第二章 水族館その1
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。
「お試しね」
そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。
歪な二人の歪な恋愛。
デート当日の天気は晴れ。昼過ぎには気温が三十五度を超えるようで、その予報は一週間前から全く変わらないまま。七月初旬だというのにそれを珍しいとは思えなくて、地球温暖化がどうこう騒がれているけれど、物心ついたころから夏とはこういうものだったような気がする。
それに午前五時前の国道沿いには風が吹いていて、不快感はない。未だライトが付けたまんまの自動車が走り去っていく隣、私は広い歩道を一歩一歩を踏みしめるように歩く。強い光の太陽が雲をオレンジに、空を白く染めていて、朝の空は多くの色を孕んでいる。今ならばどんな色にもなれて、それは希望みたいだと思う。
初めて学校をさぼったあの日、告白が成功したあの日、定期テストが終わってから初デートの日程を喫茶店で決めた。あの公園から最寄りの駅まで歩いて、乗ったことのない路線に乗り込んで、通勤ラッシュとは逆方面。目を腫らした私はまともに喋れる状態ではないけれど、それでも言葉を紡いだ。同じことを何度も何度も繰り返したことだろう。何を話したのかなんてもう思い出せない。ただ必死だった。それでも先輩がアイスコーヒーを頼んだ事、私は頼んだ何かしらをすぐに飲み干してしまって、対照的に葵先輩のグラスは席を立つその時にも少し残っていた事、結露で私の左手が濡れて、少し焦ってスカートで拭いてしまって、それを痛く後悔した事。ならばあれはアイスティーだった。あの時口の中にあった檸檬の仄かな後味をぼんやりと思い出した。
けれどなにより、その間、ずっとずっと先輩の瞳が変わらぬ調子で、私を覗き込んでいたことが忘れられなくて、それはその日その時だけじゃない。付き合ってからの登下校も、昼休みも。だから私は考え込んでしまう。定期テストの勉強に身が入る訳もなく、酷い点数を取って、部屋の勉強机に積まれていた塾のパンフレットは破り捨てた。「受験はどうするつもりなの?」母親は、ゴミ箱の中の紙束にため息を吐いてそう言った。補習はギリギリ回避したのだから、そんなこと言わないで欲しいし、そんなこと考える余裕はない。ずっと何も手につかないのだ。
「お試しね」
期限は七月の終わり。その間に私は何をできるのだろう。毎日メッセージアプリに「好きです」って送る事とか、会話の中で一日一回は言葉にするとか。先輩は毎度「はいはい」って呆れたように言うのだけれど、その声色の生ぬるさに私は参ってしまっていて、けれどそれを言葉にしてしまったらもう言ってくれなくなるだろうから、私は俯いて表情を整えなければならない。そして、地面を見ながらに、ずっとこんな時間であればいいと思う。
それなのに、何が出来るわけでも無く日々は進んでいく。スマホの画面に、黒板に、部屋の時計に、風呂場の給湯器にまで表示されている日付を、恨めしく眺める事しか出来ない私は、だからこの初デートを大きなきっかけにしなければならない。けっきょく、どうしたら葵先輩が私の事を好きになってくれるかなんて、分からないままで、その足掛かりだけでも見つけなければ、先輩と居るその瞬間すら哀しくなってしまいそうだった。
ふと見上げると太陽が力を増していて、駅まではまだ距離がある。空が青く透き通っていくその下で、既読が付くわけのない時間に、それでも私は葵先輩とのトークルームを開いて、そこには初期アイコンで、登録名も本名の時永葵。「楽しみでこんな時間に出発です」って、玄関でとった自撮りに添えて、葵先輩はこういうことを負担に思わない人だと思う。自撮りを時々送るけれど、そっけない、けれど毎回違う言葉が返ってきて、今日は、「暑くなるだろうし、水族館に行くのだから動きやすい格好の方が良かったでしょ」みたいなこと思われるんだろうな。けれど持っている一番可愛い服で会いたくて、選んだロングスカート。きっと先輩はそこまで汲んでくれて、「暑そうだけど可愛いじゃん」なんて返してくれるんじゃないか。
