第一話【陽の当たる日々から】
――絶対に――絶対に取っちゃだめよ。そのまま――そのままだからね――
それは母さんの声だった。もうずっと前、ずっと幼い頃の俺に言い聞かせる、最後の言葉だった。
八歳になるその歳の六月に、母さんは顔を真っ青にして言った。目を瞑れ。目隠しを取るな。
そして、誰の声にも返事をするな、と。
目にタオルを巻かれて、リュックを背負わされて、そんな状態で手を引かれて、俺はどこかに押し込まれた。その後の音や揺れで、車に乗せられていたのはすぐに理解出来た。
遠くへ出かけた時よりもずっと長く感じる時間を車に揺られて、そうして母さんは俺を抱き上げて車を降りた。
そこがどこなのかは匂いですぐに分かった。そう何度も何度も訪れた場所ではなかったけれど、独特で、そして特別な思い出が紐付けされていたから。
そこは、母方の祖父母が住む家……の、その近くの山道の入り口だった。
どうしてこんなところへ連れて来たのだろう。と、そんな疑問が解決するよりも前に、じいちゃんの声が聞こえた気がした。ひそひそと、母さんとだけ話をする声。
その後だ。そのすぐ後に、母さんはあの言葉を俺に告げた。それっきり、二度と聞くことのなくなった声で。
それからは、母さんよりもずっと大きな手に引かれて、誰に返事をすることも――誰に話しかけられることもなく、じいちゃんの家に連れて行かれたんだ。
家に着いて、そうしてやっと、じいちゃんは俺に声をかけた。これからは、ここで暮らすんだ、って。目隠しを取りながら、優しくそう言った。
まだ眩しい視界の真ん中には笑顔のばあちゃんがいて、両肩にはじいちゃんの手のぬくもりを感じて。そうして……七歳の俺は理解した。
俺は、捨てられてしまったんだ、と。
「――凜――凜ちゃん。そろそろ起きなさいね」
ばあちゃんの声が聞こえて、それで俺は目を覚ました。
今日は、この家で暮らし始めてちょうど七年――十五歳になる六月が始まる日だ。
「ばあちゃん、おはよ。自分で起きれるから、部屋まで来なくても良いって言ってるのに」
七年間、俺はこうしてばあちゃんの声で目を覚ましている。誇張でもなんでもなく、毎日。ばあちゃんが起きるのが早過ぎるから。
七年間、ずっと。この早起きなばあちゃんとふたりだけで生きてきたんだ。
「朝ごはん、もう出来てるからね。着替えたら早くおいでね」
ばあちゃんはそれだけ言い残して、のそのそとゆったりした足取りで部屋を出た。
身体が悪いわけじゃないのは、これも一緒に暮らしてる間になんとなく理解してる。ばあちゃんはかなりのマイペースなんだ、って。
「……それでも心配になるよな、あの遅さは。歳も歳だし」
もう見えないその背中が頭の中でちらついて、どうしてか小さなため息が出た。そろそろ朝飯くらいは俺が準備するようにしようか……なんて。
……この家には、本当ならもうひとりが暮らしてる筈だった。俺が来るまでずっとばあちゃんと一緒に棲んでた、ばあちゃんよりずっとせっかちなじいちゃんが。
じいちゃんは……いない。どうしてか、ここにはもういないんだ。
死んだわけじゃない。葬式もしてないし、墓にだって埋めてない。でも、いない。
七年前、俺がこの家に来てからすぐ。二週間もしないくらいだったと思う。そのくらいで、じいちゃんはいなくなった。
何を言い残したわけでもなく、説明があったわけでもなく、黙っていなくなったんだ。少なくとも、俺は一切の事情を知らない。
ばあちゃんはそんなじいちゃんに文句なんて言わなかった。寂しそうにしてる時はあるけど、それを俺の前でぐちぐち言ったりしなかった。だから……何かしらの事情があるんだろうな……とだけ。
その事情はきっと、俺がここに預けられた――捨てられた理由と関係してるんだろうな……とだけ。
だから、俺はそれを尋ねなかった。中学三年になるこの年まで、一度だって。気になっても、不安になっても、じいちゃんのことも親のことも何も聞かなかった。聞けなかった。
ばあちゃんはひとりでも俺を大事に育ててくれてる。それが分かってたから、俺と変わらないくらい悲しい筈のばあちゃんを問い詰めるようなことをしたくなかった。
それに、ばあちゃんとふたりで困ることもなかった。
手続きはちゃんとしてくれた……と思うから、この辺の小学校にはすぐに転校出来たし、人数が少ないから馴染むのも早かった。
ちょっと古いばあちゃん家が不便だと思わなかったわけじゃないけど、そんなのは暮らしてればすぐに慣れたし、そもそも七歳じゃ何が違うとも理解出来てなかったんだから。
それより、優しくてずっと笑ってるばあちゃんと一緒にいられる幸せの方が大きかった。結局はそこに尽きる。
そんなばあちゃんの作ってくれた朝飯をさっさと食べて、いつも通りやたらと濃いお茶も飲み干して、行ってきますって家を出た。当然、学校に行く時間だから。
明川の表札が掛かった玄関を出て、五分もしないうちに同じ制服の背中がぞろぞろと集まり始める。人が住んでるの、ここら一帯だけだから。ほぼ全生徒が、同じ時間に同じ道を歩いて学校へ行くんだ。
「おーい、“夕山”。昨日のバスケ、結果見たか? 凄かったぞ」
どうせ同じ目的地に向かう、ほとんど全員が集まる中で、わざわざ名前を呼んで俺を呼び止める声が聞こえた。これも多分、ほぼ毎日聞いてる声だ。
振り返る間も無く肩を叩いたデカい手は、こっちに来てからすぐに打ち解けた友達のものだった。
