優しいだけの婚約者
「大丈夫? 疲れてないかい?」
私の婚約者は優しい。
様子が少しでもおかしいと、すぐに気付いて気遣ってくれる。
今日もこの日暮れの学院で、彼は心配そうに声を掛けてきた。
「法学の試験が近いから、根をつめすぎたせいかも……」
「今回の試験範囲はいつもより広いからね。何か困っていることはない?」
「ううん、大丈夫よ。この調子なら乗り切れそうだから」
「分かった。でも、あまり無理はしないで」
靡く銀髪と紫紺の瞳が、夕日に照らされて輝きを放つ。
背丈こそ追い抜かれたけど、柔らかな笑みは幼い頃から変わらない。
優しさという言葉をそのままに表したような人。
それが私の婚約者であり、アルテール家の令息、イリアス・アルテールだ。
「ごめんなさい、イリアス。貴方との予定があったのに、クラスメイトが体調を崩して、その代役で……」
「そうだったんだね。それなら、私は時間を潰しておくよ。もし、それからでも会えそうだったら連絡して」
「えっ? でも、本当に大丈夫なの?」
「気にしないで。私は元々、コーデリアに会うことを楽しみにしていたから」
私が約束を破ってしまった時だって、イリアスは決して怒らない。
微笑みを絶やさない彼の姿には安心感を覚えるくらい。
勿論、不満なんてない。
優しい彼にそれ以上を求めるのは贅沢というもの。
けれど周りからは時折、心配そうな視線を向けられる。
「確かに、イリアス様はお優しい方です。けれど……」
「少し優しすぎると言うか……」
「お互いに、気疲れしませんこと?」
ある日、学友と話し込んでいる時にそんなことを言われる。
彼の温和さは学院内でも周知の事実。
階級関係なく誰にでも手を差し伸べるし、誰にでも優しい。
けれど、それが逆に周りからはお節介に見えるようだった。
言わば、優しいだけの婚約者だと。
直接そんなことを言われる訳ではないけれど、そう感じる時はある。
優しいだけで変わり映えがない。
笑顔ばかりで刺激が足りない。
相談という体で、私からそんな言葉を引き出そうとしている。
彼女達は単純に、私が何か溜め込んでいるのでは、と心配しているのだろうけど。
だから、いつもやんわりと否定する。
気疲れすることなどないし、不満に思っていることもない。
すると、決まって意外そうな顔をされる。
まぁ、学院内で既に婚約者同士になっている男女は珍しい。
彼女達は、いつもとは違う刺激のある話を待っているのかもしれない。
そして、そんな彼女達が刺激を得ている、熱を上げている人物は他にいる。
それは学友と話し込んだ、その日に聞こえてきた怒声。
貴族学院という場には相応しくない大声が響いた。
一瞬だけ周囲の空気は止まったけれど、次の瞬間には何事もなかったように動き出す。
完全に無視を決め込む人もいれば、興味本位で声のする方へと向かっていく人もいる。
私はどちらかと言えば、後者の部類。
真っ先に向かっていった学友を追う形で、学院の中庭に足を運んだ。
「目障りだ! 今すぐ俺の視界から消えろ!」
「お、お待ちください……。せめて弁明を……」
強い命令口調と弱々しい声が交差する。
その場に顔を覗かせると、複数の男子生徒が集っていた。
中心にいるのは第一王子、クラーク殿下だ。
国王を父に持ち、生徒の中では最上位の権力を持つだろう人物。
既に機嫌を損ねているのか、長い金髪から覗く鋭い視線がいつにない鋭利さを見せている。
殿下の視線の先には、青白い顔の男子生徒が身体を震わせていた。
恐らく男爵家辺りの令息だ。
殿下の圧を前に完全に委縮し、何も言えなくなっている。
「あ~あ。殿下を怒らせちゃったね。お前、もう終わりだよ」
