第一章 告白
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
志乃田響子、高校一年生は時永葵、高校三年生女子に一目惚れの末少しおかしな告白をしてしまう。
「お試しね」
そして始まる1ヶ月という期限付きの交際関係。
歪な二人の歪な恋愛。
「私のこと、好きになってもらえませんか?」
朝陽に照らされた睫毛は艶やかで、その下の瞳が二、三度素早く瞬いた。黒い瞳孔、茶色の虹彩、その全てが真正面にある。私は吸い込まれそうで、吸い込まれてしまえたら、幾分も楽になるだろうに、私の身体は微動だにぜず、動かせず、空気の冷たさが肺に染み入るようだった。右手で掴んでいるはずの葵先輩の腕の感触が、感じられない。どうしてか私の乗るブランコが軋むような金属音を鳴らした。
「それって、どういう?」
「どうって、そのまんまの意味です」
葵先輩の表情は変わらない。少し潰れた鼻の形も、整えられた眉の形も、シャープな唇も、やはり印象的なその瞳の形も。余り表情が変わらない人で、笑うときだって少し唇と、目元が歪むだけ。小さく笑う人だった。それでいて先輩の瞳はいつも探るような気配を纏っていて、大きくて丸いからだろうか、覗き込むように物を見る。そのささやかな目力が、表情の印象を決定づけていて、きっと恋が終わるその時だってこの表情なのだろう。思えば恋の初まりだって、こんな表情だった。
私と葵先輩が出会ったのは、私が高校に入学して直ぐの事。図書室の隅の隅。立ち並ぶ本棚を掻き分けるように進んだ先。一脚だけある椅子は年季が入っていたけれど、赤いベルベット生地に学校の備品とは思えないような気品を覚えて、けれどそんなことよりもそこに葵先輩が座っていたことが全てなのだと思う。
くすんだ春の光が、小さな磨りガラスの窓から零れ落ちていた。本を膝の上に乗っけたまま、それを読むわけでもなく、隠れてスマホをいじるわけでもなく、寝るわけでもなく、葵先輩はただそこにいた。何をしているのかわからなかったし、何故そこにいるのかもわからなかった。
けれども教室に居心地の悪さを感じて逃げ込むように、導かれるようにやって来た私の視線は固まった。この光景を目に焼き付けたい。焼き付けなければいけないって、出所不明の衝動が、義務感へと形を変え私を襲った。
「何してるんですか?」
話しかけたのは私からで、それはようやく我に返ったから。先輩は話しかけられたのが自分だと思わなかったようで少し驚いたように瞳を大きくし、目線だけを私の方に寄越して目を細めた。
「別に何も」
貴方は? って、視線だけで問われた。
「私も……別に何も」
貴方を見ていましたとは言えなかった。
やがて先輩は頬を緩めて、それは間違いなく笑顔だったけれども、私の知っている誰の笑顔よりも柔らかく、優しくそれでいてどこまでも深く底が見えないから不気味で、ぴったり当てはまる、蠱惑的という言葉を知るのはまだ先のこと。
それから私は昼休み図書室に、正確に言うならば葵先輩に引き寄せられるようになって、まるで蛾みたい。ホコリっぽいあの場所に1日も欠かさずに足を運んだ。
それは明確に恋だった。
葵先輩がどんな思いを抱いていてあの場所に座っていたとしても、はたまたどんな悲しみを抱いてしたとしても、私には想像もつかないような壮大なドラマの果てにあの光景が産みだされたのだとしても、何一つ関係がなく私は先輩を見てしまって、自分勝手に救われて、作り変えられてしまった。
遅刻ギリギリにしか起きられなかったのに、朝起きるのが早くなって、辛うじて優等生と呼べる時間に学校に着くようになった。あんなに居心地の悪かった昼休みが待ち遠しくなって、床と上履きばかり見ていたのに、葵先輩に話せるって思ったら、些細な部分にまで目が行くようになった。
雨上がりの朝の匂い。数学の先生がどうしてか白衣を着ていて、そのボタンが二つとれていること、晴れた日に赤い傘を持つ少年のこと、お葬式に向かう金髪の青年のスーツ姿がミスマッチなのに、綺麗だったこと。
そんなキラキラだけを集めて居たくて、それは葵先輩に差し出したいから。私の話を聞いて、その瞳が満足げに大きくなって、それから小さく笑う。そんな表情の移り変わりが、好きだった。葵先輩の為に私の世界は煌めき始めた。それなのに、それだけじゃなくて、先輩のせいで世界が真っ暗になってしまうこともある。
特に先輩が同級生と話しているのを見てしまうともうダメで、親しげに話していた訳でなくとも、先輩から話しかけた訳でなくとも、テストめんどくさいね、次の授業は何だっけ? とかそれくらいの事をただ近くにいたから、それか間を埋めるために話しているだけであっても、私はずっしり来てしまう。
その態度が、表情が、私と話している時の葵先輩と同じなのだ。葵先輩は誰にだって、その覗き込むような瞳を向ける。小さく笑う。それは私だけのものじゃなかった。その事実が、「模試の結果どうでしたか?」なんて、昼休みの図書室。単純な会話の後に、大抵会話がひと段落してから、私に圧し掛かるようになって、自然に舌打ちが漏れそうになる私は、慌ててそれを噛み殺す。
