第二部 第三章 メルトダウン
文学フリマ東京41に出展します!
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志乃田響子を抱いた、その瞬間に私を襲った感覚は、落胆にも絶望にも似ていた。何度か利用したことあるホテルに足を踏み入れて、部屋を選ぶ、その私の動きは不自然に思えるほどに自然で、刻まれたコードに従うように心だけを置いてきぼりにしながら、重い扉を開けて、ガラス張りのシャワールーム。「一緒に入る?」それに比べて響子ちゃんの動きは固く、視線はしきりに動き回り、口数が少なくなっていた。私を見るその瞳は何かを訴えるようだった。それでも私も彼女も止まることは無く、決定的な言葉は形にならないまま、何かに逆らうように、しかし同時に流されるように私たちの身体は動いていた。時間だってそういう風に流れているようだった。「好きですよ」そう言った響子ちゃんの目はいつもの自信や確信に満ちた色ではなくて、言葉もグリッチがかかったように揺らいでいた。私は何も言えなかった。信じられないくらい重く感じた指先も、振り切れてしまえば糸が切れたように軽く空虚だった。彼女の腕の浅黒さは夕暮れの砂漠を思わせた。その温もりや感触を肌で感じる前に腕を引いてキスをした。数秒間、数十秒間、深く深く潜るようにキスをした。離したその後、彼女の泣き出しそうな表情に、私の口から舌打ちのような音が漏れた。「何か言ったら?」ただ無言で首を振る彼女の唇をもう一度塞いだ。
今まで私は誰ともどのようにも、唇と身体を重ねていて、ただその時は、それを忘れるように志乃田響子を抱いた。そして性行為とは、元来征服であり蹂躙でしかないのだと思った。照明の絞られたこの部屋が、愛から一番遠い場所にあるのだという実感だけがあった。彼女の頬には涙が染みついていたように思う。それでも「好きです」「好きです」「葵先輩」悲鳴としか思えない響きを掻き消すように、私の指が彼女を抉った。それなのに私の心に刻み込むように、彼女は叫び続ける。奥に宿る彼女の彼女では無い部分を、完膚無きまで破壊したかった。
私の動きを止めたのは、唐突にも感じるほど静かな息遣いで、「先輩は、私の事好きですか?」「好きになってくれましたか?」唾液か、涙か煌めいた肌と唇。憔悴しきった表情に、けれどその奥には誠実なまでの光があった。
私の喉は何かに閉ざされてしまったのか、言葉どころか空気すらうまく出てこなかった。喘ぐような擦れた音が鳴った。涙が出てくれればいいと思った。それが本当だと思うのに、響子ちゃんと対照的に私の瞳は乾ききっていた。どうして私を汚物のように扱い、道具のように弄ぶ男には言えた言葉が言えないのだろう。言葉でなくてもよかった、それと全く同じ空気の振動が欲しかった。だというのに、相も変わらず掠れた音だけが、喉から漏れた。
私は私を騙すようにして、再び彼女を激しく責め立てた。彼女の喉が激しく震えて、少しずつ掠れて、枯れていく声が、反面私を慰めていた。
結局私は終わりまで何も言葉に出来ないままにいて、「私は貴方の事が好きです」彼女から確かに言葉以外でも受け取ったというのに、私は返すべき言葉など、一つとして持ち合わせてはいなかった。全てが壊れたその後に、彼女がシャワーを浴びるその間、どうしてかいつもの光景は思い出されず、浮かんだのは餃子の香りと、「アンタはきっと大人になってね」静かな祖母の笑顔だった。
私がそれから誰かと身体を重ねたく思ったのは、彼女が死んだことを知った直後だった。