「あははっ。膝が笑ってるよ。情けないなぁ」
その状況を殿下の取り巻きが囃し立てる。
嘲笑と侮蔑の声。
周りを見渡しても、彼らを止める人は誰もいない。
これが、この学院では日常の一つになっていた。
彼らは時折、こうして弱い立場の人を狙う。
標的へ無理矢理近づき、尤もらしい理由をつけて晒し上げる。
王族という立場もあって、表立って物申す人もいない。
だから余計に言動がエスカレートしているのだろう。
優しさと真逆の立ち位置。
これが、刺激があるということなのか。
私が彼らの前に進み出ると、周りの視線が一斉に集まった。
「クラーク殿下。同じ学び舎に通う学友を貶める行為は、如何なものでしょうか」
「ヴァレンシア家の令嬢か。懲りもせずに……」
誰も諫めないので忠告すると、殿下がようやくこちらを向く。
その表情は邪魔をされた、とでも言いたげだった。
「お前に指図される謂れはない。こんな無礼な連中、学院の品位を下げるだけ。この行為自体が、礼儀を知らない下位貴族達への牽制になっているのだ。寧ろ、この場の秩序を保っている俺に感謝してほしい位だな」
「お言葉ですが、殿下に彼らを追放する権利はありません。この学院では皆、等しく生徒という立場なのですから」
「相変わらず冷める発言をする奴だな。この俺が、あんな連中相手にも譲歩しているということが分からないのか? それとも、お前が奴らの代わりになるのか?」
譲歩。
彼の言う譲歩とは、ただの粗探し。
憂さ晴らしをする理由を探しているだけに過ぎない。
結局、殿下に歩み寄った所で何も解決しない。
私が引き下がらない限り、彼が動くことはない。
殿下の取り巻きも生温かい目でこちらを見るだけで、私はその場から立ち去る以外にない。
これで何度目だろうか。
だが、そんな彼らの行動にも中立的な声は上がってくる。
「確かに、あの方を恐ろしいと感じる時はあります」
「それでもクラーク殿下には惹かれるものがあるのよね」
「カリスマなのかしら。やっぱり、お顔も素敵だし……」
「横暴なのでしょうけど、あの方から愛してもらえたら、きっと幸せでしょうね」
引き返してきた私を見て、そんな声が聞こえるのもいつものこと。
彼は第一王子なのだ。
今のところ婚約しているという話も聞かないので、彼と懇意になろうと思う女生徒もいる。
私は特に何も言わない。
ただ、先程のような場面を見かければ忠告するだけ。
どれだけ暴言を吐かれても止めるつもりもない。
そんなことが続く中、イリアスがいつも以上に心配そうに声を掛けてきた。
「あまりクラーク殿下には関わらない方が良い」
「急にどうしたの?」
「彼の横暴さは、日に日に酷くなっている。もしコーデリアに何かあったらと思うと、居ても立っても居られないんだ」
「私を心配してくれているのね」
「勿論だよ。元気のないコーデリアを見るのは、私としても辛い。だから、殿下の件は私に任せてほしい」
彼も当然、クラーク殿下の行いは知っている。
知っているからこそ、私の身を案じているのだろう。
下手に刺激をした結果、私が標的になることだってあり得る。
気遣ってくれていることは嬉しく感じるし、余計な心配をかけていることは申し訳なく思っている。
けれど、首を振って答えた。
「ありがとう、イリアス。でもこれは私にとって、意味のあることだから」
理由もなしに、こんなことをしている訳じゃない。
イリアスも少し残念そうな表情をするだけで反論はしなかった。
そもそも彼が反論することなんて滅多にない。
あくまで私を尊重し、後押ししてくれる。
そんなイリアスの優しさに、私は甘えているのかもしれない。
