第二部 第二章 鼠色の毛布
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。
「お試しね」
そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。
歪な二人の歪な恋愛。
吐いた息が色を付けば思い出すことがある。ホントだったかどうかさえあやふやな薄く積もった東京の雪景色を、けれど香りとともに思い出す。少し遠くを歩く白いダウンジャケットの母親を見送る私の手は小さくて、まだ柔らかい。
夏が終わればすぐに冬になる。その僅かな狭間には激しい雨が降る。花壇に並ぶ向日葵が日に日に萎んでいく。それでも太陽を向く夏の敗残兵を眺めながら、やはり私は次の夏のことを想像できないでいた。
電車の暖房はやや過剰で、コートを引っ張り出してくるのには少し早かったかもしれない。けれど今日の服装に合わせられるのはこれくらいで、知らない駅のアナウンスの連続に思考の輪郭がぼやけていく。ポケットに手を突っ込んでみれば、ソフトタイプのパッケージが僅かに潰れる感触があった。私は煙草を吸いたいと思うたびに、彼女の事を思い出す。初めて吸ったその時には名前も顔も知らなかったあの娘。出会っていなかったあの娘。煙草の香りがすれば露骨に歪んだあの顔をぼんやりと思い出す。
私が志乃田響子を認識したのはいつだったろう。彼女は図書室での話をしきりにしたが、私にそんな記憶はなかった。一目見た瞬間に、救われたのだと言った。私はその時に何を考えていたか覚えていなかった。
名前は知らなかったが大きな駅なのだろう。ドアの近くにいた私も、流されるようにホームへと追いやられた。知らない街の、知らない駅には当たり前に知らない人しかいない。車内との温度差に身体が震えた。それは私の中にある私じゃない部分で、そういうものを感じる度に静かに吐き気を覚える。
手術は、十分から十五分で終わると説明された。私の口から漏れた空気が酷く乾いていたのを覚えている。今になってさえ、その決断に後悔なんて無いと言い切れる。説明を受けるその瞬間も、手術の当日だって、大きくお腹の膨らんだ女の人が隣に座った時にだって、決意が揺らぐことは無かった。それなのに、そのあっけない時間を、動画サイトにアクセスすれば簡単に潰れてしまう、十分から十五分という具体性を持った時間を聞かされた瞬間、私は揺らいだ。
その僅かな揺らぎは、私の身体に深く深く根付いてしまった。何の決断にも関与しないそれは、私の中にいるもう一人の何かのようで、何気ない瞬間に思い出したかのように揺れるそれは、微かな心音なのかもしれない。「お前は生まれてこない方が良かった」揺らいだ後に誰かが言うのではない。通奏低音のように、止むことは無いその言葉に、私が気付くだけの事。様々な声色で響くのは、様々な声色に私が思うだけの事。私を初めて犯した男の声でも、真面目だった十個年上のサラリーマンの声でも、母親の声でも、祖母の声でも、私の声でもあった。
目の前で電車を逃した理由は分からない。ただ、目的地まで距離のあるその場所で私の足が止まってしまった。迷惑そうに私を避けたサラリーマンの指先が擦れるように、私の手の甲に触れた。その僅かな温もりにすら私は縋りたくなってしまった。
「私の事、好きになってもらえませんか?」
あの頃、毎日朝の公園に私が足を向けたのはどうしてだったろう。その濡れたような瞳からは、彼女の想像する何倍もの執着が滲み出ていた。そしてそんな瞳が、他者を客体化させることを彼女は知らなかった。
立っていられなくなるほどの揺らぎが、視界を下に誘う。黄色い線の向こう側、線路の上。「死ね」と呟くのは私ではない何か。「死ななければならない」と思ったのは他でもない私だった。