彼女を抱いたあの日以来、私は響子ちゃんとの連絡を絶っていた。ホテルから出て、響子ちゃんに何を言ったのかは覚えていない。ただ逃げ出すように別れたその夜は、星のない夏の夜だった。三番線の、列が出来ていても寂しく、静かなホーム。黄色い線の内側で、彼女から送られていたメッセージを開かないように、画面を操作した。通学路でも校内でも、出来るだけ顔を合わせないようにした。その点、数日学校に通えば直ぐに夏休みになるのは、私にとって都合が良かった。剥き出しのスチールベットが馴染む、無機質な私の部屋の壁にかかったカレンダー、八月の十三日に赤い印が付いていた。私の誕生日だった。「私は生まれてこない方が良かった」内臓が全部空洞になったように、食欲は無くなって、それなのに身体がやけに軽い日々が続いた。眠っていても起きていても現実味が欠けていて、確かに時間がすり減っていく感覚が、きっと私をそうさせていた。
思い返してみればあの夏の太陽は、やけに厳しかった。身体が表皮から溶かされてしまうのではないかと思う程の強い日差しに、ウンザリしながら八月初旬。受験をするつもりなんて当たり前になかった。それでも行く宛てなんてなくて学校で開かれているという夏期講習に足が向いた。連絡を絶っていたのだ。響子ちゃんからどんなメッセージが来ているかなど知らなかった。
だから私がそれを聞いたのは人伝だった。
「何? どうしたの?」
一人だけではない、教室の至る場所から好奇の目が私に注がれていた。「事故の事、知らないの?」クラスメイトの言葉はあまりにも言葉足らずだった。私はただ眉をひそめた。エアコンの風で机の上に置いてあったプリントがふわりと浮いた。「だから、交通事故」そのクラスメイトとは一年の頃もクラスが同じだった。放課後何度か一緒に帰ったことのある仲で、けれど部活に入っていない私が特定の誰かと仲を深めることは無かった。そこまで考えていたというのに、答えに行き着くまでにまだ言葉も時間も必要で、「うちの生徒が巻き込まれたらしくてさ」クラスメイトの声のトーンは言葉を重ねるにつれて沈んでいく。締め切ったガラス窓は、外で響く蝉の声すら遮断して、誰かがペンを置いた音がやけに響いた。
「一年の、女子が」
仲良かったでしょう?
私はそのクラスメイトが、志乃田響子の事をよく思っていないことを知っていた。一人だけじゃない、このクラスの中で彼女が笑いものになっていたことを、私は知っていた。決して私には届かないように、けれど、度々問いかけられた。「うざくないの?」私はなんと返していたか。静まり返った教室の中が包む空気に、純粋な違和感を覚えた。
その夜の駅前、昼にあれほど晴れていたからか、月が大きく見える日だった。私は男と待ち合わせた。およそ二年ぶりに連絡を取ったその男は、以前に何度も私を抱いていた。行為中は私の身体に跡を残すのに執着を見せるが、ホテルを出れば人格が切り替わったようにドライになるその性格が私にとって都合よかった。「今夜逢いたい」音信不通だったことを責める事も無く、「いつもの駅で」何一つ変わらないその質感に、心が凪いでいくのを感じた。彼に腕を掴まれ「久しぶり」と微笑みかけられて、私が返した笑顔は、きっとあの時と同じ笑顔だった。彼も、またあの時と同じ身体に合った紺のダブルスーツで、整えられた爪の先、左の薬指には指輪が光っていた。
彼に腕を引かれホテルへと向かう間は、私が私を思い出していく道程だった。「また、久美に怯える日々が始まる」なんて、碌でもない言葉にしかし、私は一番上手に笑い返せた気がした。「何かあったの?」「別に」彼の革靴は度々甲高い音を立てる。「どうして欲しい」彼の行きつけのホテルまで、あとどれくらいか。覚えていなくてもその言葉で思い出した。彼は背筋が凍るほど冷たい瞳で、私に言葉をくれる。「何されたっていい」言葉にしたとき、赦しが私を貫くのだ。彼の笑い方は、猫に似ている。その瞳の奥に獣の輝きが残されているところまで。
