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1-2 TS娘と恋人の遺言

「ねえハルちゃん、もうやめよう? ……こほっ、こほっ……ねえ、おうちに帰ろうよ」


 オカヤマにいたころ。


 私の担当受付嬢だった人が育ててきた娘さんは、生まれつき体が弱いらしかった。

 顔もそれほど美人というわけでもなかったし、少し体は細すぎて。彼女の外見的な部分は最初、あまり好みではないと思っていた。


 少なくとも、あの頃の私が彼女の優しさみたいなものにすっかり恋をしてしまうまでは。



「うるさい……もう私のことなんか放っておいてよ!」


 私のTSは、もう治療の見込みもない。

 男だったころの自分の体に戻る手段はもうどこにもない。

 その現実に直面して以来、一緒に暮らしはじめて数ヶ月もたつ大好きだった彼女に対してすら私は、ひどく冷たく八つ当たりをしてしまっていた。



 私はずっと、男に戻りたかった。


 男性に対して性的興奮を覚えるようになってしまった自分の身体も精神も、嫌いで嫌いでしかたがなかった。


 肉体の性別を度外視して愛しあうようになった彼女に対しても、私本来の男の体であったなら、子どもを作りごく普通の未来を与えてあげることができるのだと。


 生まれ故郷でまだ生きているかもしれない幼なじみにも、こんな穢れた情けない女の姿のままでは会いにいけるはずもない。


 またいつかあいつと並んで生きられる日が来ると、10年近くもそう祈るように信じ続けていたのに。



 だけど、自分がずっと探し続けてきたそのTSの治療法に何の効果もなかったことがはっきりしてしまい、そのころの私はすっかり自暴自棄になってしまっていたのだ。


 毎日働きもせず、昼間から安い酒に溺れて。

 だけどそんな私なのに、あの優しかった彼女はずっとそばにいてくれていたのに。


「私はハルちゃんが女の子のままだって構わないんだよ? けほっ、けほっ……このままでも私はこんなに幸せなのに……こほっ」


「このまま……このままなんて、いいわけないでしょ!? いいから先に帰ってよ!」


 そのころの咳が続いていた彼女のかすれた声が、今でも耳に残り続けている。

 


 大好きだったはずの彼女が死んだのは、それからしばらくしてからのことだった。


 私は彼女の体調になんて見向きもしないまま、お酒に溺れ、同業者とは喧嘩を繰り返し、あげくのはてには他の女性ともだらしなく関係をもったりしてしまっていた。


 今のこの世界では、若くして命を落とすことは何も珍しい話じゃない。

 私が何をしたからといって、彼女を助けられたとも思えない。


 だけど最期のときくらいは、せめて横にいて穏やかな時間を与えてあげるべきだった。


 たとえ別れが避けられないとしても。

 彼女の人生が、幸せな終わり方を迎えることなんてないと分かっているとしても。


 せめて私自身のために。

 せめて彼女の笑った顔が、私の記憶に残ってくれるように。

 