でも、バレてないかなって、先輩の方を覗いてみると、先輩の視線はもう遠く。それだってしんどくて、会話をしていない時だって、私はずっと見つめているのに。
「葵先輩。私たち友達ですか」
相も変わらずの昼休みの図書室、私は我慢できなくなって聞いてしまう。
「うん。まぁ」
衝動的にふざけんなって、けれどどうにか音になる前に抑えつける。だって、「うん」はまだしも、「まぁ」とは何事だろう。「まぁ」の後ろには何が続く? その内容物は何なのだろう。
出会って、それから一週間で知った葵先輩の事。先輩のフルネーム、時永葵。所属しているクラスは三年四組。帰宅部。委員会は清掃委員。そんなのが何の意味を持つだろう。それらすらほとんど本人の意志で語られたことではなく、私が質問するなり、尾行するなりして突き止めた情報で、会話を続けていても口を開くのは私ばかり。そこにも隠れていたアシンメトリーにウンザリした。もしかしなくても、私よりも、先輩の友達ですらない同級生のほうが先輩の事をよく知っている。それならば「うん。まぁ、友達って言っても許してあげられるかな」っていうラインなのは、むしろめっけもんだろうか。そうやっていくら自分を宥めようとしても、しかしそんな風に思えなかった。
「親友ではないですか?」
俯いたままに漏れ出た言葉に、むしろ先輩は顔を上げた。真ん丸の目で私を見つめる。絶句した先輩をはじめて見た。探るような瞳はいつものようで、しかし、それならばもう、私の全部を見通してほしかった。言い過ぎたかもしれないと後悔と、本当にそこに目標を定めてよかったのかという後悔、どちらにせよ大きな後悔も含めて、全部を。
「そういうのって、後から名前が付いてくるものじゃない? なりゆき、じゃないかな?」
私はそんな正論にどう返すことも出来なくて、とても冷静で、それでいて温度のこもった言葉だったというのに、私は我慢できなくて、なりゆきって言葉も受け入れられなかった。そんな正体不明、実態があるのかないのか不確かすぎるものに、大事な大事な私の思いを背負わせることなんて出来るわけがない。
恋とは何なのだろう。好きって気持ちは何なのだろう。二文字で終わるはずの言葉にどれだけの意味が込められているのだろう。
私はたった一週間足らずで、先輩の特別でなければ我慢できなくなってしまっていて、それが恋だというのなら、それは世間一般で謳われる以上に、醜いものだと思う。
「一緒に帰りませんか?」
これは下駄箱で待ち伏せて。
「一緒に登校しませんか?」
これは通学路にある公園で待ち伏せて。
言わずにはいられないのに、言った後に不安になって、でもだからこそ、受け入れられた時の歓びは一入で、そんな風にして二週間が過ぎた。先輩と出会ってからおよそ一か月。ようやく私は手応えのようなものを手に入れて、だって単純に一緒に居る時間が増えているのだ。そうでなくとも私は先輩についての色んな事を知って、話して、学校内の誰よりも先輩の事を私は知っているし、誰よりも一緒に居るのだ。だから少なくとも、先輩の中で私の立ち位置は特別なものになりつつある筈で、それなのに。
「今日は、帰り遅くなりそうだから待ってなくていいよ」
空気の冷たさが透明感を演出する、眩しい朝。風があって、夏の予感を今だけは忘れられるような、そんな朝。いつものマンモス公園で、いつもの通りに、敢えて奥のブランコに腰かけて、私は先輩を待っていた。一緒に登校するようになって二週間。私の行動は初日からほとんど変わらない。その日だって先輩は時間きっかりにやってきて、私は先輩に気が付くと、慌てて手に持っている文庫本に目を落とす。気が付いていないフリ。文字をいくら追っかけても、文章になってくれず、視覚以外の全部は先輩の方に向いている。足が泳ぐ。上げたくなる顔を必死で押さえつける。だって、そうすれば先輩がここまで歩んでくる。私の下へと一歩一歩。先輩の意志で、先輩の足で。私はその足音を待つのだ。私はその時間が好きだった。
「おはよう」
先輩から言われて、そこでようやく私はたった今気が付きました。なんて風に、先輩の顔をまじまじ見て、それから「おはようございます」って、返す。それがいつもの事だった。
でもその日は開口一番に、放課後は一緒に帰れないなんて告げられて、「委員会か何かですか?」「体育祭」話を聞いてみると、体育祭の為の居残りがあって、それで帰るのが遅くなるのだという。
「全然待ってますよ。いつもの場所で」
私は食い下がった。ブランコに腰かけたままで、出来る限り何気なく、読んでもいない文庫本を鞄にしまいながら。先輩は、ぼんやり少し遠くの方に目を向けていて、けれど、その言葉を聞いて視線のピントが私に合った。キョトンとした顔で、けれどいつもの調子で私に言う。
「なんで?」
