第三章 暗夜 その1
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。
「お試しね」
そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。
歪な二人の歪な恋愛。
ねぇ。葵先輩。
私の気持ちが分かりますか?
私には私の気持ちが分かりません。
アラームが劈くようで、脳みその芯にまで響いたのは、きっと眠りが浅かったから。断続的に目が覚めて、まだ十分しか経っていないのが信じられないくらい重く暗い夢を見て、目が覚めて、目を瞑って、そのまんま一時間は寝られなくて、ようやっと眠れたかと思ったらまた目が覚める。汗が体に纏わりついているからか、身体が重い。「今日学校じゃないの」母親が近づいてくる足音だって聞こえていて、休みたいって、口から漏れ出そうになった。
それは懐かしいだなんて言いたくもない感覚で、けれど事実として体に染みついた感覚でもあった。中学生の頃、こうやって布団から出られない私に母親は言った。「保健室でもいい。教室でなくてもいい。それでも学校は行きなさい」その言葉は時代に合っているのかいないのか。「それだけで勝ちなんだから」勝ち負けって何なんだろう。でも、その言葉は間違っていなかったって思う。だって、そう言われて私は負けてたまるかって思えた。何にって、やっぱりそれは解らないけれど、今の私はあの時負けなかったって、そう思えている。
「とりあえずご飯は食べなさい」
部屋に脱ぎ捨てられたロングスカートは床に転がっていて、小さな鞄から内蔵のように中身がこぼれていた。財布と、化粧ポーチとメンダコのキーホルダー。先輩のはマンタのだった。金属製の鎖の銀色はメッキの安っぽい輝きで、それなのに千円もしたんだ。
私はなんで眠れなかったのだろう。私はなんで動きたくないのだろう。先輩と出会ってからずっと感情も身体も今までにないくらい激しく動いていた。だからそれが理由ならばいいと思った。スマホの通知音が鳴って、でも葵先輩じゃない。クラスのグループLINE。「問題集の答え持ってる人、写真下さい!」間抜けなキャラクターのスタンプと一緒に投稿されていたそのメッセージの、投稿者の顔を私は思い出せないでいた。
「昨日無理したんじゃないの? あんな暑かったのに」
ウインナーを一切れ齧って箸が止まった、私を見る目線は心配そうで、暖かい。肩まで伸びた髪は光を跳ね返すような茶色で、それなのに、それよりも奥に幾つかの白髪の方が目を惹いた。あの頃から何も変わっていないようで、それでも確かに変わってしまっている。机の反対側には未だ片付けられていない父親の使った食器があった。今日だって一言も話していないのだろうと思う。それなのに朝早く起きて、朝食を準備するのはどうしてなのだろう。
「大丈夫」
疲れてるだけ。
その暖かい目線から逃げるように、私は鞄を掴んで家を出た。
学校までの道のりは、一人で歩くには遠すぎる。日差しが強いのが、いつにもまして理不尽に思えた。汗が滴る。「先に行ってるね」遅刻確定の時間に家を出た私に届いたメッセージ。未だ既読は付けられないないまんま。一歩一歩が一歩一歩でしかないから、学校までの距離が縮まらない。どこかの国のヒーローみたいにビルからビルに飛び移れたらいいのに、歩くしかない私には見覚えのあるすべてが少し遠く思える。「まだつかないの?」私は昔からせっかちでそそっかしくて、どこに行くにも母親にそうやって聞いて、「距離は変わらないんだから、もう聞かないで」ざらついた声色で返されるのが常だった。
今日はまだ学校にはつかない。言葉を返してくれる人はいない。始業にはもう間に合いはしない。
遅刻することは避けられないのだから、学校に行かなくてもいいかなって、いつもの公園の入り口に立ってそう思う。私が学校に行っているのはきっと先輩がいたからで、けれど今日も学校に葵先輩いるはずで、じゃあ今日は何が違うのだろう。「あ」口から出た音に意味はない。ただ感情の熱を排出しただけ。後悔なのか、反省なのか、怒りなのか、ジャンルすら分からない絡まった感情が、胸の内でただ熱を発していて耐えられなくなっただけだ。
昨日、私が逃げ出すようにその場から立ち上がった瞬間、先輩が本当に不思議そうな顔をするのがどうしてか哀しかった。何も言えないまま、後ずさってけれどその表情からは目を逸らせなくて、でも目を逸らしたくて、強く瞑ったその色は僅かに赤かった。私は走った。カフェの椅子に足をぶつけた。「すみません」って、誰への謝罪だったのか。目を開けても前は向けなくて、ただ下を見ていた。「ご飯はいらないから」地面の色が見慣れたフローリングになって、けれどもう母親とも、誰とも話したくなくて、そのまま布団にもぐりこんだ。目を瞑ったとて、窓の外の僅かな光がイヤに明るかったから頭まで毛布を被った。汗が噴き出た。息をするたび肋骨が上下するのが分かった。何も考えられなかったのは、考える方法を忘れてしまったからかもしれない。何かが私はショックだったんだきっと。その正体も分からないまま、ただ呼吸をして、汗をぬぐって、また呼吸をした。
その正体は今も分からないまま。「付き合うってそういうことでしょう」炎天下、脳内を駆け巡る言葉は、文字情報でも、音声情報でもなくて、時間が圧縮されたような明瞭さで響いた。「痛いのは、あんまり好きじゃないけれど」ひとつをキッカケに解かれたように全部全部が思い出される。冷房が当たって感じた寒気まで。先輩の表情だって、瞳の大きさまで。「だって、やっぱり付き合うってそういうことでしょう」私はぼんやりとそういうことなのかもしれないと思った。一緒に登下校すること、昼休み図書室で過ごすこと、デートすること。「何されてもよかったのに」何をしたって良かったのかもしれない。もう既にそれと同じことをしていて、だから先輩からしたら当たり前の言葉なのだろう。「響子ちゃんがそれを言うの?」私がしていたことは先輩にとっては変わらないことだったんだ。暴力や、レイプとだって。
