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10-1 TS娘と自分の居場所

 僕は今、暖かい日差しのような光の中にいる。

 少し離れた場所に、見覚えのある女の人の細い身体の背中が見えた。

 

「久しぶりだね、待っててくれたんだ?」


 声をかけても、その人はこちらを振り返ってはくれなかった。

 だけどもちろんその背中が、かつてオカヤマで一緒に暮らしていた恋人のものだとはっきりわかる。


「怒ってるよね? ……ごめんね、あの頃も」


 彼女はこちらを振り向かない。

 ぼんやりとした明るさの中で、彼女はただこちらに背を向け続けていた。


「ねえ、なんとか言ってよ」


 だけど彼女が私に怒っていないことなんてわかりきっている。

 優しい人だった。


 だからこそ彼女の最期の願い、つまり私が幸せに生きるということくらい叶えてあげたかったのに、結末はこんなものだ。


「私には難しすぎたんだよ、こんなひどい世界で生きるのは。……でもさ私、たぶん結構幸せだったんだよ」


 彼女の後ろ姿のほうへ、一歩足を進める。


 頑張って生きた。

 戦って、傷ついても、ただひたすらに生き続けた。


 だけど。



「ねえ……もういいでしょ? 私はもう、僕はもう、これで充分満足……したよ」


 これで充分。


 そう口にした瞬間、自分が全く満足なんてしていないことに気づいた。


 ハジメの傷だらけの顔が、頭に強く浮かんでしまっていた。


 ハジメは生き残れただろうか。

 生還をしっかりと確認できるまで、守り通してあげたかった。


 もっとたくさん話がしたかった。

 離れていた10年の間にあったことを。

 オカヤマ時代の暮らしのことも、これまでの全部、全部を。


 もう一度その大きな身体な抱きしめられたかった。


 もう一度、あの手で私に触れて欲しかった。



 ハジメのことを考えてしまうと後悔ばかりだ。


 このまま死ぬなんて嫌だ。


 もう一度、ハジメに会いたい。ハジメと二人で生きていたい。



 その瞬間、彼女はこちらにゆっくりと振り返った。

 その顔には、私が見届けることができなかった、彼女の最期の優しい笑顔が浮かべられていた。


『ハルちゃん、どうか生きて』


 その優しい声も、大好きだった。


『幸せに、生きて下さい』


 その優しすぎる呪いのような言葉さえ、今はただひたすらに恋しく感じる。



◇-◇-◇-◇-◇


 

 瞼を開く。


 眩しすぎるくらいの光が差し込んでいた。


 少しずつ目が慣れていく。

 見覚えがあるような無いような、古びた建物の天井があった。


 私はたぶん、少し硬いベッドの上にいる。

 もしかしたら、私はまだ生きている。



 左手に暖かさを感じた。


 私の左手を大きな両手で握りしめたまま、ベッドの横にもたれかかってイビキをかいているのは、間違いなくハジメだ。


「……ハジメ?」


 自分の喉からは枯れた声が発せられた。


 すぐに頭がぴくりと動く。ゆっくりと瞼が開いて、ハジメの優しい瞳が私に向けられた。

 

 しばらく何も言わず、そのまま見つめあった。


 