何でって、私の動きは止まってしまう。頭の中で繰り返す。「まぁ、いいよ」っていつもの返事が返ってくると思っていた。何も言えないまま視線だけが泳いで「多分同じ係の人と同じタイミングで帰ることになるし、なりゆきのまま一緒に帰る感じになるかもって思ってたんだけど」なんでもないことのように先輩は続ける。
「なりゆき」
私はオウムか文鳥みたいに繰り返す。何をどう思考が巡っているのか自分でも訳が分からないまま、「なんで?」と、なりゆきって言葉だけがリフレインして、「学校行かないの?」って急かすようでもない調子の言葉にだって、大きな他人行儀を感じてしまった。
一緒に登下校するようになって二週間。出会ってから一か月。けれどその時間で距離が縮まったわけではないのだと、はっきりと形になってしまった気がして「葵先輩」ブランコは微動だにしない。先輩はここからじゃ見えやしない学校の方を眺めているのだと、気がついた。
「私のことどう思ってます?」
言ってからその言葉の重みに身が硬くなった。どういう風に受け取られるだろうかって、〇コンマ数秒の間に想像が駆け巡って、良くない後味だけが残る。でも、それでも。って、縋るように先輩の方を見ていたのに、その表情は想定していたどれとも違った。
「どうって、別に」
私の手は、理性や意思が働く前に勝手に伸びて、先輩の腕へと辿り着いていた。先輩の腕は制服越しでも細く、冷たかった。「何?」少し裏返った声。きっと驚かせた。それにちょっとスカッとして、なけなしの理性が私の口を閉ざそうとする。ともかく、今じゃない。今じゃない。今だと絶対失敗する。失敗が何で、成功が何かは解らないけれど、ともかく全部が瓦解してしまいそう。それはやっぱり怖いことだ。これだって手放せないものだ。ずっと黙ったまま、けれど強く握ってしまっていたのか「どうしたの?」心配そうな声色だった。「葵先輩」それが、私にとってどう働いたのか、ともかく聞いたことのなかった声色で、視線が合った。
「私の事、好きになってもらえませんか?」
私は言ってしまった。
「それって、どういう」
「どうって、そのまんまの意味です」
「友愛?」
短い問いかけに大きく息を吐いた。
「それもありますけど、そうじゃない方です」
曖昧な言葉が出てきた自分に驚いた。どうして恋愛だ。LOVEだ。って、言えなかったのだろう。先輩は黙ってしまった。けれど、もう学校の方は見ないで、私の方を見ていてくれて、でも解る。その表情で、ただ言葉を選んでいるのだと。気が付くと私は祈るような気持ちになっていて、その祈りも通じなさそうだって、気が付いて、どう断られるんだろう。どんな言葉が出てくるんだろう。どうしてだろう。どうすればよかったんだろう。そんなことを思うと涙が出て来て、「何でですか?」「なんでって?」「何でダメなんですか」先輩は、そんな私を見て、そう問われて、真剣な顔で考え込んでしまって、私はもう、こんな顔見られたくなくて、でも、目と目を合わせないと、言葉が伝わらない気がした。「わかりました。一か月でいいです。お試しでいいです。一週間でも、一日でもいいです」「今、葵先輩が私のこと好きじゃないって、そんなことは解ってるんです」「でも、好きにさせて見せますから、だからどうか、好きになってくれませんか」「待ってください。まだ何も言わないでください。何をすればいいですか? 出来る事なら、差し出せるものなら何でも」「私は、もうだから好きなんです」言葉はどんどんドロドロに溶けて行って、液体に近づいていく。唾液みたいな粘性が我ながら気味悪くて、でも止まらない。涙も、吐瀉物みたいな言葉も。「何か言ってください」景色も歪んで、私は大まかな光しか感じられなくて先輩の表情だってその中に飲み込まれてしまって、ただそれは光だった。「やっぱり何も言わないでください」「まだ、もうちょっと、何も言わないでください」気が付くと先輩は私と向かい合うような位置にいて、何でこんなことになっちゃったんだろう。でもきっと何度繰り返してもこうなる気がして、じゃあもうしょうがない。
「学校、間に合わないかもね」
呟くように先輩は言った。私は、ただ頷いた。
「一か月」
先輩の口調はそのままだった。
「切り悪いし、七月の終わりまでにしようか」
それなら、問題はないはずだから。
そうやって、小さな声でそう付け足して。
「お試しね」
先輩は私の頭に右手を置いた。
そういう具合で私は先輩と付き合うことになったのだけれど、やっぱりちょっと普通じゃない。でも、それでも私は、叫びたくなるくらい嬉しくて、抱き着こうと上体を起こすと、「待って」って、手で制されて、ハンカチを渡された。涙を拭くと先輩の表情が、朝を卒業した澄み切った青空を背景にして、「サボっちゃおうか」それはどういう表情なんだろう。いつもと同じ表情に、その瞳に、どんな感情が込められているのか知りたくて、こんなことになって、それでも私は未だ先輩の事を何も知らないままだった。