分かっていながらも、殿下が生徒を吊るし上げようとする場面を見かければ、必ずその場に訪れて何度も諫めていった。
「くどいぞ、コーデリア・ヴァレンシア。お前の忠告には、ほとほと嫌気が差す」
「それでしたら、学友への差別的行動は控えて下さい」
「やれやれだ。お前の命令を聞く必要が何処にある?」
殿下が素行を改めることはなかった。
寧ろ、私が忠告する度に日に日に態度は悪くなっていく。
挑発だけでなく、脅迫に近い言葉も投げ付けられる。
それでも私は何事にも動じず、忠告を繰り返した。
すると暫くして周囲の状況が変わっていった。
残念ながら周りが私に感化されたとか、手を貸してくれる人が増えたとか、そんな良い方向ではない。
それに気付いたのは、学友から意味深な視線を向けられてからだった。
「コーデリア様は、クラーク殿下と仲がよろしいのですね」
「どういう意味でしょうか?」
「深い意味は何も。ただ、イリアス様は優しすぎる所がありますから」
「……?」
「気疲れしているようなら相談に乗りますよ?」
異様な空気。
言葉では言い表せない、妙な雰囲気を感じ取った。
優しいだけと言われるイリアスの在り方。
それに反して、棘を撒き散らすように周囲を威圧するクラーク殿下。
彼らが関係していることは何となく理解できる。
けれど、私は今の行いを変えるつもりはなかった。
●
「コーデリア様、クラーク殿下がお呼びです」
それから暫く経った、ある日。
講義も終わり一息ついていると、殿下からの呼び出しを受けた。
場所は例の中庭。
彼らの溜まり場であり、吊るし上げの場と化しているところ。
辿り着くと、殿下とその取り巻きが待ち構えていた。
それだけじゃない。
学友を含めた、何人かの生徒も遠巻きからこちらを眺めている。
皆、好奇の視線を向けているのが分かり、私は殿下たちから距離を置いて立ち止まった。
「何のつもりですか?」
「お前には負けたよ、コーデリア・ヴァレンシア。婚約者を持つ身でありながら……隅には置けない奴だ」
「意味が分かりかねるのですが」
「まぁ、良いさ。公爵家の令嬢でありながらその行い、本来なら糾弾すべきところだが特別に許してやる」
殿下は妙に機嫌が良かった。
今までとは違って暴言を吐く訳でもなく、妙な寛容さを滲ませている。
どういう風の吹き回しだろう。
あくまで冷静に返答すると、彼は離していた距離を縮めてくる。
そして私を見下ろしながら言った。
「お前、俺に気があるんだろう?」
辺りが騒めく。
驚きのあまり思考が止まったが、殿下は笑いながら続けた。
「あれだけ言って聞かせたにも拘らず、何度も俺の前に現れるのは、俺と会うためなのだろう? 全く、それならそうとハッキリ言ってほしいものだな?」
「……」
「俺を注意するなどいう口実を振りかざして、俺の気を引こうなどと、悪い女じゃないか」
どうやら私が再三に渡って注意してきた行動を、そう捉えたらしい。
そこまで自分に関わろうとする女性は、今までいなかったのだろう。
だから興味がある、自分に気があると考えたようだ。
つまり私を呼び出したのは、今までの行いを謝罪するためではない。
この場で、私の秘めた思いを詳らかにするため。
そして周囲にいる取り巻き達は、その観客という訳だ。
「そんなにも、あのイリアスという男はつまらなかったのか?」
核心をついたと言わんばかりだ。
挑発めいた声色に、自然と両手に力が入る。
「まぁ、それも仕方がない。優しいだけの男など、従者と何も変わらない。顔色を窺ってばかりのつまらない性格では、婚約者として力不足だったという訳か。所詮はただの優等生、お前が目移りする理由もよく分かる」
「……」
