【少年】
留守番を任されていた夕暮れ、静かな部屋に鳴り響いた電話の音を今でも覚えている。家族はかあちゃんと二つ年下の園子だけで、かあちゃんは休日も祝日も関係なく、仕事で遅くまで家を空けるから、園子と二人でいることが多かった。けどその日は園子が突然バレエを習いたいと言い出したんだ。かあちゃんに負担をかけるなと僕が叱ったから、喧嘩になってしまった。バレエを習うにしてもこの町で教えてくれるところはないから、少なくとも隣町かもしかしたらもっと遠くまで行かなければならないかもしれない。そうなればきっと帰りが遅くなって暗くなる。僕はかあちゃんと園子が心配なだけだったけれど、園子は僕にいじわるをされたって思い込んで家を飛び出してしまった。その時はなんだか僕も園子に腹が立ってきて、すぐに追いかけることはしなかった。
園子が帰ってきていないか、玄関や庭を数分おきにちらちらと確認していたけど、姿は一向に見えなかった。このままかあちゃんが帰ってきたら僕が怒られる。そう思って、懐中電灯を片手に靴を履き始めたとき、家の奥で電話の音が鳴り響いた。
「こんな時に一体誰だよ」
僕は学校で悪さなんかしてないぞ。履きかけた靴を足を振って飛ばすと、廊下を走って行って受話器を取った。
「もしもし」
そこで聞いた話はあまりに衝撃的で、詳しくは思い出せないけど、園子が意識不明の重体であるという事実だけが僕に重くのしかかった。後悔で胸が張り裂けそうだった。
自転車の鍵を指にひっかけて、裸足のまま外に飛び出した。「ライトが壊れているから修理するまでは乗らないように」とかあちゃんに念を押されていたけれど、僕は脳裏に浮かぶかあちゃんの顔を振り払って、園子の顔に描きかえると、自転車に跨った。そして山を越えた先にある病院へ、園子の元へ、力いっぱい漕ぎ出した。僕がかあちゃんとの約束を破った最初で最期の日だった。
去年の今日、あの交差点にお花が飾ってあったのを僕は見た。取り返しのつかないことをしてしまったという後悔から、その花は僕にとって見るに堪えないものだった。
日が沈み始めた夕方、僕はひぐらしの鳴き声を浴びながら、ただ園子に会いたい、一目見たいという一心でまたこの町にやってきた。それにはまず園子が今も生きているのかどうかを確かめなければいけない。ついに覚悟を決めた僕は玄関前に一人腰を下ろして、来るかもわからない家族の帰りを待ち続けた。
裸足の指先に感じるむず痒さで僕は目を覚ました。どれほどの時間が経ったのか、日がだいぶ落ちて辺りは暗くなってきていた。むず痒さの正体であったシオカラトンボを眺めていると、カタカタと聞き覚えのない音が近くで鳴っていることに気が付いた。顔をあげて周りを見渡すと、曲がり角からゆっくりとこちらに向かってくる車椅子が見えた。カタカタ、カタカタ。車輪が回るたびに音が鳴っていたけど、途中からその音は僕の耳に入ってこなくなった。車椅子に乗っている人物の顔がはっきりと目に映った時、僕は呆気にとられ、力なく立ち上がった。
「園子……?」
これまでずっと一緒にいて、ずっと大切にしてきた妹の顔を僕が間違えるはずがなかった。園子が生きていたという事実は、僕の心を長い呪縛から解放するきっかけとなった。園子は玄関先に立つ僕を追い越すと、家の扉を開けた。一方僕は気が抜けてしまって、園子の後をすぐに追いかけることはできず、活気のあるその背中を見守りながら安堵のため息を吐いた。羽を休めていたシオカラトンボも、人の気配を感じたのかいつの間にかどこかに消えていなくなってしまっていた。僕はその場に再び座り込んだ。見上げた夕空には何かがわずかな光を放って、すぐに消えた。
ある程度心を落ち着かせ、家に入ろうと扉に手をかけたとき、中から話し声が聞こえた。
「はい。今からそっちに行きますね」
その馴染みのある声は紛れもなく園子の声で、二年ぶりのはずなのに、その声を聞いただけで園子と交わした会話が次々と想起された。誰かと会話をしていることに間違いはないはずなのに、相手方の話し声が一切聞こえないことを不思議に思った僕は、扉を開けて家の中に入った。内装は知っているものとは少し違っていて、園子のために手すりやスロープが増えたバリアフリーなものに変化していた。懐かしさよりも新鮮味を強く感じながらリビングに入ると、受話器を耳に当てている園子の姿が目に映った。
「いえ。大丈夫ですよ。うちに仏壇はないですから」
(……なるほど、電話してたのか)
僕は受話器越しに話をする園子を横目に、こちらは馴染みのあるソファーに腰かけた。断片的な園子の言葉を拾っても、一体何の話をしているのか僕は全く理解できなかった。
「そんな……謝らないでください。悪いのは兄ですから」
許容できないその言葉に少年は目を見開いた。
「はい。兄のせいで……」
受話器を片手に園子はパッと後ろを振り返ったが、視線は何者も捉えることはなく、空を切った。
自分が命を落としてなお、気にかけていた妹。僕はこんなにも園子のことを思っているのに、園子は同じように思ってはくれないのだろうか。それだけで僕にとっては裏切られたように感じた。せめて園子にだけは自分のことを認めていてほしかった。それは人生で初めてのわがままだったかもしれない。
僕は交差点に立っていた。園子に譲ってあげたはずの水色の傘が、ガードレールに繋げられて苦しそうに風に揺られている。ポツリポツリと降り出した雨が僕の顔を濡らした。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
傘の下に供えられた花束を力いっぱい踏みつぶした。全部壊れてしまえばいい。もう何もかもどうでもいい。結局、誰も僕のことなんて何とも思っていなかったんだ。僕は固定された傘を引きちぎって頭上に掲げると、そのまま姿をくらました。