既読すら付いていないのにそんなことを考えて、勝手に嬉しくなっちゃって、だから時間なんてあっという間。
集合時間は水族館の最寄り駅に十時だけれど、どうせ眠れないし、どうせずっと葵先輩について考えているのだ。何時間でも、そこが何処だろうとも待っていられる気がしていた。
朝に似合わず安っぽく光る駅の看板。改札を越えて辿り着いた始発前のホームは閑散としていて、けれどまばらに人がいる。座り込む人、スマホを眺めている人、くたびれた格好で寝てしまっている人、見慣れぬ景色はなんだか異世界のよう。
立ったまんまで私はやっぱり、葵先輩のことを考える。
先輩が私を好きになって貰う為に何が出来るか。という命題は二分で行き止まりか千日手になってしまって、精神が下を向いている時はどんな風に別れを告げられるんだろう。とか、別れたそのあとはどんな態度を取られるんだろう。昼休みに一緒に会ってくれなくなるのかな? 一緒に登下校出来なくなるのかな? とか好き勝手に形が変わっていく。でも、今日みたいに楽しみなことがあったり、精神が上を向けていれば、私が何をしたいかっていう具合に、思考が巡って、私は先輩と何をどうしたいんだろう。って考える。
キスだとか、ハグだとか、セックスについて考える。
私は高校生にもなってどれも未経験で、だから自分がしたい! って思ったとしても、それがなんだか世界から要請されているもののような気がして、本当に自分の欲望なのかなって、少し引っかかてしまう。
それに何より葵先輩と私が肉体的接触を持つイメージが湧かない。それは残酷だけれど、先輩は私のことを好きじゃないんだって、もう知っているから。もしも好きになって貰えたとして、その上で、葵先輩の全てをって考えるとたまらなく魅力的に思えるけれど、そのものよりも私は、葵先輩に「したい」って思ってほしくて、その感情が欲しいし、本当の理想は私たち二人共で「したい」になりたい。
だから結局、私は葵先輩に好きになって貰いたいってだけなんだ。やっぱり堂々巡りの結末に呆れながら、そんな結論を出すのに一時間半もかかっていたみたい。車窓の向こう側なんて一度も意識しないまま、待ち合わせ場所の駅に着いてしまって、その三番ホーム。降りたって気が付いた潮の匂いで、ここが海の近くなのだと初めて知った。
改札が鳴らすピピッて可愛い音は、家の最寄駅より少し軽やかで、どうしてかその音を聞いて、キスはしたい。なんて思った。我ながらよく分からない形で発現した欲望と、もはや昼間と変わらない温度に苦笑が漏れて、ロングスカートはさすがに自傷行為だったかもしれない。
会う前にバカみたいに汗をかいていてもそれはとてもバカみたいだから、駅の近くのカフェでモーニングセットと、カッコつけてブラックコーヒーを頼んだ。先輩が飲んでたことも勿論思い出して、でも三時間っていう待ち合わせにしては長すぎる待ち時間は、私がコーヒーを飲みきるのには短すぎた。
待ち合わせ時間の十五分前まで、ずうっと座っていたのは冷房の効いた窓際の席。やはり閑散とした店内で、コーヒーが千円するだけあって、相応の居心地の良さがあった。デートの前の高揚感も相まって一個一個の調度品にテンションが上がる。
けれど喫煙所から漏れ出す煙草の匂いだけはどうしても気に食わなかった。先輩のことばかり考えていたいのに、その香りによってノイズみたいに過去が割り込んでくるのだ。
仕事で忙しい父親の部屋、私が起きている時には殆ど家に居ないのに、煙草の香りだけは染み付いていて、スーツだって酷い匂いだった。昔は、その悪臭すら恋しくて電気をつけないまま誰も居ない父親の部屋に入り浸っていて、今からしたら考えられないことだ。私はいつしか煙草の匂いも、父親のことも嫌いになってしまった。理由なんて無いけれど、しかし嫌いというのは違うかもしれない。疲れるのだ。自分の中で、父の立ち位置を考えることさえ面倒で、だから出来るだけ考えたくなくて、父の部屋にはもう近付こうとさえ思わないし、煙草の匂いだってそう。私は先輩のことを考えるのに忙しいのに、こんなことを少し考えてしまったこともやっぱりなんか嫌。でも、そういえばママはどうしてあの父親と結婚したのだろう。
