第三章 暗夜 その2
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。
「お試しね」
そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。
歪な二人の歪な恋愛。
「晩御飯は食べなさいよ」
逃げるような一日だった。その対象が何かも不確かなままに、固く閉ざした部屋の扉は片手で母親に開かれて、そのため息の音が脳裏に刻み込まれるように響いた。「食べる。食べる。疲れてるだけだって」掛け布団を投げつけるように、立ち上がってからそう言って笑った。「いってらっしゃい」あの頃の母親は私を玄関まで見送ってくれて、なんなら後ろを向いたら手を振ってくれていた。それに手を振り返したことは無かった。「負けちゃダメ」そう言ったのは母親だっていうのに、朝ご飯を残す私を心配そうな瞳で見つめて、私が痩せていくのと同じように母親も痩せていった。「私、間違ってない?」珍しく父親と話す声を聴いて、私はリビングの扉の前から、少し後ずさった。だから、今日みたいな日だって足取りを軽くしなければって思う。いつもはもっと軽やかに言葉が出てくるはずで、「大丈夫。元気ではあるから」だって慣れっこなんだこんなこと。だから普段と同じ音程で、話そうと思う。まだ湯気の立っている焼うどんの上で鰹節が揺れる。箸を手に取って、「好きなんだよね。うどんより」けれど好きだったはずの焼けた出汁醤油の匂いすら、食欲を減退させていく。
視点は机の木目に吸い込まれるように固定されて、そこが一番落ち着くみたいだった。嗅覚も視覚も邪魔くさくて、それなのに頭の中は相変わらずに空っぽ。ふと最後に母親の顔を正面から見たのは何時だったろうかって思った。その深い皺を、正しく捉えられているのだろうか。私の思い浮かべる母親の表情はどこかで止まってしまっているのかな。「響子ちゃんがそれを言うの?」思考は纏まらずに輪郭が柔くなっている。「きしょ」真昼の日差しに植木鉢。「お試しね」夕暮れの公園。
私は何が悲しくて、何が怖いのだろう。
「そうね」
凍りついたみたいに動けなくなった私にとって、そんな母親の何も含有しない肯定はただ温かくて、「ついてきなさい」唐突な提案も私の身体をほぐすようで、私は音を立てずに箸を置いた。「ご飯は?」「後でいいから」背もたれに掛けられたカーディガンを羽織って、母親は車の鍵を手にした。
幼い頃、日が落ちた後の国道は、交通量が多くても寂しく感じた。三年習っても別に上達しなかったプールの帰り道、助手席から見える夜景は、一日の終わりというよりは世界の終わりのように思えた。流れゆく景色はあの頃と重なってデジャビュのようで、ビルの隙間から見えた大きな月は、どこかでこの手に取ったような既視感を覚えて、暗幕みたいな夜空でそれでも、雲の形までハッキリと照らしている。
「初めにタバコ吸ってたのは、私だったのよ」
粘度のある液体が零れ落ちるようだった。当たり前に母親はフロントガラスの向こう側を真正面に見据えていて、私も同じ。音楽のない車内では、地面の凹凸まで聞き取れそうで、けれどそれは音楽になってくれなかった。
「パパは私と付き合ってから吸い始めたの」
母親が父親の話をするなんて何時ぶりだろう。そう思うのと同時に、母親は未だ父親のことをパパと呼んでいることが歪に思えて、でも懐かしかった。
「だから、二十五歳くらいかしら。パパはそれくらいから吸い始めたの」
ダサいよね。
母親は声をあげずに笑った。
私はただ頷いた。
「テレビを見てると、妻が夫を殺そうと毒を盛ってたとか、そういうのが流れてくるじゃない?」
街灯の灯りの一つ一つは放射状に光の束を広げて、私の眼に焼き付いては流れていく。
「そういうのはとても怖い」
粘度を持つ言葉は地面に届かずに、未だ宙ぶらりん。
「けれど、有名人の奥さんが夫の葬式のスピーチで涙を流している姿を見て、これじゃない。とも思うの」
母親は一つ息を吐いて、赤信号だった。丁寧な減速と共に私はシートに身を深く沈めた。母親がどうしてこんな話をしているのか解らなかった。ただ、染み入るように身体の中に響いた。
カーナビは現在地だけを示していて、ヘッドライトが照らすアスファルトは銀色に見えた。
「何処に行くの?」
「何処行きたい?」
「決めてないの?」
「こんな話、家でしたくないじゃない」
煙草の匂いの染み付いた父親の部屋のドアは、固く閉ざされていて、そういえば父親が返ってくる時間はいつも十一時近く。けれど空っぽの部屋にそれでも匂いがこべりついているのだ。
流れ出した景色は、やはりどこに向かうのか分からないまま、それでも高速のゲートをくぐり加速していく。
「友達じゃないんでしょ」
