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第二章 水族館その2

「私のこと、好きになってもらえませんか?」


志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。


「お試しね」


そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。


歪な二人の歪な恋愛。

 水族館はデートに向かないと聞いたことがある。青色の光が、顔色悪く見せてしまうとか、静かな雰囲気がプレッシャーになるとか、確かそんな理由で、けれどそんなのは嘘っぱちだった。

 確かに青色の光は人工的で、温もりよりも粘度のある冷たさを感じさせる。けれど、だからこそ包まれてしまえば、身体ごと非日常に引っ張られて、それが葵先輩となのだから、もう酔ってしまいそう。人生の最も輝かしい時期を青い春なんて呼ぶのは、今日の私の為なのかもしれないって勘違いしてしまう。

「青は若さの象徴でしょう?」

 なんで青春って青なんですかねって、私の質問に、葵先輩はそう答えた。けれど青=若さはなんだかしっくりこなくて、若さはきっともっと浅く激しい色している気がする。ドギツイ蛍光ピンクみたいな。

 先輩も「確かに」って同意して「もしかすると、もう手が届かないから青なのかもね」

 隣の芝が青く見えるって言うしさ。

 たしかに空は青いし、海だってそう。手に届く距離じゃあもう、青くは見えない。

「青写真って言いますもんね」

「それは未来のことだから、真逆」

 そんな会話の間、人に流されるように、歩んできた一方通行の狭い道。少し流れが早くなった気がして、ふと前を見やると、目の前の男児が駆け出した。その先にまで目をやれば、開けた場所に、青い大水槽。

 それは私達の手が届かない一つの世界だった。赤や黄色、青など色とりどり大小様々な魚、追うものも、逃げるものも、群れるものもいる。命しかそこにはなくて、綺麗って形容してしまうのは残酷だろうに、私なんかには、そうとしか形容できない。

「大きいね」

 葵先輩の足が止まったのは、私が立ち止まったからだろうか。先輩も綺麗だと思ったろうか。

「解説してよ。あのでっかいサメとか」

「あれはサメです。主食は魚」

 先輩の笑い声はいつも息を押し殺すように静かで、少し掠れている。

「実は哺乳類なんです」

 グルグル廻るイワシの群れが立体を歪めるのは、サメが突っ込んだからで、全部に理由のある水槽の中は、ずっと見ていても飽きる気配がない。

「いや、魚類だよ」

 そうだったっけ。

 気の抜けた会話は水槽の中の世界とは無関係に広がっていく。水族館に殆ど行ったことのない同士の私たちはやっぱり動物園や、博物館にもそんなに行ったことがなくて、最近の先輩の一日は勉強して、家で寝てそれで終わりなのだという。「昔からですか?」「昔は楽器やってたけど、今はやってないから、本当に勉強ぐらいしかしてない、かな」

 それは初めて知ったことで、「楽器って、ピアノとかですか?」「バイオリン」

 葵先輩がバイオリンを弾く姿はきっとピンと背筋が伸びているのだろう。長く細い指先と、しなやかな腕にはそんな秘密があったみたいで、例えばドレス姿で、スーツもいいな。ステージの上、鋭い灯りに照らされた先輩の姿が目に浮かんだ。私は暗がりの観客席で、それでも最前列にいたい。目に焼き付けたい。耳で感じたい。バイオリンの音よりも、きっと混ざるブレスの音を。

「弾いてくれたりしません?」

「もうやめちゃったから」

  言い切るような口調には、本当はこんなこと言うつもりではなかったって、そんな後悔が滲んでいて、静かな笑顔だって普段のそれよりパリッとしていた。破綻がある訳じゃない。むしろ全部が整えられていて、そのまま人形になってしまいそう。そこにはきっと何よりの拒絶があって、だから私は話を変える。「そういえば、葵先輩エイが好きって言ってましたよね」咄嗟に捻り出した話題は、登下校中に話していたこと。水族館で見たいものって何かありますか? って質問に先輩は時間を使って、「エイ?」って疑問符と共に答えていた。