あの二人が付き合っている様子が全くもって想像出来なくて、家でもほとんど会話のない、一方的な愚痴だけしか耳に入ってこない歪な関係性しか、私は知らない。
けれど私はママと父親の子供なわけで、顔の造形が似ていると親戚からよく言われるママなんかは私と同じような恋をしたのかな。それはどんな時間だったんだろう。どんな経験だったんだろう。あの父親の何をそんなに好きになったのだろう。それで、どうしてこんな風に冷えきってしまったのだろう。部屋からほとんど出てこない父親。晩御飯を無言で食べて無言で去っていくその姿、残された食器を見て舌打ちをする母親。
私が葵先輩をそんな風に疎ましく思うことなんて、考えられないし、想像ができない。だって、もう待ち合わせの一時間前あたりから五分おきにスマホの時計を確認しなきゃいられなくなっちゃうのだ。返信を待つ訳でもなく、何度もトークルームを開いてしまうのだ。一生好きだって、本気で思う。ちなみに先輩からの返信は、「早すぎ」って、ビックリ顔のスタンプ。確かに、自撮りそのものより送信した時間の方が気になるよなぁ。なんて一人で反省会をして、でもその後すぐの、「そろそろ着く」その一言だけでさっきまで考えていたこととか、ちょっと感じていた疲れとかが吹っ飛んでいく感じがした。
私は何時間ぶりか、カフェの少し高い椅子から降りて、地に足をつける。走り出したくなる気持ちを抑えて大きく伸びをする。
恋が覚める事なんてあってたまるものか。恋とはいつか冷めるものだと誰かが言うのなら、私のしているこれが恋じゃなくたっていい。私だけの感情でいい。
肩掛けの小さな鞄を手に取る。まだ残っているコーヒーを「ごめんなさい!」とゴミ箱にぶち込む。ちょっと小走りでカフェを出る。もう真昼間と言える程の気温と、始発と比べると人が増えた。けれど私は簡単に先輩を見つけられる。
だけど私は声をかけずに、ただそこで周りを見ては、それでも葵先輩を見失わないように。先輩はきっと私を見つけるまであと十秒以上必要で、そのラグが少し悲しくて、でもそれ以上に私は葵先輩に見つけてほしいのだ。
「いた」
先輩のその一言はきっと独り言。でも私に耳が聞き漏らすわけもなく、人差し指が私に向っていて、目が合った。
「います!」って、意味の分からない返答は私の思ったよりも駅の構内に響いてしまって、ちょっと恥ずかしくなった。その様子を間違いなく葵先輩は笑って、私に向いていたその人差し指。やがて右手は解かれてひらひらと揺れる。そんな可愛らしい挨拶に、私も手を振り返す。
言葉を介さないコミュニケーションは言葉では運べない何かを運んでいるように思えて、私はブンブンって音が鳴りそうなほど右手を振って、「さすがに恥ずかしい」葵先輩がその腕を掴んだ。
先輩の腕は、白くて、指先まで芯が通っているみたい。でも、ほくろが一つ。それを初めて知って、目を逸らせなくなった。
私の腕にも大きなほくろがあって、全体は浅黒い。日焼けのような健康的な色ではなくて、薄汚れているみたいで、ムラがあって、石鹸で擦ったってとれない色。洗剤をつけて肌を大荒れさせたときは、母親に酷く叱られた。
「何?」
先輩が聞くから、私はなんでもないですって、笑った。
葵先輩は綺麗な人で、私服だって高校生だなんて思えなかった。すらりとしたデニムに、少しサイズの小さいTシャツ。動きやすくて、それなのに格好良くて、私のロングスカートが急にバタ臭く思えた。けれど先輩が着たらこれだって、違く見えるのだろうか。
「なんか、服間違えたかも知れないなって」
暑いですし。