名前は大磯猛。身体がデカくて、ずっと一緒にバスケやってる、大雑把だけど気さくで接しやすい、良いやつだ。スポーツチャンネル見れることをやたらと自慢してくるところ以外は。
「見てねーよ、見ねーよ、見れねーよ。うちのテレビはニュースしか流れねーし、パソコンも持ってないし。で、どうだったんだ。その様子だと、アックス勝ったのか」
「ちゃんとスコア書いてきたから、早く体育館行こうぜ。まじで凄かったんだぞ」
大磯は結果を説明しないまま、とにかく凄かったとだけ繰り返して俺の手を引っ張った。
スコア教えるだけならここでも出来るだろうに……多分、凄かったって言ってるプレーの再現とかやりたいんだろう。良いやつだけど、要領悪いのと勿体付けるのはたまにイラっとする。
急かされるまま学校まで走って、カバンを持ったまま校舎を無視して体育館へと向かうと、大磯はやっぱりゴールとボールを準備し始めた。多分これから、出来もしないスーパープレーの実演が始まるんだろう。
「おーい、早く結果を教えろって。アックス勝ったんだろ。負けたのか? 笑えるほど大負けしたのか?」
待て待て。と、大磯はやたらと入念に準備運動をして、これから説明するからって顔で俺を制した。さっき俺を急かしてたやつのすることじゃない。
でも、この人の少ない田舎で、地元のチームとは言えバスケのプロチームの話が出来るのはコイツだけだ。そういう事情もあってだろうけど、大磯のこういうところはそこまで憎めないでいる。
「七番だよ、七番。マイティーズの七番、竹下。アイツのディフェンスが凄くてさ。でも、第二クォーターで長沼が……」
長沼が……と、名前だけ出して、大磯はつるつるになった古いボールを突き始める。
ひとりで再現されても、その凄かったらしいディフェンスの動きも見てないんだけど……と、口を挟むのはやめておいた。そうなると今度は俺が参加させられて、実演披露なのかただのゲームなのかわかんなくなるから。
「――で! ここで一回溜めて、ロールしてから――あっ」
まあ……参加させられなくてもわかんないのは一緒なんだけど。
大磯はドリブルの姿勢を低くして、出来もしない左手でのロールターンを披露して…………ボールを思い切り蹴飛ばした。ほら……
「……って、バカお前っ!」
ボールを蹴飛ばすところまでは想定内。だけど……想定してなかった、いつもと違ったのは、今が朝で、それも大急ぎで準備をしたことだった。
蹴飛ばされたボールはそのまま体育館の裏のドアから飛び出して、そこから数メートルもない雑木林へと消えてしまう。先生に見つからないように裏から入ったことが、大き過ぎる裏目になってしまった。
「やっべ! 夕山! どこ行ったか見てた!?」
「ふっざけんな! 見ててもわかるわけないだろ! 急いで探すぞ!」
これは大変なことになった。と、俺も大磯も大慌てで林へと向かった。
勝手に使ったボールを失くしたのが問題なんじゃない、それで先生に怒られかねないのとかもどうでもいい。
問題なのは、この学校にはバスケ部なんてなくて、備品のボールもアレ一個しかないってことだ。失くしたって報告したって、それで学校に新しいボールを買って貰える保障なんてないんだ。
「お前そっち探せ! 俺はあっち行くから! ちゃんと探せよ!」
「わかってるよ! くっそー……」
学校に買って貰えないとなったら……多分、俺がバスケットボールを触る場所はもうどこにもなくなってしまう。
大磯は……もしかしたら、見つからなかったら新品を買えば良い……くらいに考えてるかもしれない。ロゴも消えて、溝もほとんど残ってないような古いボールだったし。
でも……俺の小遣いじゃ、街のスポーツ用品店まで行って帰る電車賃だけでもう足りてない。加えて新品のボールを買うなんて、とてもじゃないけど不可能だ。
それに……自分が悪くて失くしたのに、ばあちゃんに頼んで出して貰うなんて出来ない。大磯が失くしたんだから、アイツが買ってくれるだろうなんて考え方もしたくない。
だから俺はとにかく必死に探した。文字通り草の根も掻き分けて、手が緑になるのも構わずに探し回った。
必死に探し回って、奥まで入って、冷静に振り返って、体育館がもう見えないくらいまで来てるのに気付くと、流石にこんなとこまで転がらないだろうという考えに及んだ。
だからまたゆっくりと引き返し始めて、もしかしたら大磯が見つけてるかも……なんて考えも捨てて、また血眼になって地面を睨み続けて…………
「――オイ。探し物はこれか?」
「……? 大磯……じゃない。誰だ」
草と土ばっかり見てた俺に、誰かが声をかけた。大磯じゃない。クラスの誰かの声でもない。知らない声が、山の深い方から聞こえたんだ。
もしかして、ホームレスか? って、その時の俺は軽い気持ちで振り返ったんだ。
強いて言うと……ボールを拾ってくれた優しいホームレスか、それとも返して欲しかったら金を寄こせって言うがめついホームレスか……って。前者だと良いな……くらいのことを考えて振り返った。でも……
「――なん――だ、お前……っ⁉」
「これ、お前のだろ? おいらが拾ってやったんだ。オイ。これ、返して欲しいか?」
声のした方にいたのは――二本足で立ってボールを持っていたのは、俺に話しかけていたのは、大磯でもホームレスでもなく、まるまる太った狸だった。