「ほら、底の方にいません?」

 葵先輩は目を凝らして、しかしエイは水槽の枠と重なっていて見えづらい。そんな体勢で無理やり探すのならばと、先輩の手を取って水槽に近づいていく。ゆっくりゆっくりって頭のどこかで意識して、指の先、バイオリンをやっていたと言われて、そこにある瘡蓋のような皮膚の盛り上がりを手の甲に感じた。本当は手を繋ぐだけじゃなくて、そこを指先でゆっくりなぞってみたかった。「やたら遅くない? 歩くの?」「暗いから危ないんです」「そっか」こういう肯定も否定もしない相槌の生ぬるさって何なのだろう。葵先輩のそれは、特に体温を感じて、それは肌の温もりと言うよりは内蔵の温もり。口腔の温度。食道の温度。私の何かが飲み込まれてしまった。毎度そんな気がするのだ。

「ホントはマンタが一番好きなんだけどね」

「どうしてですか?」

「形が可愛いからじゃない? 多分」

 そんなもんですか。

 そんなもんです。

「ねぇ、響子ちゃん」

 そういえば先輩が私の名前を呼ぶことは珍しくて、案外二人称なんて使わなくても会話は成立するから、だからそう呼びかけられて少し身が固まった。右手と左手が繋がったままだと、こんな緊張だって伝わってしまうのだろうか。

「なんで私が好きなの?」

 先輩の声色は全くいつもと同じ。エイが好きだと言った時とも、ペンギンを可愛いとあんまり思わないと言った時とも同じ。それなのに答える側の私はそうはいかない。唾を飲み込む時間が必要で、舌と口蓋の離れる音にすら意識が向いた。

「好きだからです」

 手すりに寄りかかる家族連れ。子供が鉄棒のようにぶら下がっていた。私たちは低い段差をふたつ降りて水槽は目の前。大きすぎるその全てはもう視界からはみ出して、それでも色とりどりの魚が数えるのが面倒になるほど泳ぎ、踊っている。

 そんなもんですか。

 そんなもんです。

「エイ居るじゃん」

 水槽の表面を這うように登っていく真っ白な裏側は、はんぺんを包丁で滅多刺ししたみたい。

「案外可愛いですね。裏側」

「でしょう?」

 今日だけで、先輩の笑顔を幾つも見た。全部が違う笑顔で、けれど葵先輩の笑顔に弾けるような瑞々しさを伴った事なんて一度も無い。出会った最初からずっと静かに笑って、静かに私を覗き込む。だからきっと葵先輩にとっての笑顔の意味と、私の笑顔の意味は違う。笑っているから喜ばしいとか、そうじゃないのだと思う。

 葵先輩は何かを隠すために笑うんだと思う。

「私、葵先輩のことが好きですよ」

「知ってる」

 右の掌を水槽へ。冷たくて、液体から一番遠い感触が伝わってきた。それは左手の先の微かな温もりとも違っていて、もしもこのガラスが割れたなら、きっと息付く暇もなく先輩と二人で溺れてしまうのだろう。

「イルカショー行くんじゃないの?」

 先輩はそう言って、けれど自分からは動かない。手と手を握って、水槽の前で、その視線が何かを捉えているとは思えなかった。強い空調で空気が乾燥していて、だから汗をかかないで居られている。

「先輩は行きたいんですか?」

「別に」

「ここに居たいですか?」

「どっちでも」

 貴方は何を求めているのだろうか。その笑顔は、ガラスと違って光を通さない。その奥の何にも教えてくれない。

 どうして?

 私は葵先輩の手を強く引っ張って、歩き出した。小さな水槽も、トンネルだって、立ち止まる人々も全部ぶっ飛ばすようにずんずん進む。「何?」って少し上擦った声を後ろ背に、「イルカショーに行くんです!」小走りしながら「なんで走るの?」「どっちでもいいじゃないですか!」

 席のまだ埋まりきっていない会場の階段を駆け下りて、一番前の席を陣取った。青空の下で、元気を通り越して無慈悲に思える太陽と、その光を反射する水面に、肩の高さまであるガラスの囲い。「濡れるんじゃない?」葵先輩は、レインコート売ってます! なんて書かれた貼り紙を指さして「嫌ですか?」「ちょっとね」ようやく私は息が整って、それから少し愉快な気分になった。

