6.きみのことだけを信じる
それから、一週間の時が流れた。
医者からはまだ連絡がない。
大学ではルミのいない日常が普通に過ぎていく。講義室の隣の席には、ハンナが変わらず真剣に机に向かうのを、ここ一週間の間ぼんやりと眺めていた。「今日の講義も興味深かったわね」と笑う彼女に、「ああ」気のない返事をしたのは今日で五回目だ。
ハンナは少し不服そうにノートを鞄にしまうのだが、すぐに気を取り直したかのように「また明日ね」と笑って手を振ってくれる。本当にできた女性だ。
ルミにはいつ、会えるのだろう。
他の女性と会う度に、皮肉にもルミのことを思い出してしまう自分がいた。午前中の一般教養の授業を終えて、食堂で昼食を済ませようと考えていた時、食堂の入り口で数人の女子に声をかけられた。
「ハーマス公爵、ちょっといいかしら」
見覚えのある女の子たちが僕を手招きした。確か、法学部の子たちで、一般教養の授業で一緒になることが多い。自分に声をかけてくれる人たちを無碍にすることもできず、彼女たちの輪の中に入っていく。
「どうしたんだい?」
先ほど僕を呼んだ女の子に尋ねる。ウェーブがかった長い髪の毛が印象的な女の子。名前は——イリヤといっただろうか。イリヤは僕に「あのですねえ」と噂話を吹き込む口調で話し出した。
「公爵が最近仲良くしているルミという方のことですが。あの女には、気をつけた方が良いと思いますわ」
「え?」
彼女の口から突然ルミの名前が出てきて、僕は反射的に固まる。
「知ってます? ルミって、隣国スミノンの大学で度々悪事を働いていたんですよ」
「そうそう。好きな男を手にいれるために、その男が片想いしてる相手の女の子の家に火をつけたとか」
「その男からこっぴどく振られた後はストーカーなんかして警察に捕まったり」
「とにかく自分が好きな人を自分のものにするために、どんな手段も使う悪役令嬢ですわ」
女の子たちの口から次々に語られるルミのスミノンでの働きに、僕は白目が飛び出そうになった。
ルミが、好きな男を手に入れるためなら犯罪まがいのことをしでかす悪役令嬢だって?
そんな……そんなこと、ありえない。
あの心優しいルミが、誰かを傷つけるような真似は絶対に——。
「わたくしたちの国に転校してきてから記憶を失くしているそうですってね。でもそれも、本当のことか分かりませんわ。私たちは常に悪役令嬢ルミのことを警戒しています。だから、ハーマス公爵ともあろう人が、彼女と仲良くするのはやめていただきたいんです」
イリヤがきっぱりとした口調で僕に告げた。
彼女たちからすれば、ルミという脅威が僕に近づくことを恐れているのだろう。ルミが僕に好意を寄せて、周りの女の子たちを傷つけることを予想している。そうなれば自分もルミの毒牙にやられてしまうかもしれない。イリヤたちが僕に警告をする意図は分かった。
……でも。
僕はどうしても、彼女たちの言い分に納得することができない。
「ルミは、そんなことをする女性ではないよ」
まだ出会って一ヶ月とそこらしか経っていないが、ルミの表情や言葉から滲み出る善良な人間の心を、僕が感じ取らないはずがない。
僕が自信満々に答えたのを見て、彼女たちは顔を赤く染めた。
「公爵は騙されているんです! ルミは好きな男を手に入れるためなら、それぐらいの嘘簡単につくような女ですよ!?」
イリヤの甲高い声が僕の耳をつんざくようにして響く。僕の肩を両手でぎゅっと掴み、鬼気迫る顔で僕の身体を揺らす。食堂に向かう学生たちが、何事かと僕たちの方を見ているのが分かった。
「落ち着いてください、イリヤさん。かなり注目を浴びています」
冷静な僕の言葉にハッとしたのか、イリヤは慌てて僕の腕を掴んでいた手を離す。
しかし、やっぱりルミのことを悪役令嬢だから関わるなという主張は変えないようで、「あの女は極悪非道です!」とあることないこと口走る。
イリヤの周りにいた女子たちも、ルミに関しては彼女と同じように毛嫌いしている様子だ。記憶を失う前のルミが、ここまで女子たちに嫌われるほどの悪事を働いていたなんて。僕にはやっぱり受け入れられそうにない。
「ごめん、みんな。僕は、今の彼女だけを見ていたいんだ。それが愚かな考えだって思うのなら、好きなだけ僕の悪口を言っていい。でも、本人のいないところでルミの悪い噂をするのだけは、今後はやめてくれないか?」
それが、僕の本心だった。
僕は、僕と向き合ってくれるルミのことだけを信じる。たとえ、記憶を失う前のルミがどんな人間だったとしても、今の僕たちには関係のないことだ。
そんなことよりも、女子たちがルミのことを悪く思っていることをルミが知ってしまうことの方を恐れた。自分の預かり知らぬ場所で、あらぬ噂を立てられる辛さは、僕が一番よく知っている。僕はこの国の王位継承者として、見知らぬ誰かから様々な噂をされてきた。
中にはもちろん良い噂もあったが、「弟のアイルさんの方が格好良くて要領も良くて素敵よね」というような声をいくつも聞いた。噂は、いずれ絶対に本人の耳に入ってくる。僕はルミが、記憶を失う前の自分の行いのことで噂されて悩むところを見たくなかった。
「公爵は分かってませんねっ」
イリヤを始め、他の女子たちは呆れた顔で僕の元から去っていく。
「ふう……嫌われてしまったな」
これでまた、「アイル様の方が王に相応しい」なんていう噂が立つんだろう。もう慣れっこだ。僕はただ目の前の職務と、学生の本分を全うする。自分が関わりたいと思う人物は僕自身が決める。誰になんと言われようとも、僕はルミのそばにいたい。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。
人間関係は、これまでずっと父親に決められてきた。でも、大学に入ってからはある程度自由にさせてもらえている。その中でも、自ら進んで近づきたいと思ったのはルミが初めてだった。
ああ、愛しいルミ。
早く目を覚ましてくれ。
一日でも早く、僕は君に会いたい。