秘劇
止まると思っていたはずの車は止まることなく自転車を漕ぐ俺に突撃した。
それから、目が覚めると病院にいて医者からは事故の後遺症でもう利き腕である右手は使えないと言われた。
「あんたをもうちょっと注意深く生んでいたらねえ。」
小言を言い続ける母に苛々しながら、退院の手続きを行なっていた。左手でペンを滑らせるのは至難の技だ。いつも書いていた自分の名前なのに、字がガタガタだった。
左利きの学校生活が始まっても一向に慣れなかった。
「茂樹、大丈夫かよ?手、全然慣れねーのな。」
小学生の頃から幼なじみの洋介は心配そうにボールを左手で投げる俺を見た。
手が使えなくなったといっても手首から上が動かなくなっただけだったので、どうにかボールを持つことは出来たが、バスケ部のレギュラーだった俺は、補欠へと降格した。
良いことは何にもない。
不便なばっかで、イラつくばかりだった。
「あ、ごめん。」
食堂で昼飯を食べていると、左手で箸を持つせいで隣の席の右利きのやつに肘が当たる。
いつも座る席を見つけるのも困難なくらい混んでいて、長テーブルに座るタイプのうちの学校の食堂がこんなに嫌になったことはない。
もう何度も、見たことも話したこともない生徒に当たりまくっていたので、顔も上げずに「こっちこそごめん。」と低い声で言った。
「神谷、大変だよね。左手もう慣れた?」
さっき謝ってきた隣の席の奴は更に声をかけてきた。顔を上げてそちらを見ると、同じクラスの佐伯だった。
佐伯は、クラスでも明るいムードメーカーで、陸上部のエースで、男子にもよくモテた。誰にでも優しく声をかけるところがあった。
「ああ、まあな。慣れねーと一生治らねーし。」
「そっか。そうだよね。まあまだ17年しか生きてないし、これからのが長いもんね。神谷、左手のプロになるんだね。」
「まあな。」
俺は素っ気なく答えた。
それから、幾度となく佐伯は声をかけてきた。
気が合うのがだんだん分かってきて、その内2人で出かけるようになり、付き合うことになった。
将来のことも二人で悩み、ずっと付き合っていって、こいつと結婚するだろうと高校生ながら当たり前に思っていた。
「神谷!」
廊下の奥の方から佐伯が走って来た。
そういえば、今日は三者面談だと言っていた。
父親が来てくれるけど、本当の父親じゃなく、最近母親が再婚した相手だと、苗字も変わらないままなんて変でしょ?と、佐伯は遣る瀬無そうに笑っていた。
佐伯が走って来た奥から父親らしき人が歩いて来て俺に笑いかけた。
とても優しげで、娘の彼氏だというのに特に嫌そうでもなかった。
近づくごとに、俺は胸騒ぎを感じていた。
何故なら、見たことのある顔だったからだ。
「お父さん、私がお付き合いしてる神谷くん。」
「そうか。どうぞ娘をよろしくお願いします。」
父親は一切気付かなかったようだった。
何ヶ月か前に自分が車で轢いた相手だと。
俺だけが冷や汗をかいていた。
忘れもしない、自分の右手を使えないものにした、不便な生活に陥れたやつの顔を。
自転車に乗っていて、一瞬しか見てなくても忘れなかった。
けれど、彼女には言わないでおく。
右手を失わなければ、彼女とこんな風にはならなかったろうから。
一生、秘密にしておこう。
そして、一生続く秘密のはじまり。