 レインコート二人分の値段は安い昼食くらいの値段になったけれど、それは全くの正解で、フードまで被っていた二人ともの髪がどうしてかビショ濡れになっていた。大きな動きで水飛沫から逃れようとする先輩の動きは初めて見る類のもので、私はその腕を強く掴んで、そしたら恨めしそうな目で見てくるものだから、思わず笑ってしまった。

「面白かった?」

 終わった後にずぶ濡れのレインコートを畳みながら、当てつけのような声色で、でも私だって嘘をつきたくないからとびきりの笑顔で頷いてやった。「髪セットしてたんじゃないの?」確かに私はヘアアイロンを初めて使って前髪を作ってきたのだけれど、気が付かれていたなんて思ってもなくて「だからですか?」「何が?」「だからレインコート買おうって?」「あ、それは本当に違う」葵先輩は、そんな解釈もあったんだって具合に首を捻った。本当に違うのだろうな。

「気が付いてくれてただけでも嬉しいです」

「露骨に残念そう」

 静かな笑顔から漏れる吐息のような音。こういう時に私は先輩を好きだと思う。私の何かで笑ってほしいと思う。

 ご丁寧にも会場の出口には、レインコートを捨てる場所まで用意されていて、もったいないって思いながらも、二人分放り込んだ。

 それから小走りして通り過ぎってしまった場所を、ゆっくり回って、海月の水槽は工夫がこらされていて、大水槽とはまた趣の違う無機質な美しさがあった。

 どちらかと言うと先輩はこっちの方が似合う。「こいつら、何考えているか分からないですね」「理屈が違うんだよ。きっと」共感のない鑑賞は、その本質を理解しえるのだろうか。昔校外学習で連れていかれた美術館の、現代美術のコーナー。飽き飽きだし、なんか怒りすら湧いてきた。好きだったのは人物画や風景画で、そえなのに名前も作者名も思い出せない。「楽しそうにも見えますし、飽き飽きしてるようにも見えます」それは勝手だろうか。「私は、強いて言うなら風に吹かれるビニール袋?」「意思が無いって事ですか?」「やっぱり理屈が違うってことじゃない?」むしろ覚えているのは、ため息を吐きたくなった一面青のキャンパス。大きな絵だった。私の今の身長よりもきっと大きいはずで、少しのムラがあった。今思えばそこにこそ意図がある筈だった。「どうせお腹減ったとかなんでしょうね。どうせ」先輩はいつもの覗き込むような瞳で私を捕らえる。「そうなのかもね」私だって先輩の瞳を覗き込み返しているのに、葵先輩には何が見えていて、私には何が見えていないのだろう。

 今の今になるまで水族館にどのくらい居るかなんて、皆目見当つかなかったから、予定をしっかり決めていなかったけれど、三時間以上も居たみたいで、確かに淡水魚のコーナーも海獣もペンギンもカピバラもじっくり見ていた。海獣もペンギンも可愛かったのに、先輩は臭いって近づきたがらなかった。それなのに「なんで水族館にカピバラが?」って私の言葉に「可愛いからいいんじゃない?」って平然と返した。

 水族館のすぐ隣のレストランはイタリアンで、パスタが一皿千五百円もした。でも雰囲気はばっちりで、ソファ席は思った何倍も体が沈んだ。分厚い一枚板のテーブルにお土産のキーホルダーを並べて、「マンタ展示してないのに、売ってましたね」「ちょっとズルいかもね」私はメンダコのキーホルダー。それだって展示されていなかったからそういう意味じゃ、お揃いなのかもしれない。

「ここからの予定は決めてるの?」

「すぐそこの海でも行きます?」

「泳がないよね?」

「流石にですよ」

 そうは言ったものの、人間とは波の音を聞けば、近付きたくなるもので、先輩の手を引っ張っていこうとしたら、無言で何度も首を振られた。

「葵先輩!」

「なに?」

「靴が濡れました!」

 砂と海水の狭間。渚は海でも陸でも空でもないらしい。誰かの何かの言葉を思い出す。落ちていた小さな貝殻を拾った。座り込んで地面を見ていれば一人の世界だったのに、振り返ると人がいっぱいいて、その中に先輩もいる。

