8-2 TS娘と旅路の護衛
「もちろん信じるよ。……きちんと話してくれてありがとう、ハルちゃん」
かつてオカヤマで一緒に暮らしていた私の恋人の女の子は、笑ってそう応えてくれた。
私は本当は男だったんだ、なんて突拍子もない話を泣きながらしている間、ずっと彼女は優しい表情のまま私の髪を撫で続けてくれた。
「じゃあハルちゃんが男の子に戻れたら、一緒にそのサセボって街に行こうね」
病気がちで身体が弱い彼女を連れて船旅なんてできっこないことは分かりきっていたから、私は彼女のその優しい提案にはっきりと頷くことはできなかった。
彼女と暮らす生活は、間違いなくそのころの私の生き甲斐になっていたと思う。
食の細い彼女が少しでも栄養をとれるように、蜂蜜やら薬やら、見つけるたびに買って帰っていた。
彼女を抱きしめて眠りにつくと、難しいことは忘れて心から安らいでいられた。
もし、本当にサセボに帰りたいかと聞かれたら、たぶんうまく答えられなかったと思う。
ハジメにもう一度会いたいという気持ちは、この女の身体にTSして以来ずっと変わらずに私の中にあった。
だけど会えなくなってからかなりの年月がたち、ハジメがまだ生きているという保証さえどこにもなかったのだ。
ましてこんな女の身体になってハジメの前に現れたところで、気持ち悪いと思われるに決まっている。
自分があのハルオだなんて、信じてもらえるとも思えなかった。
会えないことよりむしろ、会って悲しい思いをするほうが怖かった。
だから。
いつか男に戻れたら。
私はそう自分に言い訳をして、実のところずっとサセボに帰ろうとはしていなかったのだ。
「ハルちゃん……ハルちゃんは、今、幸せ?」
もちろん。
ベッドの中で裸で抱きしめあったまま彼女に問い掛けられたとき、私はそう嘘をついた。
胸の奥がずっと締め付けられているみたいに気持ちが悪かった。
彼女との暮らしの中で、私はだんだんハジメのことを思い出す時間が少なくなっていた。
ハジメもきっと、僕のことなんてもう忘れてしまっているだろう。
ずっと再会したいと思っているのは僕だけで、ハジメはきっと僕なんてもう死んでしまったと考えているに違いない。
そう言い訳をして、だけどTSの治療のためにいつかは手段が見つかるかもしれないと言いながらお金だけは貯め続けた。
万病に効くと噂に聞いた奇跡の薬。
三錠だけそれを手に入れた私は、まずそれを彼女に一錠渡して飲ませた。
あなたの身体のほうが大切だから。
そうでまかせを言うと、彼女は大粒の涙をこぼしながら私を抱きしめてくれた。
本当は怖かっただけだ。
男の身体を取り戻したとき、そこから先の自分に広がる未来と選択肢が怖かった。
だけどあと二錠あることはすぐにバレてしまい、私も飲まないわけにはいかなくなった。
その薬を飲んで翌朝目覚めたとき、体調だけはめちゃくちゃに良くなっていたけれど。
私の胸にはいつも通り柔らかな膨らみがあって、股間には男性の象徴はなかった。
正直なところ、安心したのだ。
また何も変わらないまま、いつも通りの朝が来たことに。
ハジメを探しにサセボに帰ることを、まだ先伸ばしにできることに。
もしハジメがすでにどこかで死んでいるとしたら。
そんなことはもちろん知らないままでいたい。
もしハジメが、僕のことなんか忘れて幸せに暮らしていたら。
そんなハジメには、会いたくない。
会えないままのほうがいい。
そんなわけのわからない自分の心を認めたくなくて、私は荒れに荒れてしまったのだった。
今のままのほうがきっと幸せなのだということを素直に認めるわけにはいかず。
八つ当たりみたいに、彼女にもつらく当たり続けた。
大好きだったはずの、その彼女を失うその日まで、ずっと。
『ハルちゃん、どうか幸せに生きて下さい』
彼女のように自分が命を失う直前まで、相手のことを大切に想っているのはきっと私には無理だ。
何より、自分がいない世界で相手が幸せに暮らしていることなんて、きっと私には耐えられない。
オカヤマを追放されてサセボに帰ってきたときも、ハジメを探そうとは思っていなかった。