「ハルさん。あの子の遺書は、読んでくれましたか?」


 あの子の遺体を見つけたのは、私ではなく彼女の母親だった。

 火葬の際、茫然自失していたのは私だけで、彼女の母親はてきぱきとその彼女の亡骸を処理していった。


 彼女はその死に際し、きちんと遺書を残してくれていたようだった。

 だけど私は押さえきれない後悔の涙で、それを途切れ途切れにしか読むことができなくて。


 本当ならその遺言は、私が直接、言葉で聞いてあげられたはずだった。


 自分のTSが治らないからといって、どうして私は彼女を粗末にしてしまったのだろう。

 愛しあえる誰かがそばにいてくれるのなら、自分の姿や形なんてどうだっていいのだと、そんな当たり前のことに気が付くのが遅すぎた。


 遺言に書かれていた彼女の最期の言葉は、たぶん永遠に私を縛り続けるだろう。


〈ハルちゃん、どうか幸せに生きて下さい〉


 そう優しく、生きることを願われてしまったから、私は死を選ぶこともできなくなってしまった。


 せめて私だけは。

 せめて、生きて。生きなければならない。幸せになんてなれないとしても、ただ生きなければ。



 それからのことは、ほとんど何も覚えていない。

 あんなに憎んでいたはずの禁止薬物にのめりこみ、ほとんど毎日、あの子と一緒に使っていたベッドの上でひたすら無気力に過ごした。


 薬の力ですら、あの子の笑顔の幻さえ見ることはできなかった。

 でもそれが効いている間だけは、頭も体も溶けていくようで苦しいことを忘れていられるから、それだけでも私には充分だった。



「ハルさん、ごめんなさい。もうあなたは、ここにいるべきではありません。……この街を追放します」


 彼女の母親がそんな私を追放し、無理やりに居場所を奪ったことは、きっと私への最後の優しさみたいなものだったのだろう。


 薬の快楽でこの現実を生きることから逃げ続けるなんて、私のような愚か者には許されるはずがないのだから。



◇-◇-◇-◇-◇



「今のハルさんに提供できるお仕事は、この2つだけです」


 このサセボステーションのハロワでも、受付嬢は誰に対してもきちんとした敬語で話してくれる。

 私みたいな札付きのワーカーなんて、もっと粗末に扱っても構わないだろうに。


 その受付嬢から見せられた仕事の内容は、アリの駆除、ハチの駆除の二種類だけ。

 害虫駆除はたいていのステーションで常に募集されている。報酬は安くて命の危険ばかりがつきまとう、いわゆる底辺ワーカー用のお仕事というやつだ。


 人間の子供と同じくらい巨大なアリの酸が目に入り、失明したなんて話は聞き飽きたほど。

 人の頭より大きなハチの毒を体に受ければ、内臓が溶けて苦しみながら死んでいく。



 だけどそんな仕事しか与えてもらえないことくらい、はじめから予想はできていた。

 信頼のできない私のようなワーカーに対して、まともな仕事があるはずもない。


 どのみち害虫と戦う道具はいつも用意してあるし、いつだって覚悟は決めている。


「アリの駆除を受けるよ。注意事項は?」


「……特には。二等級のあなたなら、容易な仕事では?」


 受付嬢は冷たい声のまま簡単に言うが、二等級だろうと新人の五等級だろうと、人間の身体能力には違いなんてあるはずもない。

 人間並みに巨大な害虫と戦うことに、容易なんてことは常にありえないのだ。


 だけど私にはそれを言う権利なんてあるわけがない。

 仮にそれで私が死んだとしても、彼女にとっては面倒ごとが減って好都合だろう。


 私が生きなければならないということは、あくまで私自身の勝手な都合なのだから。

 


 その仕事の登録を済ませ深緑色の薄汚れた外套をまといなおしたとき、他の背の高いワーカーがちょうど入れ違いにハロワの窓口へやってきた。


 その男からは何か少し、懐かしいような不思議な匂いがして。

 私はどうしてかそれに意識が引き付けられ、すぐにその場を離れることができなかった。


「よう! なんかいい仕事入ってるかな?」


 明るい声の大柄な男性は、たぶん私と同じくらいの年齢だろうか。

 どこか聞き覚えがあるようなその声は不思議と好感が持ててしまって、それがかえって私の胸を苦しくさせる。


 声や匂いで私を惹き付ける男性は危険だ。

 自分のこの女としての身体がどうしようもなく男を求めていることを、本能的にわからされてしまうから。



 だけど私はそのワーカーの顔をちらりと見てしまい、一瞬息を飲んですぐに目を反らした。


 その男性ワーカーの顔には、ひどい火傷のような跡が大きく残っていたから。


 たぶん彼も元々は、それなりに整った顔立ちだったのかもしれない。

 精悍な顔つきではあったのかもしれないが、痣のように大きく広がった古い傷が邪魔をして、ほとんど元の顔立ちはわからないくらいだ。


 だけどそういう傷痕には、下手に反応するほうが失礼なことだ。

 いつも危険が伴うワーカーの仕事には、こうした悲惨な傷を受けることくらいよくある話なのだから。


「お疲れ様です! 良かった、お待ちしていたんですよ。できればこの、農場からの依頼を見て頂けないでしょうか」


 その男は、たぶんこのサセボステーションではそれなりに名の通ったやつなのだろう。

 携帯している道具も明らかに質が良さそうだし。

 何より受付嬢の反応からだけでも、彼が優秀なワーカーで周りから信頼を受けていることは間違いないとわかる。



「あんた見ない顔だな。……なかなか腕は良さそうだが、これから害虫の駆除か?」


 思わずもたもたとしてしまっていた私に、その男は軽く声をかけてきた。

 ほどほどに低くて、でも明るさを感じるそいつの声色がやけに好感が持ててしまって、それがやっぱり気に入らない。


「そうだよ。……サセボには来たばっかりの新入りなんだ。あまり馬鹿にしないでもらえるかな」


 彼も、私がアリの駆除なんて引き受けている底辺だからといって、別にからかうような気持ちで言ったわけではなかっただろう。


 口にしてから、すぐに申し訳なくは思った。


 でもこういうやつとは、あまり関わらないほうがいいと経験でわかっている。

 だから別に、これでいいんだ。


 男に戻りたい、なんて言いながら、私の女の身体の欲求は急に抑えが効かなくなってしまうこともある。

 自分を保つためには、そもそも男とは関わらないのが一番なのだから。



「いや、そんなつもりじゃ……おい、あんた!」


「あまり、あの方には構わないほうがよろしいかと」


 焦ったような男の声に、受付嬢の少し冷たくなった声が重なる。


 言われるまでもなく私だって、そこらの優秀なワーカー様のお邪魔になるつもりなんてない。


 分厚い革製の防具を頭に付け、その上から外套のフードをまた被りなおす。

 眼を防護するためのゴーグルをはめながら、私は早歩きでステーションを離れた。

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