私がいつか行きずりの男と別れた早朝の駅前、路地の奥でネズミの死骸を見た。肉の断片がはみ出て、飛び散って綺麗なピンク色をしていた。車のタイヤに潰されたそれの片目は飛び出ていた。尾の質感は高級なベルトのようで、けれど赤黒い血はネズミのものというよりは、アスファルトが基より含有していた色を、抉りだしただけのようにも見えた。
私の心臓は死骸を認識したその瞬間に跳ねて、筋肉は硬直した。本能的な死への拒否感と同時に、私の視界はそれだけに塗りつぶされてしまって、動けなくなってしまった。虫の死骸とも、祖母のそれとも違った、剥き出しの死の匂い。私はそれを写真に撮った。そうやって画像フォルダの中で日常の風景に混じってしまっても、単なるデータになってしまっても尚、死の持つ何かが消えなかった。むしろ死が息を吹き返したように見えた。
私はその写真を度々見返す。見返す度に私の筋肉が固まる。思考が冷たくなる。そしてやはり目が離せなくなるのだった。
その場所と似て非なる駅前の喫煙所で、小さなライターの火は、冷たい風に吹き消された。幾度も幾度も、神経質な音を鳴らしてようやく灯ったそれは触れていないのに、焼け焦げそうなほどの熱を持っていて、けれど私の肺に届く煙はぬるく重い。黒いコートが僅かな太陽光を吸い込んで熱を発する。脳が鈍っていく感覚と共に、静かになっていく。パーテーションに囲まれた喫煙所の老人が私を一瞥して、それから下を向いた。流れる時間が落ち着いたのを感じる。
それでもこの火が消えたならば、私は再び列車に乗らねばならない。
吸った煙の質量分、私の身体は重くなる。それは目が覚めたその瞬間に感じる怠さに似ていた。誰かが隣に寝ていようと、決して変わらない重さが其処にはあって、けれど誰もいないよりは幾分かマシだ。結局私はそう思ってしまう女だった。母親もそうだったのだろう。
その母親が男と死んだのだと知ったのは、私が死のうと決めたその少し後のことで、天啓があるとするのならばこれだと思った。学校帰り、最寄りの駅の出口の傍で、見覚えのない高校の制服を着た少女は、熱に浮かされているように見えた。「時永葵?」私がきっと足を止めるその前に、彼女は言葉を重ねた。「時永佳奈子の娘?」その名前を、母親の名前だと認識するまでに時間が必要だったのは、その発音が新鮮だったからだ。なにせ母親が連れてくる男は、母親を本名で呼ばなかった。源氏名か、私の前では当てつけのようにママと呼んで見せた。バイオリンを始めるまでは、昨日と今日と明日で、私のパパと呼ぶべき男が入れ替わる事なんてざらで、バイオリンを始めてからは、男が家を訪ねることは減ったが、一週間に一度は男を呼んだ。目覚めた瞬間、知らない男が私の髪を撫でていたその気持ちの名前を、私は未だに持ち合わせていない。
「アンタの母親に、パパは殺された」
しかしその言葉ならば簡単に理解できた。その言葉だけで理解が及んだ。
母親は男と死んだのだ。私を捨てて、どれくらい後の事だろうか。その日かも知れない。どの男だろうか。歳の差は開いていただろうか。年上だろうか、年下だろうか。私は、言うだけ言って泣き出した卑怯な少女を、可哀そうな少女を目の前にそんなことを考えていた。「なんで」って、嘔吐するように繰り返す少女に欠ける言葉など持ち合わせていないはずなのに、「一緒に死ぬ?」自然に漏れ出た言葉だった。手を取ろうとしたその瞬間、頬を張られた。
少女の瞳はやはり汚物を見るようなそれだった。
私はそれでも歩き出した。
結局そうしなければならなかった。
ホームには小さな列ができている。電光掲示板が示す次の到着時刻は、五分後。時間は何をせずとも擦り減るもので、それがゼロになる時にどうして私はまだそこにいたのだろう。ホームに列車が飛び込む様は威圧的で圧倒的だった。ブレーキ音は金切り声のようだった。
「私、葵先輩のことが好きですよ」
私はきっと志乃田響子の事が、憎かった。
