第二話【似姿】
ボールを探して飛び込んだ雑木林の奥。そこにいたのは、まごうことなく太った狸だった。だった……のに……
「……? オイ。返して欲しいだろ? これ、お前のなんだろ? おいらが拾ってやったんだぞ」
それは平然とした顔で二本足で立って、自分の半分くらいの大きさのボールを抱えて、そして……まるで人のように言葉を発するのだ。
理解出来なかった。状況が飲み込めなかった。もしかしたら、ばあちゃんに起こされた後に二度寝してしまったんじゃないか……って、それを本気で考えるくらいに。
いや……違う。その方がまだリアルだって、目の前のことを受け入れられずにいるんだ。
「ちぇっ。オイ、返事しろよ。おいらが拾ったんだぞ。お前、これを探してたんだろ? なあ、オイって」
オウムやインコが喋るのは知ってる。でもそれは、あくまで人の言葉を真似して繰り返すだけだ。
コイツは違う。きちんと状況を理解して、自分の意思を伝える為に言葉を選んでる。
そんなことを考え始めたのは、さっきまで草や枝をかき分けてた手が、そこに出来たいくつかの傷が、ぼやけることなくちゃんと痛かったから。これが夢じゃないって、二度寝じゃないってわかってしまったからだった。
「……なんで……狸が喋って……」
思考回路はほとんど停止寸前だった。とりあえずの段階――目の前の狸が言葉を発してる段階から理解出来ない所為で、次の疑問に行き着かない。行き着かないままショートして、もう何も考えられなくて……
「――オイ! お前、失礼な奴だな! おいらは狸じゃねえ!」
自分で考えられないから、与えられた情報を真っ直ぐに受け取ることしか出来ない。
狸じゃない。と、それがそう言った時に、問題がそこではないことにはまだ頭が回らなかった。まるまるしてるけど、野犬か狐なんだな……なんてのんきなことを考えていた。
そんな俺に……まだぼーっとそいつを眺めるしか出来てない俺に、その狸はちょっとだけ近付いた。
ボールを持ったまま、よたよたと。骨格的に苦労するだろうに、わざわざ後ろ足二本だけで歩み寄ったのだ。
「おいらは人間だ! だから、これが何かも知ってるぞ! これ、野球だろ! おいらは人間だからな、知ってるんだ!」
「……え……違う……」
これまでのやり取り、そしてこの状況にあまりに似つかわしくない勘違いの言葉が飛び出して、俺の身体は反射的に否定の言葉をこぼしていた。
ぼそりと呟いた言葉だったけど、はっきりと伝えられた間違いの指摘に、狸が動揺したのが分かった。他の動物とは違う、人間みたいな表情から。
「――ち、違うことも知ってるぞ! これは野球じゃないんだ、うん! だからこれは……これは……」
これは……と、その先に繋がる言葉をしばらく探して、狸はやっと答えを導き出した……らしい。ちょっとだけ元気になって、そして……
「これはベースボールだ! ほら、いくぞ!」
結局は野球から離れられずに、大きなバスケットボールを俺目がけて放り投げた。
と言っても、狸は狸だから。その大きなボールを俺のところまで届かせることなんて出来っこない。
ボールはすぐに地面に着いて、何回も跳ねることなく転がって俺の足下に到着した。
「ほら、お前も投げろよ! 俺は人間だからな、野球が出来るんだ! あっ、じゃない! ベースボールが出来るんだぞ!」
狸はそう言って、ちょっとだけ前傾していた身体をまた真っ直ぐに伸ばして、前足を腹の前でぴょこぴょこと動かした。投げ返せ、キャッチボールをしろ。と、催促するように。でも……
「…………」
「……? あっ! オイ!」
とりあえず、ボールは見つかったわけだから。
この理解出来ない状況から逃げる意味も込めて、俺はそいつからすぐに目を背け、急いで体育館へと戻ることにした。
呼び止める声は聞こえた。でも……あの丸い狸が追いかけてきたとして、追いつかれるイメージはまったく浮かばなかった。
だから、一切振り返らずに走り切った。雑木林を抜けて、体育館が見えて、そして……
「……っ! 見つかったか! よかったー……」
俺より先に体育館へ戻ってた大磯に迎えられた。その反応から、俺の後ろには何も付いてきてないんだって、振り返らなくてもわかった。
「……お前、もっとちゃんと探せよ。自分で蹴飛ばしたんだから」
アレはなんだったんだろう。そんな疑問がまだ消えないから、大磯に向けた悪態もちょっとぼやけたものになってしまった。そもそもとして、どうしてこんなに必死になってボールを探したのかさえ。
その日はずっと、何をやってもぼんやりするばかりだった。
体育館から教室へ向かっても、まだ何か忘れ物をしたような気分が続いてたし、教科書を開いてても授業がどこをなぞっているのかわからない。
給食だって、食べたか食べてないかも曖昧なくらいで、気が付いたら六限目の終わりのチャイムが鳴っていて……
「…………」
多分、きっと。大磯とはあの後にも話をした……んだよな。アックスについて……バスケットの話題で、それなりに盛り上がってた……筈だ。
いつもそうだったんだ。少なくとも、試合があった日は。俺が望む望まないに関わらず、大磯が話したがるから。
だけど……今日一日、大磯の声を聞いた記憶が全然残ってない。ボールを蹴飛ばした時の間抜けな顔と声から後には、誰の声も顔も覚えてなくて……
――オイ。探し物はこれか?