そんなつもりじゃなかった。って、思わず言葉が口をつきそうで、入り口の柵を蹴り飛ばしたら、私の方が吹っ飛ばされた。尻もちをついて、アスファルトに汗が散る。目を瞑ると、それでも日差しが眼球を焼くようで、くらりと世界が傾く。
私は、なにをしているんだろう。
「今日は教室にいるんだ」
そう話しかけてきた同級生の名前を私は知らない。昼休み、私の席は見覚えのないグループに陣取られてしまって、別に断る理由もない。けれどそうなってしまうと私には、居場所がなかった。
遅刻した私は特段注意されなくて、職員室で担任と向き合って「登校中に熱中症みたいになっちゃって」そんな嘘がすらすら口を吐いた。心が身体から少し遠くにあるような気がした。
「ねぇ」
私はそうやってもう一度同級生に呼びかけられるまで、窓際に並ぶ植木鉢の方を見ていて、どれほど手入れされていないのだろうか。なんてぼんやりと考えていた。野放図に育ったそれらは一様に生気が無く、葉の先は黄色く変色していた。力無く垂れ下がる様子は病院で名前を呼ばれるのを待つ、痩せこけた老人のようだ。やけに冷房の効いた待合室で、祖母に連れ添った、健康なはずの母親の背中もまた煤けて見えて、私は帰り道その手を強く握った。そんなことを思い出していた。
「なんか三年の先輩と一緒にいるらしいけど、なんなの?」
行き場所の無い私は、食欲もないから食堂にも行く気が湧かなくて、教室から出る理由が見つけられなかった。だから誰の目にも留まらないように、違和感を覚えられないように、認識すらされたくない。消えてしまえたらって言葉は消極的なものではなく、積極的な、前向きな欲望として浮かび上がっていた。
「なんなのって?」
振り返って、それでまず目に入ったのはその同級生の、ウェーブのかかった茶色の髪。その次には、スマホをタップする爪の先が跳ね返す真夏の光。私の口の中はどうしてかカラカラに乾いていて、それなのに舌が口蓋から離れるその瞬間にネチョリと粘着質な音が響いた。
「だから、時永葵って先輩とずっと一緒にいるらしいじゃん」
その名前が彼女に意識を向ける理由になって、私は目を細めた。ピントがあって、しかしやっぱり彼女の顔に覚えはなかった。
「部活じゃないっしょ? 入ってないじゃん」
「うん」
彼女の声質は少し金属質で、けれど甲高い訳ではない。低く、ハッキリとして、それなのに嫌に響く。場を制圧できる声だと思った。
「どういう関係なん? なにきっかけ?」
矢継ぎ早な質問は、拒否権なんてもとより私には無いみたいで、不快感の前に焦りが来る。なにか答えなければって。けれど何に焦ってるかもさえ定かではない。でも、それでも引っかかるものがあった。私と葵先輩だけの関係性は、私達だけのもので、誰に話したりしたこともない。きっと先輩もそうだと思っている。そういう人だと思っている。
だから、彼女が葵先輩の名前を出すことに強い違和感があった。何か歯車が決定的にズレてしまっている気がする。
「それって、どういう?」
私は具体的なことは何一つ答えたくなかった。たとえ些細に思える何かでも、大きな瑕になる予感があって、けれどもう遅いのだろう。
「噂になってんのよ。アンタがストーカーだってさ」
私がもう一度眼を細めたのは、雲から夏の太陽が顔を出したから。カーテンはむしろ窓の外側へと、吸い込まれていくみたい。教室内の蛍光灯が全て付いていたことに、どうしてかその瞬間気が付いて、私は自分が思っているよりも冷静だった。怒りに類するような感情は微塵も湧き上がってこない。激情と呼べる類の感情は何一つとしてなくて、「そっか」意識的に発したのか定かではないその三文字が全てを表していた。また、それと同時に身体から力が抜けていく感覚があった。
「なんでそれをわざわざ私に?」
彼女は私と目を合わせない。それがなんの意味を持つのかは分からない。
「部活やら委員会やらでさ」
上級生の先輩から言われるのだそうだ。「三組ってことは、アイツ知ってる?」「葵について回るやばい女」確かに私は放課後は下駄箱の前で、時には葵先輩の教室の前で待っていたこともある。告白する前なら校門のすぐ傍でだって何回かは。
「ちょいちょい話に挙がるからさ。興味」
話のネタにでもなればって思って。
彼女の口調は心底つまらなそうに響いた。彼女の動作は緩慢で、骨太い指先が机の上で眠るように、丸まった。きっと彼女にとってはどうでもいいことで、ふと顔を上げた後、彼女は教室の入り口の方に目をやった。きっとほかのクラスの誰かを待っているのだろう。この会話はただの時間つぶしなのだ。その事実が、私に胸やけのような倦怠感を与える。
「もしかして付き合ってんの?」
吐く息が重かった。気が付くと右手を強く握りしめていた。
「うん」
けれど否定することも無視することも、全てが面倒だった。頭がうまくまわらないまま、もう肯定することしか選べないような気がした。「マジ?」彼女は目を丸くしてこちらを見た。その顔はやはり覚えがないもので、私は改めて首を差し出すように頷いた。
彼女は息を小さく吐いて、立ち上がる。教室の扉の前、スポーツ刈りの一年生が一人立っていた。私との会話なんて無かったみたいに、私なんていなかったみたいに席を引いて歩き出す。それからついでみたいに「きしょ」って吐き捨てた。




