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【さとる】

 沈み始めた日の光を足元から浴びるようにして、長い長い階段を息を切らしながら一段飛ばしで降りていった。クマ出没注意の看板、さびれたコイン精米機、アブラゼミよりも力強く鳴くひぐらし、その全てが、またここに帰ってきたことを自覚させる。田んぼをいくつか越えた辺り、トンボに何度も視界を遮られながら古びた家屋を見つけた。思い出の詰まったその家屋に目的地を据えて歩き出した時、光をいっぱいに浴びた緑が歩道に浸食してきていることに気が付いた。道の端、緑が隠した天然の落とし穴に気を付けながら、広大な大地をちっぽけな体に覚え込ませるかのように力強く踏みしめる。

「三丁目の織田さんの息子さん、帰ってきてるといいね」

「ご家族が亡くなってから織田さんちょっと変だったもんね」

 曲がり角に差し掛かったところでそんな会話を耳にした。その瞬間、抑えていたはずの恐怖にも似た気持ちが溢れ出してきて、俺は来た道を引き返すことで精いっぱいになってしまった。

「あんたんとこお葬式出たの?」

 会話の続きはもう俺の耳には届いていなかった。あるいは聞こえないことにしたのかもしれない。


 もう秋だというのに、鬱陶しいくらいの蒸し暑さは未だ健在だった。

「母さん、惣菜買ってきたよ」

 戸を開けた瞬間、生暖かい風に乗って懐かしい森林のような畳の香りが鼻をかすめた。玄関も部屋の感じもまるで変わっていない。俺の部屋はまだ残してくれているだろうか。お気に入りのプラモデルは捨てずに取っておいてくれているだろうか。台所から水が滴り落ちる音が鮮明に聞こえ、手に持っている袋が擦れる音はどこか耳障りに感じた。窓は締め切っていて、エアコンどころか扇風機が動く音さえ聞こえてこない。

「煮物、ここに置いとくよ。これなら歯の悪い母さんでも食べられるだろ」

 額に滲んだ汗を拭うと、仏壇の前で正座する母さんの背中が視界の端に映った。俺が知っている母さんよりもやせ細っていて、白髪も心なしか増えたような気がする。空気が読めないと言われるほどに陽気だった頃の母さんの面影は少しも残っていない。

「ありがとうね。さとる」

 母さんはその場所で背中を向けたまま手を合わせた。

「俺が今いるところはすげーんだよ。日本人だけじゃなくて色んな国の人がいてさ、ご飯も美味しくて。あ、いや、もちろん母さんのご飯が一番だけどさ」

 扇風機くらいつけたらどうなのとか、身体大事にしないとだめだとか――中々帰ってこれなくてごめんとか。言うべきことはいっぱいあったけど、結局いつまでたっても、俺は子供で母さんは母親なのだろう。背中にかける言葉は全て自分本位なものに塗り替えられてしまった。

「そんでさ、何もかも全部大きくって、今になってここでの暮らしを思い返したら、すっごい不便な町だったんだなってわかったよ。新しい友達もできたし、まあ紹介するのはちょっと難しいかもだけどさ」

 俺は積もる話を一つ、二つと矢継ぎ早に続けた。しかし、母さんは俯いたままついに体をこちらに向けることはなかった。覗き込んでやっと見えた横顔には、一筋の涙が既に頬まで流れ、顎を伝って、今、畳を濡らした。

「ごめん母さん。俺ちょっと出かけてくる」

 体が勝手に動いて、気が付けば家を飛び出していた。後から思考が追い付いてきて、俺にはやっぱり事実をはっきりさせたい気持ちがあるんだということがわかった。母さんの涙を見たのはあの日以来だった。普段涙を見せないからこそ、あの日も同じように、必死にこらえて、こらえて、それでも流れ出てしまった、そんな涙だった。

 去年この町に来たときは、すぐさま逃げ帰るようにして出ていってしまった。今回もいずれそうなるだろうと覚悟はしていたものの、母さんに会えたことで、母さんの涙を見たことで、俺の中の何かが変わったような気がした。

 父さんは二年前に交通事故を起こした。父さんの車とぶつかった少年が今どうなっているのか俺は知らない。知るべきだという意見は最もかもしれないけど、もし父さんが人殺しにされていたりなんかしたら、きっと俺は俺でいられなくなってしまう。父さんは決して不注意運転をしてたわけじゃない。もちろんお酒なんか飲んじゃいなかったし、速度もしっかり守っていた。そもそも缶ビール半分で耳まで真っ赤になるし、心配性で怖がりな父さんがそんなことできるはずがない。けど、その事実を知っているのはきっと隣にいた俺しかいない。

