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第6話「新たなる要求者」

朝、《能木デッドラインズ》の蛍光灯はいつもと変わらず白く点いていた。


キーボードの打鍵音、プリンターの軋む音、缶とインスタントのコーヒータイム。


すべてが、昨日と同じように流れていたはずだった。



だが納戸納男は、ほんのわずかな異変を感じていた。



資料の更新依頼が、夜中の3時に届いていたこと。


早刷太郎の「気にしなくていいよ」が、どこか浮ついていたこと。


そして何より——



設計裕のマウス操作が、1ミリだけ、荒かった。



「何かが来る」



チームの皆で超えてきた数々の峠を、誰かが踏み荒そうとしている音がする。


その予感は、間もなく現実となった。




「今日の定例、メンツが増えます。」


早刷太郎の一言が、朝の定時直後に全体チャットへ投げ込まれた。


軽い口調の割に、文章の最後に打たれた「。」が妙に重く見えたのは、納男の気のせいではなかった。



「外部の関係者……?」

「いや、たぶんクライアント側だと思う。無茶さんの上司筋とか?」


そんな私語が開発席に流れる中、納男は黙ってスケジュールに目を落とした。


定例進捗報告会。

週に一度の節目のはずだった。


だがその日だけは、「節目」ではなく「裂け目」になる予感がしていた。




開始5分前、設計裕が設計書の最新版を手に会議室へ向かう。


その背中は普段通り真っ直ぐだったが、歩幅がわずかに小さくなっているように見えた。


納男はそれに続き、資料を胸に抱えて歩く。


廊下を曲がると会議室が見えてくる。


その中にはもう、クライアントの無茶振男が座っていた。


いつものように自信満々の笑顔で、空調の吹き出し口を指さしながら何か冗談を飛ばしている。



だがその隣に、見慣れぬ男がいた。



スーツはクライアント筋のそれにしてはカジュアルすぎた。


第一ボタンを外し、ネクタイもしていない。


だが、靴だけは無駄に光っている。


座り方にクセがあり、椅子の肘掛けに片肘を乗せて、まるでここが自分のオフィスかのような居住感。


資料もメモ帳も開かれていない。

あるのは、視線だけだった。



油断のない、そして見下ろすような目線。



納男の胸に、再び朝の違和感が戻ってきた。


肌の上に、ひやりとした空気が貼り付くような感覚。



会議室に足を踏み入れると、無茶振男が口を開いた。


「よっ、今日からちょっと新しいメンバーが加わるんで。まぁ、よろしく頼むわ」


「……どなたですか?」


納男の問いに、男は口角を片方だけ上げて、笑った。



「理不尽沢。理不尽沢剛志(りふじんざわ・たけし)

今後しばらく、君たちのやってること横から見させてもらうよ」



その声には圧があった。


見ているだけではないことを、誰もがすぐに理解できるほどの、重くて鋭い“要求者の目”だった。




会議室に入ると、いつもの席順が崩れていた。


早刷太郎は普段ならホワイトボード側の席を好むが、その日は無茶振男の隣に座っていた。


そして、その横には――理不尽沢剛志。


名札も肩書きもない。

だが、誰の目にもわかる“上の人間”特有の存在感があった。



「で、今の時点で、このプロジェクトの自己評価、何点?」



開口一番、理不尽沢はそう言った。


挨拶も前置きもなく、いきなり“採点”を求める言葉だった。



一瞬、会議室に空白が生まれる。


その間を埋めるように、無茶振男が笑いながら肩をすくめた。


「おいおい、いきなり点数って。こっちはこっちで頑張ってんのに、ねぇ?」


だが理不尽沢は、無茶振男にすら目をやらず、顎を上げたまま真っ直ぐ納男たちを見る。



設計裕が静かに答えた。


「現状、仕様書の完成度は80%。開発の準備状況を含めると、全体で60点と評価しています」


「ふぅん……」


理不尽沢は椅子の背にもたれ、視線だけをゆっくりと天井へ向けた。


「昨日の夜に確定した仕様、だっけ?