 直射日光があまりにも厳しい。靴の隅々まで海水に侵食されてしまって、一歩一歩音が鳴る。足の裏にだけ重力が余分にかかっているみたい。けれどきっとすぐ乾くだろう。近付いていけば、視界の中は葵先輩だけになる。そうなればもう砂浜は二人の世界。海風が肌を撫でて、こんな心地いいのに、後々べたついているんだろうな。買ってきたかき氷をならんで、食べながら、靴が乾き次第カフェに行こうってことになった。冷房が恋しくてしょうがなくなってしまったのだ。

「またコーヒーですか?」

「うん」

 今朝入ったカフェを私は気に入っていて、それを紹介出来たらなんかカッコイイかななんて、浅はかだろうか。でも朝とは違うソファ席、身を沈めて先輩と向かい合って話すのは、これがいつか過去になってしまうなんて有り得ないと思った。思い返してみればずっとそうなのかもしれない。さっき海で足先が濡れたことだって、海月の水槽も、イルカショーも、大水槽も、告白したあの瞬間すら簡単に過去になってしまっていて、でもあの一瞬一瞬がどうして過去になれたのだろう。思い返すことしか出来なくなってしまうのはどうしてだろう。終わってしまえば一秒にも満たない時間になってしまうのはどうしてだろう。

 窓ガラスの外から夕陽が射し込んだ。好きな小説の話が一段落ついて、目を向けたテーブルが橙の光に照らされていた。先輩のアイスコーヒ―のグラスは空になっていた。私のオレンジジュースは言わずもがな。

 これで、もう帰ることになるのかな? って何となく思って、それじゃあ先輩の少しでも知ることが出来たのだろうかって、カフェに入ってからも、殆ど私が話していて、それに相槌をうったり、笑ってくれる葵先輩。「あんまり自分のこと話すの好きじゃないんだよね」って、出会って直ぐに言われたこと。こんなに一緒にいて、それでも掴みどころが無い。先輩がこれからどうしたいのかだって、帰りたいのか、ここに居たいのかすら、私には分からない。

「これからどうします?」

 だからそう聞こうと思った。

 でも、葵先輩が先に口を開いた。

「今日はこれだけで終わり?」

 何か返事をする前に引っかかってしまった部分があって、「これだけって、どういうことですか?」

 先輩は静かに笑う。射し込む日差しがその肌を撫でるように照らしていた。

「私は別に何されてもいいんだよ?」

 グラスの外表を伝う水滴が机へと辿り着く。葵先輩は、やはり静かに笑っていた。

「それってどういう」

「痛いのは、あんまり好きじゃないけど」

 その静かな笑顔の奥に何があるのかずっと不思議だった。きっと何かが隠れているような気がした。

「先輩は私の事、好きですか?」

「正直言えば、未だ」

「じゃあどうして?」

 その問いに、葵先輩は心底不思議そうな顔をする。

「付き合うってそういうことでしょう」

 お客さんは私達だけじゃない。BGMだって流れ続けているはずだ。それなのに脳を巡る血流の音が強く聞こえた。

「好きじゃないのに?」

 はっきり私は発音できてただろうか。自分の声だって遠く、けれど葵先輩の声は直接刻み込まれるように響くのだ。

「響子ちゃんがそれを言うの?」

 好きでなくともよいから、付き合ってほしいと言った。私はそう言った。けれど、それとこれとは違うと思って、でもそれは私のエゴだろうか。そうはどうしても思えないのは、私がおかしいのだろうか。

 葵先輩は別に責める調子でもない。ただ、淡々と言葉を吐いていて、「理屈が違う」そうじゃないと思う。

「先輩はそれでいいんですか」

「だって、やっぱり付き合うってそういうことでしょう」

 葵先輩の笑顔は崩れないまま。口調だって変わらないまま。

 見えない箱の中に手を入れて、手ごたえがないのはきっとその中が空っぽだからだ。

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