第8話「デッドライン寸前」
午前4時37分
画面太志はソファの背にもたれ、目を閉じている。
画面の端に残るFigmaのアートボードを眺めながら、歯を食いしばった。
スマホが振動し、無茶振男からの通知が光る。
「やっぱ“映画みたいな”トップページが必要!
フルスクリーンの動画で、感情を揺さぶろう!
モック、今日中にくれ!」
彼は一瞬動き、言葉を飲み込む。
「“今日中”…また“今日中”って……」
声が震え、肩が小刻みに揺れ動く。
「……今日が、まだ始まってないのに……」
午前9時03分
枝分木造が背中を丸めながら、Git のブランチログと睨み合っている。
いつもは綺麗に剃られている顎や頬も無精髭が濃くなり、瞳には赤い血管が張り巡らされている。
「またリバートだ……
夜中の俺のコミット、全部戻ってる」
指が止まらない。
彼自身の震えが止まらない。
彼の涙も止まらない。
虫生正義はバグ報告を開いたまま、眉間を押さえた。
「これ、日々のログじゃなく“クラッシュした心の破片”よ……」
閉じかけた目が再び開く。
画面が揺れているようだった。
独り言とも呻きともつかぬ声を吐き、目を閉じる。
頭痛が常にある。眠っても、起きても。
電脳充がモニターのエラーメッセージを睨みつけてつぶやく。
「CI が通らないってことは、“環境も精神も壊れてる”ってことだよね……」
ターミナルに噛みつくようなキーを叩いていた。
チャートは真っ赤。各環境が断続的に落ち、Slack の“ FAILED”が滝のように流れていく。
午前10時32分
納戸 納男は全体スレッドを見渡し、心臓が速く小さく跳ねるのを感じた。
――守りたい。
守る、と決めた。
けれど、誰も守れていない現実が、胸にひび割れのような鈍痛を刻んでいる。
納男はホワイトボードに向き合い、赤いマーカーを握る手に力が入る。
「守ろうとしてるのに、守れてない」
声にならない言葉が、心に突き刺さる。
画面太志を見ると、Figma のタブが開いたまま止まっていた。
カラーパレットを選べない虚な目。
枝分は無表情で「—」とSlack返信を打った。
虫生はチケットに“萎え”と書き込む指を止められない。
「……アタシたち、どこまで壊されるんだろ」
つぶやきは空気に溶けていく。
電脳はモニターに映ったエラーログを無言で探し、顔が硬直したままになる。
早刷太郎はフロアを一周しながら、メンバーの様子を観察していた。
この数日で明らかに、誰の目にも疲労の色が濃くなっている。
全員、今すぐにでも止まってしまいそうな心臓を抱えているようだった。
午後1時17分
スマホが震える。理不尽沢からのコールだ。
「あ、納戸くん?
“モックはいつ出る?”って聞いてるんだけど、出せないなら、“どこを削るか”だけ教えて」
納男の胸がひどく締めつけられる。
削る――
それは、誰かの時間と、汗と、想いを切り捨てる行為だった。
「パーツ20%カット。
効果試せる最小構成にします」
歯を食いしばって答えた。
「……本当に?」
無言の間。カメラ越しに見える理不尽沢の瞳に、揺らぎがなかった。
「三時間ください」
絞り出すように答えたとき、自分の声がやけに遠く聞こえた。
納男は拳を太腿にぎゅっと押し付けた。
三時間後に“捨てる一覧”を差し出す――
それは、仲間の汗を紙切れに変える作業を指していた。
午後3時58分
テーブル上にモックのPDFが広げられる。
画面太志は赤点で囲みながら、時折ため息を漏らす。
虫生は“非対応項目リスト”を前に頭を垂れたまま、「これ全部アタシらの努力だ……」と呻いた。
電脳は黙々とパイプラインを組みつつ、「環境、壊れたら俺らも壊れる」と呟く。
設計裕は壁のホワイトボードを眺め、「線を引いたはずなのに、みんなこの“線”を踏み越えてる」と、吐き捨てるように言った。
納男の胸裏で秒針の音が巨大化する。
指の震えが止まらない。
「納男」
背後で設計裕が低く呼んだ。
「お前が背負いすぎて折れたら、納期は誰が守る?」
喉が詰まり、息が吸えない。
それでもキーボードへ向かう。
午後4時34分
Zoom画面に映る理不尽沢と無茶振男。
無茶振男は笑顔で、理不尽沢は嘲笑を含んだ冷笑を浮かべている。
「“面白さゼロ”って言ったよね」
理不尽沢の言葉は冷たい刃になり、納男に刺さる。
「守ることに価値があるか否か? 判断基準、君たちにあるの?」
無茶振男がチャラい声で重ねる。
納男は画面越しに背筋を伸ばした。
「価値があります。
守れなかったら、技術もチームも、誰も“守った”とは言えない」
一瞬、静寂。
次に理不尽沢が小さく笑った。
「で、具体的にどう守るの?
“捨てるものリスト”は?」
納男の声が震えたが、言葉を紡ぐ。
「“捨てないもの”として以下を明文化して提示します。
それが、チームの“やれる線”です」
マイクが切られる瞬間、納男の目に涙が浮かんでいた。
午後5時15分
Slack DM に電脳からのメッセージ。
「CI復旧した。
環境は、まだぶっ壊れてない。
お前が戻ってこいって言ったなら、俺は戻る」
枝分が淡々と呟いた。
「戦術的には負けてる。
でも“誰も逃げてない”ってのは……
なんか、奇跡だよな!」
虫生は「バグ報告、笑いに変えないとやってられないわよ」と絵文字付きで書き込む。
画面太志が投稿した画像の名前は「まだ立っている.jpg」。
それは真っ黒なキャンバスに、白いドットが一つだけ浮かんでいた。
設計裕は手元のホワイトボードを見て黙っている。
その隣で、早刷太郎は「このチームの芯は壊れてない」と一言。
それらのメッセージを見て、納男の頬に一粒の熱い涙が伝った。
納男は自らのノートにこう書いた。
「“タイムアップ寸前”でも、
心がタイムアップしなければ、
まだ遅くない。」
その手はわずかに震えている。
だが、恐怖に負けず、またキーボードを叩いた。
「ここから、譲らない」
納男はカーソルを新しい行に置いた。
再び一行目にこう打つ。
「ここから、譲らない」
そして、再びコードと仕様書が動き出した。
終わり(ゴール)の旗が振り下ろされるその瞬間まで。