9-3 TS娘と最期の言葉
「俺なんかのために命張ってくれるやつなんて、この世界にハルオ以外いるわけねえ。そうだろ?」
仰向けに倒れたままのハジメの瞳は、しっかりとこちらに向けられていた。
胸の奥が鈍い痛みを訴えてきたが、それが身体に回りきったハチの毒のせいなのか、ハジメに自分の正体が気づかれてしまったせいなのかはわからなかった。
「ハルさん、あんたがハルオだったんだよな?」
ハチの羽音は最初よりずっと小さく感じる。
耳も聞こえにくくなってきているのだろうに、聞きたくないハジメの言葉だけはすんなりと認識できてしまっていた。
「……もう、しゃべらないで」
僕は目の前に見えた次のハチへナイフを振るう。
身体はもう言うことを聞いてくれない。
手は震えていた。ナイフの刃はハチの甲殻をかすめることさえできなかった。
「……くそっ、ハジメに近づくなぁっ!」
もうハジメの方へ顔を向けることはできなかった。
ただ闇雲にナイフを振る。
そのうち恐らくハチの胴体あたりに当たったような感覚はあったが、もう視界がぐらついて自分でもよくわからない。
「ハルオ、もういいんだ。お前は逃げてくれ……」
『ハルちゃん、どうか生きて』
ハジメの低い声に、オカヤマ時代の恋人の声の幻聴が重なった。
「……うるさい」
お迎えなら、もう少しだけ待ってくれ。
まだ戦える。戦いたい。それなのに身体が動かない。
いつの間にか地面に膝をついてしまっていた。
いつの間にか最後の武器だったナイフも手の中から消えていた。
ハチの羽音が近づいてくるのがわかったが、もうその方角さえわからない。
覚悟は決めていたのに、衝撃は来なかった。
「ハルオ……! ぐぅっ……ハルオ……」
いつの間にかハジメが立ち上がっていた。
杖のように地面に剣をついて、血だらけの体で立ち上がっていた。
僕をかばうようにして。
解毒剤は効いてきているのだろうけど、本当は動いてはいけない状況なのに。
きっと僕よりよほど、危険な状態だったはずなのに。
「……ハジメは、無理、するな。……ハジメ、は……」
動けない、なんて言い訳は消えた。
もう一度、あと少しだけ、その願いが形になったみたいに僕はまた身体を持ち上げる。
不思議と身体は軽い。足元はふらついて視界はぐるぐると回転している。
だけど、立ち上がれた。
「ハジメは……僕が、守るから」
ハジメが握りしめていた、折れた剣を奪うようにして手にとる。
霞んでよく見えないが、たぶん刃の部分に触れてしまったのだろう。手のひらに痛みがあった。
おかげでまだ、意識を保つことができる。
『ハルちゃん、生きて』
「……だから、うるさいってば。今、大事なときなんだよ」
もうどんな言葉だって、僕を縛ることはきっとできない。
生きることも死ぬことも、誰かに言われたからそうするのではなく。
全て私の意思で、僕の意思で。
ハジメから奪った折れた剣を振り回した。
重さで身体がぐらつき、視界もさらに安定しない。
きっとハチに当たってはいないだろう。
だけどそれでも、一秒でも長く戦うのだ。
『ハルちゃん』
「……もうすぐそっちに行くからさ……今は黙っててよ」
最後に幻聴でも、大好きだったあの子の声が聞けたのは嬉しかった。
だけど、もう少しだけ。
ハチの羽音がかすかに聞こえた気がした方向へ踏み込む。
硬い何かに、振り回した剣が刺さる。そのまま地面に倒れこんだ。
目の前にあるのはたぶんハチの甲殻。
左手に激痛。また刺された。
だけどもうどうだっていい。
いつの間にか手から離してしまった剣ももう必要ない。
倒れたまま目の前のハチへ、自分のボロボロの腕を何度も何度も叩きつけた。
へしゃげたような感触は、ハチの体から来ているのか、自分の腕から来ているのか。
まだ止まっていない自分の呼吸の音が大きく聞こえるのに、どうしてかハチの羽音はもう聞こえない。
あと何匹残っているのか。
足が動かない。立ち上がりたいのに、這いつくばった姿勢から起き上がれない。
もう一度、あと少しだけ。立たなければ。
だけどその願いと裏腹に、ついにふっと身体中の力が抜けた。
全身の痛みがすっかり消えて、じんとした痺れと、お腹が暖かいような感覚に包まれた。
この感覚はたぶんきっと、僕がもう死ぬということなんだろう。
いつの間にか、頬が地面に当たっていた。
霞んだ視界にはちょうど、膝立ちになったままのハジメの姿が入ってくれていた。
最期に自分の目にうつるものがハジメの姿であったことは、たぶん、きっと、幸せなことなんだろう。
「ただいま、ハジメ……ずっと、ずっと会いたかったよ」
「ハル……オ?」
自分の言葉が、もうきちんと声になって喉から出てくれているかもわからない。
たくさん伝えたいことがあるのに、もう自分の口も肺も言うことを聞かない。
「大好きだよ、愛してる」
たぶん声にはなっていないから、本当に伝えたかったことも言葉にできた。
ハジメを視界に入れたまま幸せを感じて、僕はゆっくりと目を閉じる。
「ごめんね。……さよなら、ハジメ」
ああ、そうか。
薄れていく意識の中で、ようやくオカヤマで死んだかつての恋人の気持ちがわかった。
自分が死ぬときになっても、こんなに相手のことを大切に思っていられる。
こんなに幸せなことはない。
こんなに満ち足りた気分で最期のときを迎えられるなんて。
ハジメ、大好きだよ。
お前にもう一度会えて、こんなに好きになれて、私は今、僕は今、世界で一番の幸せものだから。
だからハジメ、お前だけは。
生きて、どうか幸せに。
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