【父さん】
日が沈み始めたころ、気が付けばまたこの町に帰ってきていた。クマ出没注意の看板が今となっては少しだけ懐かしい。息子は死んだのか、少年は死んだのか、それさえ知らず、家族に合わせる顔がなかった私は、ただただ自分がしてしまった過去に囚われ続けていた。今年こそはと思ってはみたものの、あれこれありもしなようなことで悩んでしまい、どうも勇気が出ずに右往左往してしまっていた。そんな私を太陽は待ってはくれず、足元が霞んで見えるほどに辺りは暗くなってきていた。
(田舎の夜をなめてかかったら痛い目を見る)
私が息子によく言っていた言葉を思い出した。息子に教えたことを自分自身が守らなくてどうするというのだ。股の間をすり抜けようとするトンボに驚いて情けなくよろけながらも、息子の姿を確認するべく、ついに自宅へと向かう決心をした。
田んぼに支配された道を歩いていると、外観に懐かしさを覚える家が姿を現した。約二十年前に新築で購入したその家は紛れもなく私のもので、きっとローンはまだ返し終わっていないと思う。残した家族へのやるせない気持ちを抑え込んで私は玄関の戸を開いた。すると、ムッとした風と共に畳の香りが瞬間的に鼻を通り抜けていった。何ら変わりのない内装に、少しだけ安心感を抱きながら、リビングの方へ顔を出すと、正座をしている妻が目に映った。しかし、そこに息子の姿はない。部屋にこもっているのかと、私は階段を上がって息子の部屋をノックした。
「入るぞー」
扉を開けると、また何ら変わりのない、私がよく知っている息子の部屋が視界に広がった。いや、幾分が綺麗になったような気もする。周りを見渡すも息子の姿は見えず、ベッドの下やクローゼットの中を探しても息子が隠れていることはなかった。ふと、ベッドの隣の棚に置かれたプラモデルが目に入った。最初は買ってやるつもりなどなかったけど、まだ幼かった息子はその時だけ執拗にねだってきて、結局私が折れて買ってあげることにしたんだっけか。飽き性だった息子が唯一最後まで一人で造り上げたプラモデル。もうとっくに捨てたものだと思っていたが……。
部屋を出て、階段を下ろうとしたその時、リビングいっぱいに電話の音が鳴り響いた。二コール間を置いたのちに電話の音はピタリと鳴り止んだ。きっと妻が受話器を取ったのだろう。そして今度は風の音すらしないその静かな空間の中、電話の音に代わって妻の話し声が響き渡る。
「あら、久しぶりね。元気にしてた?」
電話の時に声の調子がワントーン上がる癖はまだ治っていないようだ。
「いいのよ気を使わなくて。私がそっちに行くから」
私は階段で立ち止まったまま、電話を盗み聞きするような形になってしまっていた。
「ほんと……たくさんつらい思いさせちゃって、ごめんなさい」
電話相手の声は私の耳には届かず、誰と何を話しているかを理解することは不可能だった。
「それにしても園子ちゃん、本当に大人びたね」
園子ちゃん……というのは誰だったか。どうやら私の知らない相手と電話をしているようだ。
「そっか。お兄ちゃんにずっとお世話になっていたんだものね」
思い出した。園子ちゃんというのは一丁目の佐倉さんの娘さんだ。ということはやっぱりそうだったか。私の中で全てが繋がった。あの日私の車とぶつかった自転車の少年は佐倉さんの息子さん、つまり妻の電話相手である園子ちゃんのお兄ちゃんだ。喋る妻のトーンや醸し出す暗さからして、恐らくあの少年は私が――事故で亡くなったのだろう。いたたまれない気持ちが溢れ、それ以上電話の内容を聞くことはやめた。話の流れからして、園子ちゃんはじきにこの家へやってくるだろう。そう思った私は慌てて家を出た。私は園子ちゃんに会ってはいけないような気がしたんだ。そして私は満を持してあの場所へと向かうことにした。
視界がどんどん悪くなる中、あの場所に向けて歩みを進めていると、大粒の雨がポツリポツリと降り始めた。私は咄嗟にバスの待合室まで走って、落ち着くまで雨宿りをすることにした。
そう時間がかからないうちに、雨は気にならない程度まで落ち着いて、止んだ。とはいっても一時的なものかもしれないから、少しだけ急ぎ足で歩いていると、電灯が多く設置され、明るく整備された道が少し先に見えた。崖側の道路はガードレールで厳重に守られており、角に設置されたカーブミラーが、前方右側の見えづらい斜面を映し出していた。その斜面を見てハッとしたように辺りを見渡すと、どうやらここは私がよく知っている交差点のようだった。この町には長い間住んでいたけど、あまりにも変わってしまってすぐに気づくことができなかった。
(ここで私は……)
私が歩いている道路と死角から伸びる斜面が丁度重なる所に立ってみた。随分とまあ安全になったものだ。周りを一望しながら思い耽っていると、さっき一度身を引いたであろう雨雲が再来したようで、途端に私の体は全身濡れてしまった。
「どうしたものか」
私は今いる交差点を通り過ぎて、屋根のある場所へと移動しようとしたその時、ガードレールとガードレールの間にある電信柱の下、私にとって一番見たくないものが目に映ってしまった。
私は雨に打たれながら、電信柱の前でしゃがみ込んだ。私のように雨に打たれながらぐちゃぐちゃになった花束を眺めて。
息子は私を恨んでいる。
なんとなく気づいていることではあった。
私は花束を一つ一つ丁寧に抱きかかえた。こんなものをこのまま置いておくわけにはいかない。どこかで少年が見ていたらどう思うだろう。それに何より園子ちゃんが見たらどう思うだろうか。そう考えたら、散らかった花びら全てを拾うまで、私の手が止まることはなかった。
雨はさらに強さを増し、私に強く襲い掛かった。
「私は父親失格だ」