「――っ」
早く忘れるべきだろうことだけが、まだぐるぐると頭の奥底で渦を巻いている……気がした。
気付けばもう周りに誰も残ってなくて、俺も急いで帰りの支度を済ませて席を立った。誰もいない教室の、その端っこの席から立ち上がって……
「…………」
がさがさと、葉っぱが擦れる音がする。後ろの方からは、体育館の床をゴムがひっかく音が聞こえる。そして、それがゆっくり離れてく。
俺は何をしてるんだろう。そう思ったのは、教室を出てからもう何回目だろうか。それでも、どうしてか足がこっちへ進みたがったんだ。
あの狸がなんなのかを確かめたい……わけじゃない。アレがなんだって、俺には関係ない。これから先に、いっさい関わりのないことだ。
あの狸にお礼がしたいわけじゃない。別に、拾われなくてもきっと見つけた筈だ。その時の俺は、そのくらいの真剣さで探し回ってたんだから。
じゃあ……なんで。なんで俺は……
「……っ。今朝は……ここに……」
半日前に自分でかき分けた枝葉の道を進んで、それが途切れてる場所にまで辿り着いた。間違いなくここだ。朝、ここに、あの変な狸が…………
「……いない……か。そりゃ……狸だもんな、そうだよな……」
そこには何もいなかった。誰もいなかった。当たり前だけど、声はなかった。
それを思い知った時に、俺は心底がっかりしていた。なんでか……は、わからない。わからないけど……寂しいと思ってしまった。
会いたいわけじゃない。あの狸に会って、話をしたいわけじゃない。でも……奇妙なことに、悲しいと思った。思った……と、思う。
でも、なんで悲しいのか……は、わからなくて……
「――オイ! お前! 朝のやつだな!」
「っ! その声……」
声が聞こえた。それは、ちょっとだけ上から聞こえた。小さい狸を探す、地面ばかり見ていた俺の視線の、それよりも少しだけ上から。
顔を上げると、そいつはこっちを見下ろしていた。丸い身体を上手に枝の上へと収めて、おっさんみたいに寝転がって俺に声をかけていたんだ。
「まったく、失礼なやつだな、お前。でも、許してやるぞ。俺は人間だからな。人間は、謝ったら許してやるんだ」
謝ったつもりはなかったけど、許してやるなんて言いながらそいつは地面に降り立った。ドスンって、落っこちるみたいに。
それで……狸はまた、俺の前に二本足で立っていた。朝と同じように。朝の続きみたいに。だから、俺は……
「……朝のはバスケットボールだ。野球はこっちだぞ、狸」
「っ! 俺は狸じゃ……お? おおっ! それ! それだ! そうだ、野球はそれだった!」
野球でもベースボールでも使う白い球を、カバンの中から取り出して狸に見せてやった。それからすぐ、自分がどうしてこんなところにいるのかを理解した。
「……ほら。硬いぞ、気を付けろよ」
真相はわかんないけど、俺は今朝、キャッチボールの相手を断ってしまったんだ。それが、かわいそうだし、自分がそうされたらきっと悲しいだろうと思ったんだ……と、そう思う。
目の前にいるのは狸で、人間じゃない。それはわかってる。それだけしかわかってない。
でも、寂しそうだと思ったら……ちょっとだけ、情が湧いた。そんなものが湧いたら、一応は確かめたくなったんだ。
ボールを転がして、それに狸がじゃれつくのを見ると、自分の中にあった奇妙な悲しさは消え去った。
もしかしたら俺は、こんなのに自分を重ねていたのかもしれない。母さんに連れられて、ひとりぼっちで家を出た子供の頃の自分を。