生きていて欲しいと。
そう願う気持ちにだけは嘘はなかった。
だけど。
ハジメが僕を忘れて幸せに暮らしているよりも。
僕を探して苦しんで、ずっと僕を求め続けてくれていたほうがいい。
ハジメが僕がいつか帰ってくると信じて、ずっとソロで仕事を続けてきたと知ったとき。
泣き出しそうなくらい嬉しく感じてしまった。
僕がいなければハジメは幸せではいられないのだと、それが堪らないくらい嬉しかった。
だから彼がこのハルなんて女にうつつを抜かして、大切な相棒だったはずのハルオをないがしろにするのなら。
私はきっと幸せで。
だけどいつかきっと、そんなハジメを。
そして僕自身を、許せなくなるだろう。
◇-◇-◇-◇-◇
移動の最中、護衛の依頼者とは色んな話をした。
日はだんだん落ちてきて、私は問題ないが素人はたぶん体力的にも相当きつくなっているころだ。
疲れをごまかすための話し相手として、彼女にとっては私みたいな無愛想な女でも、いないよりはたぶんマシなんだろう。
「ヒロシマっていう地域には、世界が崩壊した原因になった技術の資料がまだ残ってるんじゃないかって。それで私を置いて旅に出ちゃったんです」
ちょうど今は、彼女の恋人の話をしているところだ。
なんでもその人は、世界に昔もっとたくさんの人間が暮らしていたころの文明が滅びた理由を研究しているのだという。
相当な変わり者らしい。
変な病気の流行だとか、人間同士の争いだとか、空から星が落ちてきただとか。
世界が滅びた理由は意外とたくさん資料が存在しているらしいのだが、私が思うにはその全てに信憑性がない。
なにせ、世界が自分の前で滅びていったようなときに、それを記録して資料に残そうだなんて余裕のあるやつがいたとは思えないからだ。
だけど私も、そういうロマンのある話を昔はよくハジメとしていたような記憶がある。
しかも思い返してみれば、そういう昔の文明なんかに元々興味を強く持っていたのは、たぶんハジメではなく私の方だった。
TSして以来は自分が生きていくだけで手一杯みたいな状況で、色んなことへの興味だとか感心だとかがめっぽう薄れてしまったように思う。
ハジメに関することを除いては。
「へえ、それで恋人さんを追いかけて一人旅ってわけか。なかなか度胸あるね」
「ふふ。やっぱりどうしても彼のそばにいたくて。連絡がとれないと不安ですしね」
線路という名前の昔の文明で作られた長い道は平坦ではあるが、石やら金属やらが埋まっていて必ずしも歩きやすいわけではない。
ふらついた彼女がつまづかないように、私は彼女の荷物をさらにもう一つ抱えてやりながらそんな話をしていた。
恋人を追いかけるために旅をするのだという彼女の話は、今の私にはなかなか刺さる。
相手のことが大事だとか、一緒にいたいだとか。
そういう部分は私だって全く負けてはいないはず。
だけど私は10年もサセボに帰ってこず。
そして今も、何も行動に起こせずハジメの前から逃げ続けている。
その一方で、彼女はこうして大変な旅を始めたわけだ。
不安に感じることだらけだろうに。
自分が大変なだけでなく、相手はもう死んでしまっているかも知れないとか。他に女を作っているかもしれないだとか。
「怖くないの? ほら、いろいろとさ」
私が濁すようにそう聞いてみると、彼女は少し笑って、そしてゆっくりと目を伏せた。
「……後悔は、したくないですから」
その彼女の絞り出したような言葉に、私は自分が咎められているような気持ちになってしまった。
もしこうしている間にまたハジメと会えなくなってしまったら。
きっと私は後悔する。
それこそ、もう自分でこの命を断ってしまう自分の姿がありありと脳裏に思い描けるくらいには。
ハジメのそばにいたい。
だけどそう思う気持ちと同じくらい、ハジメがかつてのハルオよりも今のハルを大事にする姿を、僕はどうしても見たくないのだった。
私のブーツを掠めた小石が、道から逸れて急な坂を転がり落ちていく。
日はどんどん落ちてきているようだ。