 少年が自転車で下ってきた前方右側の坂はあまりにも死角だった。だからこそ、突然目の前に人がテレポートしてきたかのような感覚だった。ブレーキを踏んだって今更間に合うわけがなく、どうしようもない事故だった。少年を避けようと、ハンドルを目一杯左に切られた車は、突如崖の外へと放り出され、夕暮れの秋空を虚しく駆けた。


 日がだいぶ落ちて辺りは暗くなってきていた。「田舎の夜をなめてかかったら痛い目を見るぞ」と、父さんがよく口にしていたことを思い出す。あの場所まではそう遠くない。三十分もあれば到着できるだろう。ギアを一段階あげて走る俺の顔に、生暖かい風は正面衝突を繰り返す。その風は留まることを知らないようで、少し気持ちが悪い。それに辺りに人の姿は一切見当たらず、自分ひとりが孤独な世界に迷い込んでしまったかのように思えて心細い。その孤独な夕空に今、やんわりと光が灯って、消えた。あれはきっと人工衛星だろう。今の俺にとっては、少なくとも無機質な天然物が見えるよりよっぽど安心させられた。次の一歩を踏み出した時、整地されていない柔らかい土が、天を見上げた俺の足を引きずり込むようにして自然の落とし穴へといざなった。

「――って!」

 突如足場がなくなり、地面に手をついたことで身体は低く崩れ、傾いた。泥沼の中の左足、地面と擦れた脛に血がにじんできた。突然のことに戸惑いを隠せない中、のんびりしている暇はないと左足を一気に泥沼から引き上げた。片膝を立てた低い姿勢のまま顔をあげると、目の前を右から左へ一匹のトンボが通過し、それに驚いた俺は思わず尻もちをついてしまった。そして次の瞬間、まるで絵空事のような景色に目を丸くした。

 九月の中旬、汗が滴り落ちる中、俺の目線の先には数えきれないほどのトンボが予め決められた線をなぞるかのごとく宙を舞っていた。

「さっきまではそれほど気にならなかったのに」

 ――トンボって思ったより低く飛ぶんだなぁ。

 その後は目線を下げ、トンボに足元を照らされるようにして地を踏んだ。今俺の左足は泥に血が混じってとんでもないことになっているだろうが、痛みもなく、暗くてはっきりと見えないことが幸いしてそれほど気にならなかった。

 あの場所に近づくに連れて鼓動は早くなり、流れる汗の量も増えていった。視線の中、前から後ろへと流れていく景色一つ一つが、段々と記憶の中のものと一致してきている。

 時間が経つにつれ視界はどんどん悪くなり、トンボの姿を確認することはもうできない。そしてついには自分が一体どこまで来たのかさえ把握しきれなくなっていた。とはいえ、もう後戻りすることを一切考えていなかった俺は、慎重に歩を進めるという選択を取った。一歩一歩地面を確かめるかのように歩いていると、正面にこれまで通った道と比べてやたらと明るい道路が姿を現した。近くにコンビニでもあるのか、あるいは目が暗さに慣れてそう錯覚しているだけかとも考えたが、単純な話、その場所だけ明らかに電灯の数が多かった。そしてその電灯の一つが照らす先に、何やら黄色い看板が立っているのが見えた。黄色の枠の中、黒文字で書かれたそれを俺は心の中で読み上げた。

(飛び出し注意 重大交通事故発生現場……)

 俺はある一つの可能性を探って辺りを見渡すと、前方右側、曲がり角に設置された二枚のカーブミラーに、とある急勾配な坂道が映し出されていることに気が付いた。そして反対側の道路の端にはガードレールが厳重に設置されている。恐らくその先に続くであろう崖を想像すると、身震いがした。変わり果ててしまって全然わからなかった。ここが俺の探していた「あの場所」であるということに。

 父さんが死んだときは、電灯もガードレールもカーブミラーも看板も何もなかった。最初から全て仕組まれていたかのようで、父さんが死ぬことは決まっていたかのようで、腹が立った。そもそもあの少年がこの坂から飛び出してさえいなければ……今になってそんなことさえ考えてしまった。黄色い看板の隣、同様に注意喚起のために置かれた子供の絵が次第にあの時の少年と重なって、こちらを見ている目はどこか俺を嘲笑っている気がした。俺はいてもたってもいられずに叫んだ。

