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9-2 TS娘と最期の言葉

 幼いころの記憶には、最初からハジメの姿があった。

 僕にもハジメにも親はいない。

 最初からそういうものだったし、周りにいくらかいた子供たちもみな同じだった。


 孤児院で読み聞かされた古い物語の中では、この世界はまだ今のように滅びてはいなくて、子供は親と一緒に過ごすことが当たり前に描かれていた。



 だから僕やハジメはいつか自分が大人になったら、綺麗なお嫁さんを手に入れてたくさん子供を作ってみたい、なんて馬鹿な話をしていたものだ。


 働いて家に帰れば大切な家族がいて。

 仲良く一緒に食事をとる。

 その大昔の当たり前が、僕たちにはとても羨ましく感じられたものだった。



 だけど結局この歳になっても、僕にもハジメにも家族はいない。


 私に至っては男性の象徴を失っただけでなく。

 女になってからもボロボロに犯され続けて、身体がきっと壊れているのだろう。

 事実としてどれだけそうした行為を繰り返されても、このお腹に子供を宿すことはなかった。



 だから10年前にハジメと家族みたいに暮らしていたあのころは、僕にとって本当に尊く貴重な時間だったのだと思う。

 オカヤマで恋人と暮らしていた時間もそうだ。


 家族のように、誰かと幸せに暮らす日々。


 それも全て失ってしまい、もう取り戻すことはできない。



 だからせめて。

 ハジメにだけは。


 ハジメだけは、どうか生きて、幸せに。



◇-◇-◇-◇-◇



 威嚇するみたいに鉈を振り回しながら、ハチの群れの中へ飛び込んだ。


 倒れたままのハジメ。


 だが、指先がわずかに動いたのが見えた。

 呼吸で胸元がわずかに膨らんでいた。


 まだハジメは生きている。


 安堵に気が緩みかけ、すぐにそんな状況ではないと気づいた。


 辺りは無数の羽音で耳がおかしくなりそうなほど。

 目の前に近づいてくる、自分の腕くらいの大きさはある巨大なハチの害虫たち。



 身体に残る体力を絞り出すように、全力で鉈を振るった。


 鈍く、手応え。まず一匹。


「ハジメから離れろ……汚い虫め」


 一匹目のハチの害虫は、私の鉈に胴体と頭を完全に切り離されて地面へ落ちた。


 人間の赤ん坊の頭がちょうどこのハチたちのそれと同じくらいの大きさ。

 ハチの害虫にも種類はあるが、先日からこのサセボで良く見られているタイプで間違いなさそうだ。



 急に飛び込んできた私を警戒し、周りにいた数匹のハチは一度大きく空へ距離をとってくれたようだ。


 右手でポーチを漁る。

 手持ちは安物の解毒剤が一つだけ。包装を外して無理やりハジメの口に押し込もうとした。


 同時に、倒れたまま意識のないハジメの体に見えているだけで三ヶ所、蜂の毒針が刺さった跡が確認できる。

 かなり危険な状態だ。

 


「ハジメ……これ、飲んで」


 口元に薬を押し付けると、ぴくりと唇は動いたが、飲み込もうとする動きはない。


 ハジメも二等級のワーカーだ。たぶんすでに解毒剤は飲んだあとだろう。

 だけど効きが悪くなっている可能性だってあるのだから、この安物の薬も追加で何とか飲み込ませたかった。


「くそっ……ごめん、無理やりだけど……」


 解毒剤を一度自分の口に含み、軽く噛み砕く。安物らしいひどい苦味で口の中に嫌な唾液が溜まった。


 自分の薄汚れた両の手のひらで、火傷のように爛れた跡が目立つハジメの頬を押さえる。


 唇を、近づけた。



 乱暴に犯すみたいに、ハジメの口の中へ自分の舌をねじ込むようにして、薬を強引に移した。

 その唇がふれあう感触はもしかしたら、こんなときじゃなければもっと私を幸せな気持ちにしてくれたのかもしれないけれど。


 今はそのハジメの唇の感触も気にしないふりをして立ち上がるしかない。


 

 ハチの羽音がまた近づいてくるのには気づいていた。

 ジリジリと間合いを詰めるように、五匹ほど近くを付かず離れず飛び続けている。

 

「邪魔だ……」


 太ももに仕込んでいた投げナイフを放る。宙を激しく回転しながらハチの羽に当たった。

 効いているのかはわからなかったが、同時に踏み込んで叩きつけた鉈で半分の羽をちぎり飛ばす。

 これでまともには動けないはず。二匹目。



「次!」


 毒針を向けながらまっすぐ飛び込んできたハチを、ギリギリのところで体を反らしてかわす。

 相手の数が多すぎて、視覚では攻撃してくるタイミングを読みきれない。

 ほとんど勘と運だけに頼って体を動かした。


 狙いを外して動きが止まっているハチに、思い切り爪先から蹴りを入れる。

 羽がもげ、土埃をたててハチの硬い体が地面へ落ちた。

 完全に殺す必要まではない。ハジメを襲えなくなれば充分だ。これで三匹目。

 