風は冷たくなり、夜が近づく気配が深まってきている。
「今日はここで夜営にするってさ。……お疲れ様、よく頑張って歩いたね」
「ハルさんも。今日はお疲れ様でした」
日が完全には落ちきる前に私たちは一旦道を少し外れ、まだまともに形が残っている廃墟が多いあたりで夜営の段取りを始めた。
夜の深い暗闇に覆われてしまえば、もう私たち人間はほとんど何もできなくなってしまう。
夜は害虫どもも見かける種類がいくらか変わるが、危険なことには変わりない。
太陽の明かりが残っているうちに私は小さな天幕を張り、付近から枯れた木の枝をかき集め、火起こしまでなんとかギリギリ済ませることができた。
こんな暗くなるギリギリまで準備を始めなかった荷運びのワーカーたちの行動の遅さは、あまりにも怪しく感じている。
自分たちは夜営の心得もある三人チームだから、そりゃあ準備も間に合うだろうが。
まるで、私たちの夜営の準備が間に合わないほうが都合がいいみたいだった。
仮にそれであいつらに頼ったり、向こうの天幕にご一緒させていただくとしたならば。
当然のごとく私たちの身体はあいつらの性欲の餌食になっていたはず。
勝手な想像だとはいえ、嫌な奴らだ。
夕飯は貧相だが、焚き火で温めたお湯と固いパン。それにいくらかのドライフルーツを添えた。
離れた場所に自分たちの天幕を張った荷運びのワーカーたちは一度こちらにやってきて、自分たちの食事も分けてくれると申し出てくれたのだが。
もちろんそんな怪しすぎるものは、冷たくお断りさせてもらっている。
「さっきの、どうして断ったんですか?」
私の横で焚き火にあたりながら黙り続けていた依頼者の女性は、そのワーカーが離れていったところでようやく口を開いた。
本気であいつらが作ったものを食べたかったのだとすれば、とんだ間抜けか異常な食いしん坊だろう。
「何かヤバいもの入れられてたらどうするの。……そうじゃなくても、食べもの分けてやったんだから、なんて言い寄ってこられたらどうするのさ」
正直なところ、暗い中でわざわざこちらに近づいてきた時点で、念のためそいつは殺してしまおうかとは思ったのだ。
だけどさすがに証拠もなく、ハロワがこのワーカーたちを不審に思っているというだけでは行動に移れなかった。
暗闇の中では、残り二人のワーカーに確実に勝てる自信がなかったというのも正直なところだが。
「ですけど、あの人たちもワーカーさんなんですよね? さすがにそんなことまで……」
彼女はそう言うが、何も分かっちゃいない。
残念だけれど、ハロワのワーカーなんて半分くらいはゴロツキ崩れの犯罪者予備軍だ。
何よりあの荷運びの四等級ワーカーたちに対しては、残念ながら少しも信用するわけにはいかない。
そのようにハロワからも依頼されている。
そして私も、やはり彼らからは嫌な雰囲気をひしひしと感じ続けているのだから。
私はそれ以上彼女の言葉には答えず、薄汚いいつもの深緑色の外套にくるまって、離れていったそのワーカーの男たちのほうをじっと見つめ続けた。
「……今日はもうゆっくり休んで。私が起きてるから、あなたは安心して眠りなさい」
キツいところだが、私はまだ眠るわけにはいかない。
最低でもこの護衛対象の彼女を守る必要もあるし、あのワーカーたちが寝静まったあとは少し調べが必要なこともあった。
昼も夜も害虫たちはいつも無数にそこらじゅうにいて、気を抜いたやつか、運の悪いやつから順に食い殺される。
風が吹いて草木が揺れる音にまぎれて、いつだって死は私たち人間のすぐ近くにいる。
依頼者の女性を小さな天幕に押し込んでから、私は深くため息をついた。
天幕の外はもうすっかり冷たい夜の空気が広がっている。
焚き火の炎はほとんど消えて、もうまともな明かりにはならない。
ステーションに帰って、それからハジメのことをどうすべきなのかはまだ決めかねている。
なのに。
私は暗い夜の闇に目を慣らしながら、こんなとき自分のそばにハジメがいてくれたら、なんて矛盾した甘い考えを抱いてしまっているのだった。




