9-1 TS娘と最期の言葉
ひたすらに走った。
長旅の影響で身体は重い。
だけどもちろん、一秒でも早くたどりつく必要がある。
目的地は、かつて私とハジメが幼いころに暮らしていた孤児院。
全力で走ればそう遠い距離ではない。
そこがとんでもない数のハチの害虫に襲われていたとの話がハロワに入ったらしく。
それを聞いてしまった馬鹿なハジメが、たった独りでその救援に向かってしまったらしい。
最近ハチが増えすぎていることには私も気づいていた。
害虫はまれに、巣作りのために人間の住む場所を狙うことがある。
きっと今回もそれだろう。
建物は巣のベースとなり、住んでいる人間はちょうどいいエサになるから。
『なんで! なんで独りで行かせたの!?』
私はそんなふうにハロワの受付嬢を責めてしまったが、もちろん彼女たちもハジメを止めようとはしたのだという。
だけど、彼を止めることはできなかった。
制止を振り切ろうと暴れるハジメは、もうほとんど正気とは思えない表情だったらしい。
単独で孤児院へ向かう前、ハジメはこう口にしていたのだという。
あの孤児院は、相棒との思い出の場所なんだ。
あいつがもうすぐ帰ってくるかも知れない。
その場所を害虫なんかに奪われるわけにはいかない。
そんな、とても正気とは思えない言葉を。
もちろんそれを聞いた私も、たぶん正気ではなかった。
『止めないでね。私に殺されたくはないでしょ?』
そう馬鹿なことを言って、背負っていた夜営の荷物や護衛の依頼者の衣服なんかが入った荷物をハロワの床に投げ捨てた。
孤児院は確かに思い出深い場所ではあるけれど、それほど重要なものだとは考えていなかった。
だけどサセボに帰ってきてずっとハジメに会えなかったとしたら、私はもしかしたらあの孤児院を訪れていたのではないだろうか。
ハジメと所縁のある場所をぼんやりとうろつく自分の姿は、決して不自然には思えない。
だからハジメがその孤児院を守ろうとすることは、少しもおかしくないことだし、その行動も想いも愛おしくさえ感じてしまう。
ハジメが僕を待っている。
僕の帰る場所を守ろうと。
それは息ができなくなるくらい幸せで、あまりにも危険な行動だ。
ここまでの旅路の護衛を依頼してくれた女性は私に向けて、柔らかい表情で手を振ってくれた。
『じゃあ、これでさよならだね。良い旅を。……私も今から、大切な人に会いにいくよ』
太ももにつけたポーチには、安物の解毒剤くらいしか入っていない。
主力にしていた短剣は折れて捨ててしまった。
服は血まみれなままで、嫌な匂いがする。
身体は疲れ果て、頭もぼんやりと霞がかかったような状態だ。
だけどもちろんその全てが、私以外の誰のせいでもない。
ハジメから逃げて、全てを先伸ばしにしようとした自分の愚かさを背負うときがきたというだけのことだ。
かつて幼かったころ私とハジメが暮らしていたその孤児院は、旧サセボアーケードの先にあるベーグンキチと呼ばれているエリアのすぐ近くにある。
幸い、道のりは険しくない。
大昔の黒く固い道がちゃんと残っているルートだ。
ただひたすらに走る。
息が続かないが、止まるわけにはいかない。
ただ、ハジメのことを想って走り続けた。
ハロワの受付嬢には、今回の私の旅の報酬全部を使って、援軍のワーカーを一人二人でいいから大至急雇ってくれとお願いはしてきた。
だけどその結果が実るのはたぶん、明日以降の話になってしまうだろう。
そもそも、自分以外の誰かにハジメの命を本気で委ねるつもりはない。
後で私の死体の回収くらいには役立ってくれれば充分だ。
もう10年以上も通っていなかったはずなのに、ちゃんと孤児院への道は記憶に残っていた。
見覚えのある廃墟。
赤っぽい色の石でできた階段。
幼いハジメと並んで、何度も何度も歩いた道。
蔦が巻いて古びた孤児院の建物がようやく視界に入ったときには、空に舞うハチの害虫の姿も嫌というほど見えていた。
数は、とても多い。
数える気にもならないほど。
尋常ではない無数の羽音がどんどん大きくなっていく。
だけどありがたいことに、死への不安も恐怖も全く感じなかった。
この先にハジメがいる。
ただそれだけで、わずかほどのためらいもなく、その害虫どもの中へ身を投じることができる。
最後の階段を駆け上がる。
疲労の限界で足は重い。だけどまだ動くならそれで充分だ。
汗が吹き出して、血に汚れたままの嫌な匂いがする外套は脱ぎ捨ててしまいたくなる。
フードだけは外して、自分の女の顔をむき出しにした。
視界が開ける。
見覚えがありすぎる孤児院の古びた赤い屋根の建物と、広い庭先、農園が目の前に広がる。
だけど懐かしさなんてどうだってよくて。
私にとって大事なのは、その農園の前で仰向けに倒れた、その人ただ一人。
「ハジメ!」
掠れた私の叫び声に反応したのは、辺りにおびただしい数で広がるハチの害虫たちだけ。
不快な羽音の連続で、自分の荒い息の音さえろくに聞こえない。
駆け寄る足は止めないまま、鉈をケースから外し左手に握りしめた。
「ハジメ!」
倒れたままの大きな身体の、指先のあたりが動いた気がした。
だけど大好きな彼の低く優しい声は聞こえない。
「ハジメ!」
代わりに聞こえるのは、害虫の羽音だけ。
いや、もう一つ。かつての恋人の声の、幻聴が聞こえた気がした。
『ハルちゃん、どうか幸せに生きて下さい』
だけどその呪いのような言葉は、もう今の私を縛り付けることはできないみたいだ。