「次は?」


 鉈を叩きつけ、四匹目。流れるように動きは止めず五匹目。


「次……!」


 横になぎ払った鉈がハチの体の硬い部分に食い込み、衝撃で手を放してしまう。

 疲れと手の汚れで、握力がうまく使えなかったのだろう。

 主力の武器を失った。

 だが、これで六匹。



「次……さっさとかかってこい!」


 腰につけたケースからいつものように短剣を抜き出そうとして、気づく。

 短剣は昨日の戦いでへし折って捨ててしまっていたのだった。

 ケースは空。


 無様に動きが止まってしまった私の右の太ももに、後ろから凄まじい重みと激痛が走った。


 何年ぶりかに味わう、ハチの毒針の痛み。

 防具はつけていない箇所を、運悪く狙われてしまった。


「ぐっ!? ……くそ、なめるな!」


 だけど、まだ倒れないでいられる。

 痛みも苦しみも私にとっては慣れたものだ。


 まだ残っていた投げナイフを強く握りしめ、自分ごと倒れこみながら、殴りつけるようにハチの頭へ突き刺した。

 滑ったナイフの刃で、自分の指からも血が赤く溢れだす。

 

 これで七匹。



 毒が体に回りきるまでに、あと何匹やれるだろう。

 いや、何十匹だろうとやるしかない。この体が毒でドロドロに溶かされようが、ハジメを守れるのは僕しかいないのだから。


「……次、こいよ」


 落ちていた石ころを布でくるんでねじり、振り回して叩きつける。

 八匹。

 

 無言のまま、九匹。十匹。

 ボロ布は千切れ、中に入れていた石はあさっての方向へ転がっていった。



 ハチに刺された右足の激痛は無視したまま、農園の木杭を強引に引き抜き、両手で抱え肩に担ぐ。

 叩きつけるように、11匹目。


 木の杭は思ったよりもボロボロだったようで、一度振り回しただけで真ん中からへし折れてしまった。

 残骸を投げつけるが力が入らず、空中のハチまで届きもしない。



 足元に落ちていた石ころを拾う。


 また刺された。今度は背中。鎖帷子の隙間から僅かに背中へ刺さってしまったらしい。


 その痛みも無視し、むき出しの石で二度三度となぐりつける。12匹。



「次……ごほっ……」


 喉の奥からこみ上げてきたものを地面に吐き出す。

 少量だが血を吐いていた。

 ひどいめまいと体の痛み。


 もう少しはもつと思いたかったのだが。

 動きすぎて、毒が想像より早く回りすぎているようだ。


 残念ながら、自分の分の解毒剤なんてもちろん残っていない。

 今さら飲んだところで、もう無駄かもしれないが。


 最初に刺された右足からは、ひどい出血も続いている。

 まだ立っていられるのが我ながら不思議なほどだ。



「ハジメ……ごめん。だけど絶対に僕が守ってみせるから……」


 左の足首に仕込んでいたナイフを取り出す。

 最後に頼れる武器はいつもこれだ。

 かつて10年前にハジメと買った大切な短剣、その成れの果て。



 これだけは不思議でもなんでもなく、もはや自分がここで死ぬことへの恐怖は全く感じていなかった。

 ハジメのために命を投げ出せることが、幸せとすら思えている。


 体も動く。

 また少し血を吐きながら、ゆらりと揺らめくようにナイフをふるい、また一匹、また一匹と害虫を始末する。


 ハチの羽音が小さくなってきたのはたぶん、数が減っているわけではなく、自分の耳の感覚が麻痺してきているのだろう。

 あと何匹残っているのかもわからない。


 ただ、身体のコンディションに反し、ナイフ一本でも驚くほどスムーズにハチを狩り続けることができていた。


 とはいえ頭の働きは鈍くなってきている。

 狩った数を数えている余裕があるなら、ナイフを振るうことに全力を尽くしたほうがマシだった。



 また一匹、また一匹。


 脇腹に衝撃。だけど今度は鎖帷子のおかげで針は刺さらなかった。

 そのハチを左腕で抱くように捕まえ、自分ごと地面に叩きつける。


 頭の中がぐらぐら揺れて、視界が定まらない。

 毒を受けた痛みも、もうほとんど感覚が麻痺してしまってわからないほど。


 だけど自分の近くにハジメがいて、それを守って戦える喜びに、僕はふらつきながらもまた立ち上がることができた。



 たぶん、あと少しで僕は動けなくなる。

 そうしたらこの柔らかい女の体を餌にして、自分から先に食べさせてやろう。


 少しでもハジメのために。この身体も命ごと全部捧げてやる。


 だけどその前に、あと一匹。一匹でも多く。



「……やっぱり、ハルオ、なのか?」


 なんとかまた立ち上がった僕の背中から、ずっと聞きたかった低い声が、とても小さく聞こえた。


 振り返る。


 ほとんど霞んで見えなくなりつつある視界に、ハジメがゆっくりと体を起こそうとしている姿がぼんやりと映った。


 良かった、まだやっぱりハジメは生きていた。


 安堵の中、今度は多量の血を吐いて地面を赤く染める。


「……ハルオなんだろ?」


 ハジメの弱々しい声。

 その言葉が何を意味しているのか、死にかけの僕にはすぐに理解はできなかった。

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