「それに俺も興味が湧いた。そこまで意固地な女はお前が初めてだからな。父上たちには俺が進言する。さぁ、来い。奴との婚約から、お前を解放してやる」
そう言って私に向けて手を伸ばした。
確かに、今までの殿下にはない振る舞いだ。
嘘を言っているようにも見えない。
きっとここで手を取れば、殿下は興味を持った女として私を扱うのだろう。
イリアスをつまらない男と断じて、私と別れさせるように働きかけるのかもしれない。
周囲を扇動して逆らえないような場を作る人物だ。
それ位は簡単にできると思っている。
そんな彼から愛されるのなら、何かが変わるのかもしれない。
だが――。
はぁ。
まさか、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
胸中にあるのは、決して幸福や高揚ではない。
あるのは落胆と怒り。
私は息を吐きながら、伸ばされたその手を払いのけた。
「気安く私に近づかないで下さい」
「なっ!?」
「このような場を設けて、今までの行いを悔い改めて下さるのかと思いきや……本当に、怒りを通り越して呆れてしまいます」
目の前の勘違い男を睨みつけ、バッサリと言葉で切り捨てる。
誤解も甚だしい。
解放してやるだの何だのと言っていたが、私は全く理解できなかった。
そもそも、こんな強引で横暴な男の何処に好意を持てば良いのだろう。
ただただ自分勝手で、性格が悪いだけの男にしか見えない。
いや、それだけならまだ良い。
わざわざ貧しい子息を狙って吊るし上げている行いも質が悪い。
安全圏から石を投げているような卑怯な男に、どう好感を抱けばいいのだろう。
今まで必死にその感情を表に出さないよう努めてきたけれど、もう限界だった。
言いたいことは言わせてもらう。
動揺するクラークに向けて、私は語気を強めた。
「ご理解頂けていないようですので申し上げますが、私が殿下に好意を抱いたことなど一度もありません」
「は、ハッ! 強がりは止めろ! 今まであんなに……!」
「忠告をしただけです。王族である殿下が、他貴族の方々を威圧・脅迫することは、王家の威信ひいては私達公爵家の信頼を揺るがすもの。ですから、ヴァレンシア家の立場として何度も念を押したのです。ですが、殿下は一向に聞き入れようとしませんでしたね。挙句の果てには、私が言い寄っているなどと勘違いをされるとは。最近、周囲の妙な視線は感じていましたが、それが原因なのですね。一体、誰ですか? そのような頭の痛くなる噂を流したのは?」
そう言って辺りを見渡すと、顔色を青くしている取り巻き達が見える。
いつもはクラークの腰巾着のように取り付き、相手を嘲笑する彼らだが、今は私と視線を合わせられず、ずっと俯くばかりだった。
「あぁ……取り巻きの方々ですか。貴方達にも心底失望しました。本来なら、貴方達こそ殿下の行動を諫めるべき立場のはず。それを見過ごすどころか、外堀を埋めるが如くありもしない悪評を流すなど、決して看過できるものではありません」
「恥じらうにしても度が過ぎるぞ……。それ以上は王家への侮辱に……」
「今までの殿下の行いこそ侮辱に値するものでしょう。気に入らない、逆らわない相手を狙い撃ちにするだけでなく、淑女に対する礼儀もなっていません。私が好意を持っているなどと誤解されたのも、今まで横暴に振舞うだけで、まともに女性と関わらなかったことが原因であるなら、ある程度は頷けますが」
「き、貴様っ……!」
「言ったはずです。私はヴァレンシア公爵家の立場として念を押したと。学院における殿下の振る舞いは、先生方の忠告によっても改善されず、国王陛下も懸念されておりました。そこで最後の試みとして、私達が監視と警告を行い、殿下の振る舞いが改められるのなら良し。そうでなければ、然るべき対処を行うことで合意したのです」
