6.気になってる
「ハーマス公爵は、その……王位継承者なんですよね? なんか、すごく遠い存在なのに、今日一日、こんなに近くでお話しができて恐縮というか、申し訳ないというか……。いや、すごく光栄なんですけれど、公爵はどう思ってるのかな、迷惑じゃないのかなって、ずっと気がかりでした」
そうだ。いくら私から「記憶喪失になったから学校を案内してほしい」と頼まれたからと言って、ハーマス公爵のような身分の人が初対面の私を案内する義理なんてないのだ。それなのに、彼は私のことをまったく迷惑になど思っていない様子で、父親に秘密にしているカメラまで見せてくれた。それが不思議だったのだ。
中庭の庭園に咲いている色とりどりの花の香りが鼻腔をくすぐる。ハーマス公爵は「そうですねえ」と柔らかい口調で話し出した。
「迷惑かどうか、で言えば答えはノーです。全然迷惑ではありません。僕は、この国で困っている人いたら手を差し伸べるのが使命だと思っているので」
何の疑いもない、晴々とした声が凛と響き渡った。なんて綺麗な心なんだろう、と私は嘆息する。
「なるほど。だから、私のことを助けてくれた……?」
「はい、もちろんそれもあります。でもなんでしょう。それ以前に、僕はあなたのことが気になってしまったんですよ」
気になる、という言葉の響きに、私の心臓がドクンと跳ねた。
未だかつて、異性に「気になる」だなんて言ってくれたことはない。いや、待てよ。ハーマス侯爵の言う「気になる」は、女性としてという意味ではないのではないか? そ、そうだよ。いきなり女性に対して「気になる」だなんて、普通は言わない。単に、中庭で倒れて記憶喪失だと言う私が気がかりだっただけだ。勘違いするな自分。
「ははは、ご心配おかけしちゃって、すみません。そりゃ気になりますよね。いきなり記憶がないとか言われたら」
「心配? いえ、そういうことではありません。僕はその——ルミのことを、女性として気になったんです」
「え——」
信じられない爆弾発言がハーマス公爵の口から飛び出して来て、私は口をあんぐりを開けた。
何この展開! 聞いてない! やっぱりこの世界は、漫画『ルミエールの恋』とは一味違っている。登場人物こそ同じだが、ルミエールとハーマス公爵の関係が、最初から上手くいきそうだなんて新しすぎるっ。
……って、冷静になって、ルミ。まだハーマス公爵と“上手くいく”かどうかなんて、分からないじゃないか。そうよ。私ったら、現実世界では病気で入退院を繰り返していたせいで、同世代とまともな恋愛をしたことがないから。こんな御伽話の世界のような恋愛にばかり、期待するのは良くないわ——。
そう考えたところで、ふと別の考えがよぎる。
ここは、物語の世界なのかしら。
私はこうして異世界に実態を持って存在している。だったら、もうすでにここが私にとって、現実の世界である。『ルミエールの恋』でルミエールたちが、全身全霊をかけて恋をしていたように。私だって、この世界に人生を捧げてもいいのではないだろうか。
こんなに自由に、翼を広げて飛ぶ鳥のように、心が開放的な気分なんだもの。この世界で青春を謳歌したって、罰は当たらないはずよ。
「ハーマス公爵……私」
言ってしまっても、いいのだろうか。
私もあなたのことが気になってますって。
でも、相手はあのハーマス公爵だ。
たとえお互いの気持ちが一致したとしても、叶わぬ恋になることは免れない。
「……」
そこまで考えて、私はやっぱり今芽生えたばかりの気持ちを口にすることができなかった。
「どうしたのですか、ルミ」
答えを聞きたがっているような声でハーマス公爵が問いかける。その声に観念して気持ちを吐露してしまいそうになるのをぐっと堪えた。
「いえ、なんでもありません! ハーマス公爵に気に入っていただけて嬉しいなあっ」
お馬鹿なフリをして精一杯笑顔をつくる。ハーマス公爵はどこか納得していない様子だったが、「まあ、これからもっとお近づきになれたら嬉しいですね」と冷静に微笑み返してくれた。
きっと私たちの胸の中で、それぞれの思惑が渦巻いている。
お互いに悟られないように、笑顔の仮面を貼り付けたまま、群青色に変わっていく空を見上げていた。