「お前が父さんを殺したんだ!」

 俺の叫び声は一度だけ反響すると、暗闇の中に消えていった。

 やっぱり、今ここで確認しなければならないことがある。今度こそしっかりけじめをつけるためにも。二年前の記憶を辿って、変わり果てた景色の中から輪禍の地点を探した。目を凝らしながらゆっくり進んでいると、交差している道路の少し先で擦れたタイヤ痕を見つけることができた。崖の方へと湾曲したそのタイヤ痕を目で追っていくと、ガードレールとガードレールの間に立っている一本の電信柱の根元に、こちらに傾いて広げられている傘が見えた。近づいてみると、まだ新しいように見える水色の傘が風に飛ばされないように、ガードレールとしっかり紐で固定されてそこに置かれていた。一体誰が何のためにこんなことをしているんだろう。広げられた傘の柄を手に取ろうとしゃがみ込んだその時、俺の目に飛び込んできたのは思ってもみない光景だった。傘の下、電柱の周りには目に余るほどの花束が飾られ、積み上げられていた。花は全て綺麗に咲いていて、枯れているものなど一つもなかった。俺はたくさんの感情が一気にこみあげてきて、思考がまとまらなくなっていた。どんな顔をしたらいいのかわかんないし、言葉だってうまく紡ぐことができない。ただ、その光景を見た俺にとって、大げさだけど、毎日のようにここにやってきて父の死を悲しむ町の人の姿を想像することは容易かった。ただ、ただ涙が溢れて止まらなかった。


 俺が確かめたかったことは、あの花束が全て教えてくれた。父さんが今頃、どこで何をしているのかわからないし、俺には知る術もないけど、きっと父さんも自分自身の目でこの花束の山を見た日には、安心して我が家に顔を出せるようになるんじゃないかな。

 家に一人残した母さんのことが心配になってきた俺は、これ以上道が暗くなる前に帰ることにした。汗による体のべたつきも、汚れたはずの靴も、血を流すほどの左足の怪我も気づけば全てなくなっていた。もう暑さを感じることもなく、羽が生えたように軽い足取りで地を駆けて行った。途中ポツリポツリと大粒の雨が降り出したが、そんなのは今の俺にとっては些細なことでしかなかった。バスの待合所を通り過ぎ、小さな水たまりを避けて歩いていると、やがて雨は止んでしまった。しかし次の瞬間、羽を突としてもぎ取られたかのように俺は立ち止まった。流れゆく景色がピタッと止まり、風になびいていた髪が重力に従って下りてくる。ふと顔を上げた際に反対側から誰かこっちに向かってきているのが見えたからだ。暗闇に浮かび上がる影は自分の半分くらいの身長に見えるが、子供……なのだろうか。距離は徐々に詰まっていき、頭上で点灯する数少ない電灯が明かりを届けられる領域に差し掛かった時、その者の正体は明らかになった。子供というのはあながち間違いではなく、恐らく小学校高学年か中学生ぐらいだろう。毛先は肩にギリギリ触れないところで切り揃えられ、その下では膨らみ始めた胸が自己主張するかのように、服を押し上げている。素朴だけど鼻筋もしっかり通っていて可愛らしい女の子だ。そして情報を一つ付け加えるとするならば、その少女は車椅子に乗っている。

 表情一つ変えずに前だけをぼんやりと見つめながら真っ直ぐ進んでくる少女を、俺はその場に立ち止まったまま、固まったように見つめていた。俺の前を通り過ぎるその瞬間、畳と線香が混じったようなにおいが鼻をかすめた。

俺はその後、少しの間動くことができなかった。この胸騒ぎはなんだろうか。いや、本当はわかっている。あの時も顔を細かく見れたわけじゃないし、二年も経てば容姿や雰囲気に違いが出たっておかしくはない。そうきっとこの直感は間違ってなんかいない。根拠なんて一つもないけど、この時俺はそう思い込む他なかった。

 ――あの少年は生きていた。

 少女が暗闇の中へと消え、再び訪れた孤独な世界の中を俺はまた一人歩き始めた。このことを父さんは知っているだろうか。自身の命をかけてまで一人の子を守り抜いた父さんを心の底から誇らしく思った。あの少女を許すことはこれから先もないけど、きっと恨むことはもうしないだろう。成長した少女の姿を見てそう思った。

「よかったね父さん」

 雨が再び降りだした。

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