クラークは顔を赤くしたが言葉に詰まる。
私だって、好きでこんなことをしていたつもりはない。
いずれは王家を支える者として、彼が国王に足る人物か見極める必要があったからだ。
クラークは他の学友を家来か何かと思って値踏みしていたようだが、私も同じように今までの言動を全て記録し続けていた。
確かにクラークは成績優秀で容姿も良い。
そこだけは認められる点だろう。
けれど、それだけで国が支えられる訳がない。
一切の罪悪感を持たず、人に優しくもできない。
更に婚約している相手に手を出そうとする倫理観のない人に、国王は務まらない。
それが私の出した結論だった。
熱が冷めたように静寂が訪れると、そこへ新たな人物が庭園に立ち入る。
僅かなざわめきが広がり、クラークや取り巻き達も目を見開く。
やって来たその人物は私達の間に割って入り、庇うように腕を広げる。
紛れもなくそれは私の婚約者、イリアス・アルテールだった。
「まさか、私の婚約者を口説くとは想定外でしたよ」
「い、イリアス……!」
「妙な話ですね。私も幾度となく貴方に忠告していたはずなのですが。私のことはぞんざいに扱いつつ、コーデリアのことは気に入ったと判断されたことには驚きました。周囲への根回しまでするなど、その対応の差には少々興味があります。ですが、先ずは……」
そこまで言って、言葉を区切る。
イリアスの表情は、いつもの優しく柔和なものではなかった。
婚約者に対して無礼を働いた者への冷たい視線。
次いで彼の言葉を切っ掛けに、複数人の教師が現れる。
既に事情は理解しているのだろう。
諦めの表情を見せつつ、クラークの元に近づいていく。
「この学院から退場いただきましょう。国王陛下がお待ちです」
「俺は第一王子だぞ!? そもそも、その女が紛らわしい態度をしてきたのだ! 俺に非はない! 待て! 何故、言うことを聞かない!? ま、待て……待てっ……!」
何やら言い訳を並べていたが、それを聞き入れる猶予はとうに過ぎた。
教師たちに腕を掴まれたクラークは、有無を言わさず連行されていく。
連れていかれる先は王宮。
報告を受けた国王がどんな言葉を放つのか、想像はしたくない。
今日の王宮は間違いなく荒れるだろう。
そう思いつつ肩の力を抜くも、イリアスの追撃は止まらない。
彼は残っていた取り巻きや観客たちに目を向けた。
「さて、次は君達の番だ」
「っ……!?」
「私達の婚約に泥を塗る者は、残念ながら容認できない。そして既に、この場にいる全員の顔は覚えた。後から一人一人、声を掛けていこうと思う。今からでも、マシな言い訳を考えておいてほしい」
今までに聞いたことのないような厳しい声に、皆が愕然とする。
あれがあの、優しいイリアスなのか。
そんな声すら聞こえてきそうな反応だ。
けれど、それも当然。
皆はイリアスのことを勘違いしている。
ありもしない噂を流されて、ニコニコしているような人じゃない。
それは婚約者である私がよく知っている。
そしてもう、この場にいる必要はない。
私はイリアスを引き留めるように手を引き、共に庭園から立ち去った。
●
「危なかったわ。まさか、あんな噂が広まっていたなんて」
「外堀でも埋めるつもりだったのだろうね。あれ以外にも、私に対する悪評が流されていてね。全く、真に受ける人達にも困ったものだよ」
「そんなことが……。それで、殿下は今後どうなるのかしら」
「取り敢えず、今までの経緯を全て書類にまとめた上で先生方に引き渡したからね。元々、再教育を行うという話もあったから、暫くは戻ってこないんじゃないかな。いや、それよりも……」