それって、今日の朝にはもう古くない?」



その言葉に、チームメンバーの呼吸が一瞬止まった。



「……で、それが“最新の仕様”ってわけ?」


理不尽沢剛志は、ページをめくりもせず、設計裕が丁寧に印刷した設計書の束を指先でつついた。


爪すら当てず、まるで埃でも避けるように。


「……はい。現段階で合意を得た要件に基づいて、整合性を優先した構成です」


設計裕は冷静に答えた。

語尾にも語調にも乱れはない。


だが、その横顔は少しだけ硬かった。


それは、彼が“不確かなものに対して敬意を払えない”男だと、納男が知っているからこそ分かった表情だった。



「ふーん……“合意”ねぇ。

あのさ、合意ってのは、君たちみたいな現場レベルで握っていいもんだったっけ?」


理不尽沢は言葉をなぶるようにゆっくりと笑う。


その目線は、資料ではなく完全に“人”に向いていた。


「それに、設計ってそんなに偉いの?

俺から見ると、エンジニアの都合で仕様を固めてるようにしか見えないんだけど。

“できること”に合わせて作る仕様って、企画的にはアウトじゃない?」


設計裕は返さなかった。


いや、返せなかったのではない。

返す必要がないと判断したのだ。



だが、それを“黙り込んだ”と受け取るのが、理不尽沢という男だった。


「……図星だった?

あ、ごめんごめん、言い方キツかった?

まぁでも、正直さ、技術側の都合って聞いてて眠くなるんだよね。


会議ってのは、もっとイノベーションに寄ってくれないと」



納男の中で、音のない(サイレントファイア)が立ち上がった。


だがまだ、言葉にはならない。



隣で早刷太郎が、いつものように空気を和らげようと口を開いた。


「まぁまぁまぁ、理不尽沢さん。そこは、うちのチームで上手く整えていく部分でして――」


「……うん、それ、何度も聞いたなあ」


理不尽沢は、早刷の引き攣る笑顔を払うかのように手をひらひらと振って遮った。


「“整えていく”って便利な言葉だよね。

でもね、今日も昨日も“整ってない”ように見えるのは俺だけ?