扉が閉まるその音を皮切りに、彼は私の唇を塞いだ。その息苦しさは懐かしく、しかしその瞬間、脳の奥で火花が静かに散った。それは言ってしまえば小さな違和感だった。ただ、シャワールームでキスをされるその直前にも、彼の太い指が、奇術師のごとく器用に私の下着を外していく瞬間にも、小さな火花が徐々に激しく散っていた。
その正体に気が付いたのは、彼が私の性器に指を這わせた瞬間だった。
私は悲鳴をあげていた。突き飛ばされた彼は理解できないという顔をしていた。謝罪の言葉が漏れ出るその前に、彼は私の髪を掴んだ。「嫌」どうしてかは分からない。ただどうしてか彼の全てが、唐突に受け入れがたい異物に思えた。私を押し倒した彼は何かを叫んでいた。馬鹿にするなだとか、彼のプライドは著しく傷ついたのだと、そういう趣旨の事を、私を口汚く罵りながら訴えかけていた。床に押し付けられて、シャワーから流れ出る温水を頬で感じる。それは身体に流れる血の温度に思えて、ただ、私なら受け入れられるはずの痛みが、受け入れられなかった。
何かが崩れてしまった。何かが変わってしまった。その確信だけを抱いた。それは間違いようもなく、彼女によるもので、もう私が母親の髪を梳かす姿を思い出すことは無いのだろう。
私は、気が付けば痣だらけの身体をむき出しにして、服だけを手にして部屋から逃げ出していた。部屋を出てしまえば、きっと彼は追ってはこないだろう。冷静さを失っても、リスクだけは理解している男だった。
その日どうやって帰ったのか、今も思い出せない。身体中に疼く熱に耐えるように、スチールベットの中で丸まっていた私は、縋るようにスマホの明かりを浴びていて、それでも志乃田響子とのトークルームを開けずにいた。ぼんやりと得心したのは、彼女とのホテルの中で一人祖母の言葉と笑顔を思い出した理由だった。私は祖母にだって感謝の言葉も、愛の言葉も返したことは無かった。「優しいね。葵は」そう言ってくれたオーケストラの彼女にだって。
私はまだ十七歳だったが、それに何の意味も見いだせなかった。巡る思考が何かを避けるように減速するのに、停止することは無かった。時間の進みが歪んだように、昼と夜の区別がつかなかった。今があれから何日たったのか、それとも一時間足らずなのか、それすら曖昧に溶けていった。
それだから、あるはずもない通知が届いたのが、いつの事なのかはっきりとは分からない。見慣れぬアイコンからのメッセージ。その文字列が、頭の中で意味を紡ぐことは無い。ただ、志乃田という苗字が目に付いて、少ししてから、そのアカウントが志乃田響子の母親のものなのだと理解した。友だち申請なんて、間抜けな表示を拒否しようと指が動いて、けれど送られた画像の中の文字列が目に付いてしまった。それは志乃田響子が私に送ったメッセージのスクリーンショットだった。何枚も、何枚も、既読のつかなかったメッセージが連なった、私が拒んだ言葉たちの山々。本来なら私に届くはずのない文字列。その最後の一文が、目に付いた。
「どうか生きていてください」
「先輩が生きてさえいれば、私は幸せです」
その言葉は、祈りというよりは呪いだった。
目を閉ざした私は、送られてきた十枚にも及ぶスクリーンショットの内容を頭の中で反芻していた。初めはいつも通りにと無理して明るく振舞ったメッセージ。既読が付かない事への違和感は、怒りへと直ぐに形を変えた。その後に悲しみが、そして再び怒りが、最後には祈りが。
彼女の祈ったように私は、今も生きている。そんな風に祈られたのは、きっと初めての事だった。彼女のように私を愛した人は、きっと初めてだった。何一つ正しい所なんてない私に、それでも、それだからこそ「生きていてください」なんて呪いをかけたのだと思う。
それは断罪に似ていた。
まるで朝の公園の繰り返しだった。
静かに吹いた風は、鞄に着いたキーホルダーを揺らした。