「……?」
「あんな目に遭ったんだ。コーデリアのことが心配だよ。今日はもう何も考えなくていい。寄宿舎でゆっくり休もう。途中まで私が送るから」
庭園を去ってから、イリアスは私を心配そうに見てくるばかりだった。
逆にそれが申し訳なくなる。
まさか、イリアスに対してまで悪評を流されていたなんて。
それに本当なら、彼が動くのは少し先の話だったはず。
私がクラークに呼び出されたことを知り、前倒しで事を進めたのだろう。
歩みを止めた私は、彼に向けて頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「どうしてコーデリアが謝るんだい?」
「私が無理に殿下と関わったせいで、好意を持っているなんて誤解が広まってしまったから」
事の発端は、私が殿下に近づいたせい。
けれど、私にも理由があった。
元々、殿下たちに忠告を行い、その是非を行っていたのはイリアスだった。
以前からの頻度や回数を含めれば、私よりも遥かに多い。
けれど、イリアスが仲裁したところで何も解決しなかった。
公爵令息と言っても、優しいだけのイリアスには何も出来ない。
そう思われ続けていたようで、そんな暴言を吐かれている現場を目撃したこともある。
だから、黙っていられなかった。
婚約者を馬鹿にされて、黙っているほど私は能天気じゃない。
「何度もイリアスが忠告していたのに、殿下は耳を貸さなかった。それどころか、皆と一緒に揶揄してばかりで……。だから、私も出来ることをしたかったの」
「それだけで私は十分だよ。それに周りの噂も気にしていなかった。今までの君の行動を考えれば、殿下に好意を持っているなんて有り得ないことだったから」
「イリアス……」
「寧ろ、私はコーデリアに感謝しているよ。君のお蔭で、暴走しかけていた殿下を止めることが出来たんだ。本当にありがとう」
私が勝手に始めたことも、彼は受け入れてくれる。
やっぱり、こういう所に甘えてしまうのだろう。
彼は決して弱音は吐かないし、クラークに悪評を流されていることも、私には決して気付かせなかった。
とは言っても、彼にも思う所があるのか。
考え込むように首を傾げる。
「しかし、私は優しすぎるのかな」
「もしかして、殿下が口にしたあの言葉を気にしているの?」
「私は殿下から軽視されていたからね。優しいだけの優等生には、何も出来ないと思われていたのだと思う。そのせいで、君に負担をかけさせてしまった。やっぱり、私はもっと冷酷にあるべきなのかも……」
優しいだけ、と囁かれていたことは彼自身気付いていた。
どんな時にも温和だが、結局はそれだけの人であると。
けれど皆、優しさが何なのかを勘違いしている。
私はイリアスの言葉を否定した。
「その必要はないわ」
「えっ?」
「優しいだけの人は従者と同じ、なんて殿下は言っていたけれど、それは間違いよ。従者のように何でも言うことを聞いて、ご機嫌取りをするのは、本当の優しさじゃないわ」
そう言って思い返す。
それは過去の出来事。
まだ私達が幼く、婚約が決まった時の頃。
あの時の私は酷く我儘だった。
公爵令嬢という立場を笠に着て、クラークのことを責められない程に周囲を振り回し、両親や従者を困らせていた。
幼い頃ではあるものの、あのままだったなら、きっと私もこの学院で横暴に振舞っていたに違いない。
けれど、そんな私を注意したのは他でもないイリアスだった。
(ワガママはいけません。そのままでは、皆から見放されてしまいますよ)
(い、イリアス様! コーデリア様の機嫌を損ねては、両家の関係に差し障りが……!)