スピード感が、ちょっと時代遅れっていうか…


…うん、皆が言ってるのは、“昔の古臭い丁寧さ”みたいな?眠くなってくるんだよね。」



誰かが小さく息を呑んだ。


それが納男自身だと気づくまで、少しかかった。




納男は拳を机の下でゆっくり握った。


言葉が喉まで来て、そこから引き返せなくなっていた。


言い返したいわけじゃなかった。


でも、これだけは飲み込んではいけない。



——敬意を欠いた煽りの言葉が、努力を踏み躙っていくことだけは。




納男は静かに顔を上げ、理不尽沢を見た。



「お言葉ですが」


静かに、しかしよく通る声だった。



理不尽沢の目が、わずかに細まった。


「……ん? 君は?」


「納戸と申します。

設計から実装、進行の技術調整まで幅広く担当しております」


「へぇ、“現場のなんでも屋”って感じ? で、なに?」


「設計裕さんが提示された構成は、これまでの議論や要望をもとに、現実的なスコープで最適化されたものです。


安易な“イノベーション”ではなく、実行可能性を見据えた判断です。


それを“古臭い”、“眠くなる”とか、そういう枠で切ってしまうのは……


……私は、見当違いだと思います」




「……」


一瞬の沈黙。


無茶振男が興味深そうににんまりと笑う。


設計裕は表情を変えず、しかしそのまなざしは真正面から納男を見ていた。


早刷太郎だけが、静かに、何も言わなかった。



理不尽沢はゆっくりと笑った。


「おお、いいねぇ納戸くん。骨あるじゃん。

言い方はさておき、そういうの、俺は嫌いじゃない」


彼は背もたれに寄りかかり、椅子をギシ、と鳴らした。


「じゃあ今日から、君らの“現実”とやらをじっくり見させてもらうよ。

口だけじゃなく、結果を出せるかどうか。

楽しみにしてるからさ」


その声はあくまで柔らかく、しかし釘のように冷たかった。



納男は、もう黙っていた。



これから始まる対決(バトル)の形を、確かに自分の中で感じていた。




最初は小さな指示から始まったSlackの通知。

今日も止まらなかった。


「ユーザー視点で、やっぱAWSのほうが“安心感”あるよね」


「こないだの提案、やっぱ微妙だったかも。刷新しよう!」



——どれも、無茶振男と理不尽沢剛志による“気付き”だった。


だがその裏側で、仕様も画面も、システム全体が連鎖的に崩れていく。




「……これ、インフラ構成そのものが覆ってるじゃないですか」


インフラ担当の電脳充は、唇をかみながらSlackのメッセージを見つめていた。


クライアント側から“クラウド環境の見直し”が言い渡されたのは、昨夜の23時。


しかも、構成変更の理由は「AWSのほうが信頼感ある」という“感覚”に基づいていた。


「Azure前提で設計してた認証まわり……

……全部やり直しだこれ。

ゼロからじゃないにせよ、9割は死ぬ……マジか」


彼のPCには、落ちるテストと止まるCI/CD。


背後で、QA担当の虫生正義が低い声でボソリとつぶやいた。


「こっちはこっちで、API戻されたせいでバグ、再発よ……また対応表、書き直し……」


UI設計の画面太志も苛立ちを隠さない。


「このパーツ構成、二転三転どころか五転くらいしてる。もう正解どこ?」


フロントエンド実装担当の枝分木造が続ける。


「昨日俺が組んだバリデーション、もう使わないって言ってなかった?」


再利用を前提に設計した関数群が、再利用できない状況に次々と追い込まれていた。


「全体構造が“定まらない”まま、実装だけ進めるの……やめない? 一回止めて話そうよ」


枝分の声は静かだが、明らかに怒りを含んでいた。




それでも、現場の空気をなんとか保とうとしていたのが、早刷太郎だった。


「……気持ちはわかる。けど、止めたら納期が死ぬ。

それに、理不尽沢さんは“動きながら作れ”って言ってる。

……今は、それに応じるしかない」


「納得はしてないけど、理解はしてるわよ」


虫生がため息まじりに言った。


「アタシ、今日だけでバグ報告12件、3件“自然消滅”してるんで。

バグっていうか、幻影を相手にしてる感じだわ……」


「俺もFigmaの画面、4時間かけて作ったやつ、消しました……

…理不尽沢の野郎、“ワクワクしない”って一言で」


画面がぼそりと続ける。




納男はその様子を、黙って見ていた。


——“守りたい”と思っていたチームのメンバーたちが、何一つ守れていない。


みんな疲れている。


だが、まだ誰も声を荒げてはいない。


それが、かえって痛かった。




そんななか、Slackが鳴る。


理不尽沢剛志:

「納戸くん、明日の定例、開発側の進捗まとめて話して。

“できてない理由”より、“どうするか”の話をしたい」


責任が、肩にのしかかる。


それはまるで、“お前がやれ”という指名のようだった。




夜。


オフィスに残っているのは納男と電脳だけだった。


「……CI落ちまくってるけど、無理やり通すと後で死ぬ。わかってるんだけど、もう、どこまで“仮”にしていいのか……」


「見極めてください。仮でも、立てば先に進めます」



納男はそう言ったあと、自分の言葉にハッとして、少しだけうつむいた。


「すみません、プレッシャーかけるつもりじゃ……」



「いや。助かる」


電脳はモニターを睨みながら、いつもの淡々とした声で返した。


「俺、仕様が揺れても、環境は揺らがせたくないんだ。

納期が納男の信念なら、俺のは“安定稼働”。

たぶん、同じくらい譲れない」



その言葉に、納男は小さくうなずいた。




オフィスに、静かなタイピング音が鳴る。


誰にも気づかれないところで、今夜もコードが積み重なっていく。


納男は、メモの隅にこう書いた。


「次に壊されたときは黙ってない」


それは、戦う決意ではない。



守るための、最初の覚悟だった。

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