告白のその瞬間に、許せないと思った。「好き」という言葉が、ただ私を傷つけるためにあるように感じられた。彼女が言葉を重ねれば重ねるだけ、「好き」という言葉の奥が透き通っていることを理解させられた。私の発したことのない音。母親の発したことのない音。私が聞いたことのない音で、彼女は私を好きだと言った。だから、私は断れなかったのかもしれない。傷つけたいわけではなかったと思う。憎んでいて、許せなくて、それでも断ることは出来なかった。きっと何度繰り返しても。
ただ所詮は時間つぶしの自傷行為だったのかもしれない。
停車するたびに人が減っていくボックスシートの並ぶ車内で、私はゆっくりと腰を下ろした。外が明るければ、ガラスに自分の顔は映らない。頬杖を突く私の表情を、私は知れない。窓の外を流れる景色は、田園風景へと移ろっていく。
それが恋というのなら、私のしてきたことの全部が受け入れられない何かになってしまうと思った。日々を重ねて、私の肌に触れる瞬間の怯えたような瞳も、それが緩む瞬間も、別れ際に会話を引き延ばそうとすることだって、彼女の動作の全てはただ私を断罪するためにあったのかもしれない。本当だったら、こう生きるべきだったのかもしれない。
「何があったって捨ててなんてあげませんから」
何も知らない彼女は私にそう言った。「私は別に何されてもいいんだよ?」私の放ったその言葉はきっと優しさから一番遠い所にあった。
人の数が数えるほどになった車内で、伽藍洞という言葉の響きも文字の形もその本質を含有しているように思った。「どうして先輩は私を捨てないんですか?」立ち上がるのが億劫だった。ここで乗り過ごしてしまえば全部が無駄になって、それがとても自然なことのように思った。ただそうするわけにはいかなかった。無人改札を抜けた駅前の広場、ぽつんと置かれた無骨なバス停のベンチ、その足元に捨てられていた。古ぼけた看板には、大きなお寺への案内があった。徒歩で四十分かかるという。古ぼけた灰皿の前、パーテーションも表示も何もないその前で親指に力を籠めるとゆらゆら頼りない火が付いて、そのまま煙草に移した。思えばこの駅で降りたのは私一人で、少し高く目線をやれば木々の緑と青い空の隙間に雲がいくつか浮かんでいた。高い太陽の日差しに充てられた私は、その勢いのままにベンチに身を預ける。人差し指で灰を落とすと火種まで落ちてしまって、煙が細くなったからそのまま捨てた。
目的地があっても時間に追われている訳では無い。プシューという気の抜けた音は、古いバスの扉が開いた音だった。「乗るの?」運転手の中年男性の問いかけに、首を横に振った。このバスも目的地の近くまで行くのだから、首を振ったのに合理的な理由などあろうはずも無かった。発車して吐き出された煙草のものとはまた違う煙が、空気に混じるのをぼんやり眺めていた。
あの娘がいる場所まであとどれくらいかかるだろうか。
取り出した携帯は圏外で、しかし時刻だけは確認できた。日が沈むまでまだ余裕がある。それまでにはきっと帰ってこられるだろう。私は、蠕動のように、鼓動のように歩き初めていた。車道と路側帯、寂れた食堂の広い駐車場。汚れたガラス戸、剥がれた看板。町ともいえない、いくつか個人商店と、宿が並ぶだけの場所を抜けると、車窓から見えた田園風景は、目の前にしてみれば随分と寒々しい。風とは逆らって揺れる、濁った水の中にきっと何かの生き物がいる。それが何か確認しないままに私は歩く。ただ歩いたその間、私は何も思い出さなかった。
車止めも白線も無い駐車場の砂利の感触は、覚えがなくどこか宙に浮いた心地だった。
駅前の看板に示されていた寺の境内に捨てられたような錆びた灰皿が一つ。くしゃくしゃのパッケージの中にあるハイライトは、指先でなぞった限り最後の一本だった。天に上る煙はやはり溶けてどこにも届きはしなかった。
鞄の中には線香と花。喪服に煙草の匂いが染みついてしまったかもしれないと、今更ながらに思った。
志乃田響子は十六歳で死んだ。私、時永葵は二十歳になった。