(けれど、間違っていることは間違っていると言うべきです。私は彼女の婚約者ですから)
従者が止めに入る中、イリアスは真っすぐに私を見つめ、それから何度も指摘してくれた。
当初の私は怒られるという事実に困惑し、何故言うことを聞かないのかと反発していたが、後に気づいた。
従者達が公爵令嬢として接する中、彼は私自身を見ている。
自分の立場が悪くなることも覚悟の上で、私を注意してくれていると。
「気遣うだけでなく、時には厳しくもできる。それが本当の優しさよ。殿下相手に嫌われる覚悟で忠告し続けたことも、貴方の優しさの一つ。簡単にできることじゃないんだから。弱い者苛めしか出来ないあの人より、イリアスはずっと強いわ。だから今のままで良いの。優しいままで、優しいだけの貴方で良いのよ」
「……そう言ってくれると嬉しい、かな」
イリアスは少しだけはにかんで見せた。
いつもの笑顔とは違う、私にだけ見せてくれる恥ずかしげな表情。
私にはこれだけあれば十分だ。
乱暴である必要もないし、必要以上に冷酷になる意味もない。
優しいままでいい。
そうでなければ、私が心を入れ替えたりはしなかったし、心から慕ったりなんかしない。
それが伝わったようで、彼は思い返すように空を見上げる。
「幼い頃から、迷いを抱えた私を引っ張っていくのは、いつも君だったね。少し行き過ぎな時もあったけれど、こうして私の心を支えてくれる。君が私の婚約者で本当に良かったと思っているよ。だから……」
一旦言葉を区切り、改めて私のほうを見つめた。
「広まっている例の噂は、徹底的に潰さないと」
「つ、つぶ……?」
「コーデリアと殿下が好き合っているなんて、そんな噂が存在している事実が、私には耐えられそうにない。今すぐ、消さなくては」
イリアスはニッコリと笑う。
その笑みはいつもの優しい表情とは違って、妙に迫力があった。
「手始めに、あの意気消沈していた取り巻き達から呼び出そう。私とコーデリアがどれだけ強い絆で結ばれているか、一から説明しなければ分からないだろうからね。あぁ、大丈夫だよ。これ以上、コーデリアの手を患わせるつもりはないんだ。全て、私に任せてほしい」
「何だか少し不安が……」
「大丈夫さ。滅多なことはしないよ。だって、私は優しいからね」
ニコニコと笑い続けるイリアス。
確かに彼は誰にでも手を差し伸べるし、誰にでも優しい。
でもそれは、私がそう望んでいるからでもある。
他人に優しくできない人に優しくされた所で、私の心には響かない。
我儘だった過去の私が、自分を見つめ直したのは、イリアスがいたからこそ。
それを知っているから、彼は優しい婚約者であり続けてくれる。
そうでなければ、先程のようにイリアスは自分の優しさに悩み、冷酷になろうとしてしまう。
まぁ、とは言え今回ばかりは仕方ない。
私たち両家の縁談を妨げるような噂を耳にして、黙っていられるはずもない。
今だけは、イリアスの好きなようにさせても良いかもしれない。
私も気疲れしていないか、と毎回言ってきた学友達には思う所があるので、その方面から攻めてみよう。
今まではイリアスがいる手前、色々と抑えていたけど、一部の交友関係を一新するのも良い。
ヴァレンシア家としては痛手にもならない。
「それなら、私も同席させてもらおうかしら」
「良いのかい?」
「ええ。貴方が我儘に振舞う姿も、たまには見てみたいから」
私はイリアスに向けてにこやかに答える。
彼は優しいままで良い。
振り回すのは私の役目だ。
連れまわして、引き戻して、ちょっと怒られて仲直りする。
そんな関係で良い。
幼い頃から築き上げてきた繋がりを、私はただ大切にするだけだ。
それから暫く経って。
クラークからの長い謝罪の手紙が全生徒宛に届く頃には、学院内での悪評は完全に消えていた。
代わりに私とイリアスが、仲睦まじい学院生活を送っているという新しい噂が広まる。
勿論、悪評を打ち消すために大袈裟に広めたことだ。
けれど、少しやり過ぎたかもしれない。
いかに二人が愛し合っているかを力説したせいで、変な方向に噂が流れてしまった。
「どうやら、私が怖い人という噂が新たに広まっているみたいなんだ」
「怖い? イリアスが?」
「うん。聞いてみたのだけど、笑顔に含みがあるように見えるとか」
「失礼なこと。イリアスほど優しい人なんていないのに」
何故かこうなってしまう。
クラークとのいざこざが原因なのか、ちょっと厳しい側面を見せたらこの有様だ。
イリアスの本質が理解されるのは、当分先になるだろう。
だから今は、彼の優しさを知るのは私だけになる。
婚約者である私だけの特権。
まぁ、そう考えれば案外悪くはないのかもしれない。
「けれど、コーデリアが私のことを分かってくれているなら、それで十分かもしれないね」
結論付けた優しいイリアスに、私は朗らかに笑うのだった。