こんなこと言う必要もないだろうに言葉は出て行って、汗が染みになっていたらどうしようって、背中が気になった。ハンカチを出したいけれど、汗を拭いているところをどうしてか見せたくなくて、葵先輩はけれど、あの瞳を真ん丸にして平然と言うのだ。
「そう? 可愛いじゃん」
暑いのはそうかもね。
そう言って今一度私の格好を上から下まで眺めて、靴が学校に通うときと同じスニーカー。持っている靴なんて他にはローファーと、サンダルくらいで、でも可愛いって先輩の言葉は嘘じゃない。「靴は、白のサンダルとかの方が合うかもね」葵先輩は、正直な人だ。告白する前から知っていて、だから告白する羽目になった。
「暑いだろうし急ぐ?」
嘘を吐けない人ではないと思う。吐く必要のない人。
だからこの格好は可愛くて、そりゃあ、スニーカーはなんだかマイナスポイントみたいだけれど、先輩以外がどう言うかは分からないけれど、少なくとも今の私を先輩は可愛いって思っていて、じゃあ、私は今、可愛いんだ。
歩き抱いた先輩は、でも視線を私から離さないでいてくれて、「私、そう言わせたかったわけじゃないんです」「そういうズルい女ではないんです」私は抑えきれない笑顔と共にそう言って、先輩は呆れた顔をする。「めんどくさい」でも、その発声の仕方は爽やかで、それなのに温もりがあるから、やっぱり私は俯く羽目になった。
駅から水族館までは二、三分で着いてしまって、その間に朝から、どうやって時間を潰していたのか、何となく報告する流れになった。私は誤魔化そうにも誤魔化せないから、「葵先輩のこと考えていました」なんて言ってみて、でも葵先輩は「時間の無駄じゃない?」ってバッサリ。「嬉しくは無いんですか? 私が先輩の事を考えていることが」「まだ別に何とも」私は考えているだけで嬉しかったのに。でも、可愛いって言われたのがまだ嬉しいから、ギリギリ舌打ちはしないでおいた。
「開館前なんだっけ?」
「あと五分くらいですよ。でも」
休日ということもあってか、人の列が、蛇行しながら伸びている。家族連れの数よりカップルの方がぱっと見多いのは面白い。「結構混んでますね」列の外側に大きな送風機が何台か並んでいて、結構な音を立てている。でもその奥に確かに波の音がして、先輩と海にもいってみたいって思う。
「葵先輩は、水族館好きですか?」
「どうだろう。少なくとも嫌いではないかな」
「私は好きなんです」
だから水族館は私が提案した場所で、それは幼少期に家族で行ったことがきっかけ。
仕事の忙しい父親が珍しく車を運転して、それがせっかちで危なっかしいから、母親が不機嫌になって、後部座席の私まで居心地が悪かったのを覚えている。確かに急ブレーキが多くて酔いそうだった。でもそんな全部も、入場してしまえば簡単に吹き飛んでしまって、青色で染められた空間は私の初めて手にした非日常だったのかもしれない。家族で遊びに行く場所なんて動物園が関の山で、遊園地にも行ったことが無かったから。
「じゃあ楽しみ方教えてね」
「そう言われると、自信はないです」
家族と行った思い出の中でだって、なんの魚を見たかとか、細かいことは覚えていない。でも、海月の水槽の前で母親に手を引っ張られて、転んでしまったことは覚えている。買ってもらったシャチのぬいぐるみは、もう捨てられてしまってどんな顔していたか思い出せない。父親に仕事の電話がかかってきて、予定より随分早く帰ることになったのだったか、私たちに謝り続けたその表情は良く覚えている。
覚えている全部はそれくらいで、でも私は水族館をいたく気に入って、家族で遊びに行く機会があれば水族館に行きたいと晩御飯の度、母親に言ったものだった。家族三人で行ったのは結局その一度きりだったけれど。
思い返してみるとその程度のエピソードと記憶、それでも私は水族館が好きだった。どこよりも初デートならば水族館に行きたいと思って、じゃあ何でって、これだって感情が先走っている。全く私の恋その物のようだった。
「だけど、絶対楽しいです」
だから私は断言できた。
「じゃあ期待しとく」
葵先輩のその笑顔は覚えたばかりの、蠱惑的という言葉がぴったりだった。




