第三話【恒例と】
絶対に何かがおかしい。間違えている。そんなことを思ったのは、家に帰って荷物を置いてからのことだった。
「……手はちゃんと洗っとくか……」
喋る狸。根本的なところから、もうそれがおかしい。間違った存在として問題ない。でも、大事なのはそこじゃない。
キャッチボールを断ってしまった罪悪感から、ひとり(?)にしてしまった申し訳なさから。そして、それらを自分に重ねてしまったから、わざわざボールを持って雑木林で野生の狸の遊び相手をした。
ふと我に返ってみれば、こんなに意味不明な行動もないだろう。危ないし汚いし。
喋らない狸だったら、普通の野生動物だったら、あんなことしなかった……んだろうか。それなら、変な罪悪感なんて生まれなかったんだろうか。それはそれで……なんか、嫌だけど。
「……」
とりあえず、明日からはもうあの林へは行かない。不可抗力でも働かない限りは、絶対。自分の足では向かうまい。
そんな決意を固めて、風呂で念入りに体を洗ってから眠りに就いた。
「――凛。凛ちゃん。そろそろ起きなさいね」
翌朝もばあちゃんの声で目が覚めた。今まで通り、いつも通りに。
「……あー……」
ひと晩明けてみると、あの狸のところへ行ったことも、帰ってからそれをやたら後悔したことも、どっちもとてつもなくどうでもよく思えた。いや、とてつもなくどうでもいいことだからな、実際。
わざわざ足を向ける必要はない。その上で、躍起になって拒否する理由もない。うん……こうして意識してること自体がもう変だけど、時間が経てば自然と忘れるだろう。
結論が出た時点で、朝飯を食って家を出た。今朝もきっと大磯が声をかけることだろう。ただ……昨日はリーグ戦も休みだったし、話題は変わると思うけど。
「おーい、夕山」
っと。顔を思い浮かべるよりも前に声が聞こえた。そして、振り返るよりも前に肩を叩かれる。昨日と同じ、いつもと同じ、気さくで大雑把な大磯に。
学校に着いて、そのまま教室へ向かって、そして授業が始まる。大磯も昨日の件でちょっと懲りたのか、今朝は体育館には誘わなかった。
でも、それでいい。それが普通で、当たり前で、いつも通りだ。嫌なこと、面倒なことがあったら、気持ちその場所を避ける。そういうのも含めて。
三限目が終わって、クラスは少しだけ活気づいた。昼飯前に、まだもうひとつ授業が残っていても、それが体育なら……それも、ほとんど外で遊んでるのと変わらない時間なら、大体のやつは元気になる。
それは俺も例外じゃない。そして……前の学校と、その学校の生徒が進む中学がどうかは知らないけど、少なくともこの田舎の中学校じゃ、基本的には全員が例外じゃない。
男子も女子も、ひとつしかないクラスの全員が、揃って遊びに出られる時間としか思ってない。
「おい、猛。今の内にチーム分けしとこうぜ」
そんなことだから、身体がデカくてずっとスポーツやってる大磯と、それからもうひとり身体のデカい男子生徒……金村が、これもいつも通りにじゃんけんでクラスメイトを取り合い始めた。
俺と特別仲がいいわけじゃないけど、金村も大磯とだいたい同じようなタイプだ。大雑把で、気さくで、スポーツが好き。ただ、興味はバスケよりサッカーに向いてるってだけ。
バスケ部は存在しないから、大磯も金村と一緒にサッカー部に入ってる。だから、ここのふたりは仲がいい。そういうのがなくても、似た者同士で打ち解けてそうだけど。
「おっしゃ、勝ち! まずは夕山だな! おーい! 今日もお前こっちな!」
今日も。と、大磯はにこにこ笑って俺にそう声をかけた。
そう、今日も。チーム分けなんて言ってるけど、全員参加でやっと成り立つ人数で、それを毎度毎度やってるわけだから。なんとなく振り分けられる顔ぶれは変わらない。そして、拒否権も変更要求も認められてない。
サッカーだったら俺より上手いやついるのに、それでも大磯は仲がいいやつから選んでいく。まあ……金村もそれは同じ。ふたりともサッカー部だから、結果的には上手いやつから選ばれるけど。
そうして出来レース的に分けられたチームが完成して、揃って校庭に走って向かう。
準備も自分達でやらなくちゃいけないから、それが遅れると遊ぶ時間が……もとい、授業の時間が短くなっちゃうから。この時と給食の前に限っては、全員の行動が合致してる気がするな。
「――先生! もう始めてていいよな!」
で。準備が終わって、始業のチャイムよりも先にキックオフの合図が勝手に鳴らされる。これもいつも通り。
先生が遅れて……もっとも、授業の時間よりは前なんだけど。まあ、ゆっくり到着した頃には、ボールはとっくに蹴り出されてる。競技が違っても、この部分は恒例だ。
「上がれ上がれ! 凛! いくぞ!」
授業とは言え、それぞれのチームの半分はサッカー部、ないし経験者だから。それなりの形を保ってゲームは進行する。
凛。と、俺を呼んでパスを出したのは、大磯より付き合いの古い新田だった。古いって言っても、一か月とか一週間とか、そんな単位なんだけどさ。全員ずっと同じクラスだから。
新田から俺へ、俺から大磯へ、大磯からまた誰かへ。そうやって自陣でパスが回って、さあ攻め込もうと俺と大磯が前線へと走り出す。
前へ抜けた大磯へパスが通って、そこからまたまた俺の方にボールが蹴り出されて…………
「あっ! わりい!」
「っ⁉ またかよ! このバカ!」
縦方向に強く出された大磯のパスは、俺よりも更に前……誰よりも前、遠くにまで飛ばされて……そして、学校のすぐ隣の雑木林――昨日の朝もボールを蹴り入れた雑木林へと突っ込んでった。またかよ……
「もうちょい加減を覚えろ! ったく……」
大雑把なのは人柄だけじゃない。と、こういう時には全員の意見が合うもんだ。
仮にもパスを出された俺は、そのまま走ってボールの後を追いかける。力の強い大磯が蹴ったとは言え、遠くから出されたパスだったんだ。そんなに深くまではいかない……と思いたい。
「くそ、やっぱりフェンスくらい建ててくれないかな……毎回こうだと、流石にめんどくさい……」
それでも、ちゃんと探さないと見つからないものは見つからない。
ただ、時間をかけ過ぎると、それはそれで新しいボールで勝手に再開される可能性がある。
それはなんか釈然としないから、さっさと見つけるか切り上げるかして戻りたいけど……
「――オイ。探し物はこれだろ?」
「…………? なんか……嫌な予感が……」
オイ。と、もう一度声が聞こえた。聞いたことのある声だ。ただ……顔は一切浮かばない。少なくとも、クラスの人間の顔は。
「ベースボールだな。オイ、おいらも混ぜてくれよ」
声のした方へと顔を向けると、そこには……サッカーボールを両手で抱えた、まるまる太った狸が…………昨日のアイツが、ニタニタ笑ったような顔で立っていた。
「……これはサッカーだ。ほら、パス。こっち寄こせ」
「っ! おお! そうだ、そうだ! サッカーだな!」
どうしても……どうしても会話が成立する。今の今まで忘れていられた筈のそれと再会して、俺は…………ボールを受け取ってすぐ、逃げるようにグラウンドへと戻った。
後ろから声が聞こえた気がしたけど……それも無視して。全部を無視して、一目散に。
その日の授業後に、やっぱり俺は雑木林へと足を運んでいた。今度はサッカーボールと、それから……昨日と同じ、奇妙な罪悪感を持って。