 左手から感じられるハジメの体温。

 少しだけ力をこめて握ると、私よりだいぶ大きなその両手から強い力が返ってきた。


「良かった、ハジメ、生きてた……」


 しわがれた声が出る。

 私はどれだけ眠っていたんだろう。


 だけど、私はまだちゃんと生きていたらしい。



 ハジメは少し頭を上げて、ぎゅうっと目をつむった。

 私はゆっくりと身体を起こし、その傷だらけの頬に、空いていた右の手のひらを添える。


「やっと起きたかよ……」


 少し震えたその声が、私の胸に深く吸い込まれていく。

 暖かいものがお腹の奥に広がっていった。


 自分が裸になっていたことにもようやく気づいたが、恥ずかしさよりも今はただ、ハジメと二人生き延びた喜びを感じる。



「……カッコ悪いね、僕まで生き延びちゃったか」


 ハジメのために戦えるなら、命なんて惜しくないと感じていたはずなのに。


 いつの間にか生きるということは、かつて大好きだったあの子からの言葉のためではなく、ただただ自分自身の願いでしかなくなっていた。


 自分にかけられていたシーツを引っ張り、肩のあたりまで隠す。

 長く眠っていたはずなのに、不思議と身体は動いた。


「……ふざけんな。……死なれてたまるか、せっかく、せっかくまた会えたってのに」


 私がいるベッドに頭をうずめ、ハジメがうなるように言葉を紡いでくれる。

 それは男っぽい乱暴な言葉なのに、声はあまりにも優しくて。私はそのハジメの固い髪の毛をゆっくりと撫でることしかできなくなってしまった。



 無言のまま、しばらくそうしていた。


 ゆっくりとハジメは顔を上げる。

 その目尻には涙みたいなものが見えて、私まで泣き出してしまいそうになる。


「なあ」


 ハジメの傷だらけの顔が、苦しそうに歪んだ。


「ハルさん。あんたが……ハルオなんだよな?」



 どう答えればよいのか、私にはわからなかった。

 しらをきり通せるはずもないし、もうこれ以上ハジメに嘘をつきたくもないのに、素直に答えることで自分の前に広がってしまう現実が怖かった。


 ベッドの上から窓の外に目を向ける。

 柔らかな日差しが広がっていた。


「……どうかな」


 どう答えれば、ハジメは幸せになれるんだろう。

 ハジメが求めているのは、ハルという女の私なのか、それともハルオという男としての僕なのか。



 だけどそう濁して答えた私は、ハジメの強い力で両手を捕まれ、ベッドに押し倒されてしまった。


「もういい、後で聞く」


「おい、ちょっと……」


 ハジメの体重が私の身体にかかる。

 ハチに刺されていたはずの太もものあたりが少しだけ痛んだ。


 ハジメの匂いがして、もちろんそれを嫌だなんて感じはしなかった。



 少し期待してしまっていたと思う。

 ハジメがこのまま私をただの女として、ほとんど無理やりみたいに抱いてくれることを。


 だけどハジメは私を押し倒したまま、ただ痛いくらいに抱きしめ続けるだけで、それ以上は何もしてはくれなかった。


「ハジメ……?」


 そのままずっと、きつく抱きしめられ続けた。


 ハジメの腕は震えていた。

 その息遣いも、体温も、匂いも、全部、全部が今はただ愛しく感じる。


「ふざけんな、せっかくまた会えて、また会えたのに、こんな、死なれてたまるかよ、くそ、ふざけんなよ……」


 そんなハジメの汚い涙声は、たぶん10年前にもあまり聞いたことはなかった。


 だけどそれもただ愛おしく感じて、私はようやく緩めてくれた腕を彼の背中に回し、抱きしめ返してあげることだけしかできなくなった。


「……泣くなよハジメ。なんだかんだ生きてたんだしさ」


 いつの間にか、私も涙声になっていた。

 こんなに幸せなのに、ボロボロと自分の涙はこぼれていく。


 だけど自分の涙のわけなんてどうでもよくて、目の前にあるハジメの頬の涙を何度も繰り返し拭った。


「もう、泣くなってば……」


 だけどハジメの涙は止まらなくて、もちろん私の涙も止まらなくて。


 涙腺はぐちゃぐちゃになってしまって、もうどうにもならない。

 これ以上本当のことを言わずにいることは、私にはもうできそうもなかった。



 だから私は彼の頭を裸のままの自分の胸に押し付けるようにして、強く抱きしめて。

 ようやく観念してこう口にした。


 ずっと、ずっと伝えたかった真実を。


「……ただいまハジメ。ごめんな、僕はハルオだ。やっと、お前のところに帰ってこれたよ」

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