百キロを超えた車内には、少し大きくなった走行音が響いていて、「どうしてわかるの?」母親はまた笑った。真正面から見ることが出来なくても、もう頭の中で簡単に像が出来あがる。「母親じゃなくてもわかるわよ」ちょっと前から登校するのが早くなったことも、帰るのが少し遅くなったことも、部屋から声が聞こえるようになったことも。
「それに学校が原因じゃないでしょ」
学校の帰りじゃなくて、珍しく出かけた日曜日に帰ってきて、ご飯も食べないまま、脱ぎ散らかした服はそのまんまに。初めて着るワンピースに、ヘアアイロンの場所だって聞いてきたのは響子でしょう。鞄に付けた、キーホルダーだって。
そんな風に羅列されてしまえば、私ってそんなにわかりやすかったんだって、恥ずかしくなって、でも、それもそうかって思う。だって、それくらいに嬉しくて、それくらいに幸せで、隠すことなんて考えも出来ない程だった。
「どんな人なの?」
心の底に優しく降りた言葉に、私は上手く答えられなくて「それがわからないの」でも、それが一番上手な返答だった。
「そう」
葵先輩は、優しい人ではないと思う。瞳の奥と、笑顔の奥が見えなくて、少し怖くなることがある。だけど怖い人ではない。攻撃的なところを見たことがないけれど、柔らかい部分だってしらない。素直な人だと思うけれど、どんな人なのかは分からない。
「わからないなんて、何の理由にもならないのよね」
空いている追い越し車線。激しく移り変わっていく景色は海に近付いたのか、遠くに大きな橋が見える。
「私はさ、パパの事きっとすごく好きだったはずなのに、ほら。やっぱりもう、だったはず。になっちゃった」
響子がお腹にいるときに、私は煙草を辞めて、あの人は辞めなかった。運転が少し荒いのが気に障る。私が何か言おうとすると、一瞬だけめんどくさそうな顔をする。そんな小さな事しかもう思い出せない。
「こんな話聞きたくないか」
私は首を横に振った。どうしてかは分からないけれど、知りたいと思うのだ。ずっと蓋をして考えないようにしていた何かも、箱から出してみれば案外大したことのないように思えて来て「でも嫌いって訳じゃないの?」少し目を伏せて、けれど運転中だって、直ぐに顔を上げた。海沿いの工場街の灯りは暖色で、星とも街灯とも違う温もりに満ちていた。この街で育てば、幼い私は夜を怖いものだなんて思わなかったかもしれない。
「きっと目の前で死にそうになっていたら、代わりに私が死ぬ」
極端な言葉に笑ってしまう。「もう、どうでもいい人だと思ってるのに、どうしてだろう」優しい夜景に小さく響くのはお母さんの言葉だった。
「後悔しないように生きろって言うじゃない? そんなこと無理よね」
私を支えるシートは、あの頃は私を全部包み込んでくれたのに、今じゃ少し安っぽく思えてエアコンからの空気はやけに乾いていて喉を刺すようだった。
「後悔なんてどう生きたってするもの」
例えばお母さんで言えばパパの事なのかもしれない。私からすれば、中学校の事? それとも葵先輩とのこと?
けれどね。思うの。
メーターを見てみれば百二十キロを優に越していて、本当ならば身体が吹き飛ばされてしまうような殺人的な速度に、私達は鉄の箱に守られて、ただ温もりと結果だけを手に入れて、それでお母さんが話す。私はその言葉を噛み締める。
「死んでしまうその瞬間ってきっと誰にでもあるでしょう」「数秒なのか、数十秒なのか、一瞬をどれくらいに感じるのとか、わからないけれどさ」「例えばこの人と出会わなければよかったとか、あんなことしなければ良かったとか、そんな後悔で満たされちゃったら、かなしすぎるじゃない」
左のウインカーで車線を切り替えて、追い越し車線を大きな車が駆け抜けていった。
「そうじゃなくて、この人と会えてよかったとか、これやって良かったなとか、先にそれを思い出して、それだけでその時間が満ちていて欲しいって、私は思う」
何十年前の一瞬のことでも、それを真っ先に思い出すような。そんな瞬間が一度ならずとも、何十回でも。
「響子の人生にそんな瞬間が訪れますようにって、響子の人生がそんな瞬間で満ち溢れてますようにって、私は思ってる」
暗闇、月が僅かに雲の形を浮かび上がらせる。時々思い出したかのように設置されているノッポな街灯は、頼りない立ち姿。私には行先のない高速道路を照らすハイビームが救いみたいに思えた。
「だからさ、そういう意味じゃ、私はもう死んでいいの」
そう言ったお母さんの顔は、解りやすい程の笑顔で、不思議と私は目を瞑りたくなって、「おやすみ」振動がもろに伝わってくるような薄っぺらい座席の上で、きっと身体に悪い姿勢のまま、しかし私はもう十年も前の布団の中で、その声の主がいつだって手を握ってくれていたその感触を確かに思い出していたのだ。
目が覚めると、もう家の前で、「結局どこにもいかなかったね」私は目を擦って伸びをした。夢は何も見なかった。「そうね」どこに行かなくても別に良かったから。そう言った母親から微かに煙草の匂いがしたことを私は胸に秘めたままにした。




