しており、それを挫くには米本土への攻撃しかないと考えられた。
かつて、真珠湾奇襲攻撃を行えば米国民の戦意は萎え、早期講和ができるという考えがあったが、その程度では駄目な事は証明済みであった。
日本は米本土攻撃を覚悟したのであった。
1945年6月。日本はハワイ諸島を攻撃し、オアフ島以外を占領した。
日本艦隊は、オアフ島とミッドウェー島へ同時に夜間空襲を加え、ミッドウェー島には艦砲射撃も行い無力化した。
今まで日本軍はウェーク島での防戦しか行ってこなかったため、この攻撃は意表を突く形となり、オアフ島とミッドウェー島の米航空戦力や艦船を悉く撃破できた。
戦艦陸奥はオアフ島近海に進出し、オアフ島の無力化を担当し、他の艦隊は周辺の島嶼の攻撃を行った。
ミッドウェー島やジョンストン島などを占領し、ハワイ諸島の島嶼もオアフ島以外は順次占領していった。
オアフ島は攻略に時間が掛かるため、無力化だけにとどめ補給を断つ方針だった。
厄介なオアフ島の砲台も、戦艦陸奥の精密な砲撃によって全て無力化に成功していた。
役目を終えた機動部隊は補給を受け、米本土へ向かった。
戦艦部隊も地上への支援を終えた後は、補給を受け米本土への進路をとった。
戦艦陸奥はオアフ島の無力化を行った後、補給を受け米本土へ高速で向かった。
目指すはサンディエゴであった。
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