1-1 TS娘と恋人の遺言
鍵すら閉め忘れていた木造りのドアが開かれたとき、頭が呆けたままの私は何の警戒もできておらず、そのまま頬を強く叩かれた。
私の荒れ果てた部屋の中には、かつての恋人と使っていた古びたベッドだけが唯一綺麗なまま残っていた。
床にはたくさんのゴミと、私が使って放り投げたままの注射器や薬物の包み紙などが散らばっている。
『ハルさん、ごめんなさい。もうあなたは、ここにいるべきではありません。……この街を追放します』
その、大好きだったあの人の母親の言葉が、今でもずっと頭の中をリピートしている。
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
TS長編
滅びた世界のTSメス堕ちローファンタジー
は じ ま り
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
私がオカヤマの街を追い出されてから、もう一週間以上が過ぎていた。
船に揺られて生まれ故郷に戻ってきたが、船室の窓からその懐かしい風景を見てもまるで気持ちが晴れはしない。
船の上で何日も受け続けた潮風と強い日差しのせいで、なんだかんだ綺麗にしていたはずの黒髪はもうバサバサだ。
せめて男性のようにもっと短く切り揃えておくべきだったか。
どのみち、長めに肩まで伸ばした髪を気に入ってくれていたかつての恋人は、もうどこにもいないのだから。
サセボの港に着いてゆっくりと揺れる船内は、すぐに騒がしくなってきた。
船室で立ち上がった私は重く感じる身体を動かして、人の血や虫の体液なんかで薄汚れた深緑色の外套を身につける。
習慣でフードを深く被り、自分のこの辛気臭い表情が目立たないように隠した。
外套の上からは、今の自分の所有物全てを詰め込んだバックパックを背負う。
それは女の身体で背負うには少し重すぎるが、なさけなくよろめかないくらいには足腰も鍛えてきた。
外套の内側で、腰に差した仕事道具の短剣がいつでも抜けるように、微妙に位置を調整する。
故郷へ向かう貨物船に同乗する費用を捻出できたまでは良かったが、もう手持ちのお金は尽きかけていた。
潔く死ぬつもりがないのなら、またすぐに働いて稼がなければならない。
暑い季節ももう終わりが近いが、今日の日差しはうんざりするほど強く、船のデッキに上がった私の体にはすぐに汗が滲みはじめた。
故郷の潮風の匂いはきっとどこの海でもそう違いはないはずなのに、どこか懐かしい気持ちになる。
帰ってきた。帰ってきてしまった。
陸に降りても、まだ身体が波に揺られているような感覚があった。
緩い潮風の中、港では私の乗ってきた船からたくさんの積荷が下ろされている。
かつて軍事用の船が多く停められていたというこの街の港は、地方の割には相当に活気があり、暮らす人々の力強い営みが感じられた。
もう10年ほども前の記憶だが、それでもちゃんとこの辺りの風景には見覚えがある。
海鳥が鳴く声がして、磯の香りがして。
仲の良かった幼なじみと一緒によく釣りを楽しんだ堤防も、変わらない姿で遠くに見える。
あいつはまだ、どこかで生きていてくれているだろうか。
男だったころの私よりもだいぶ背は高くて、だけど気が弱くて、でもいつも明るくて、私にとっては世界中の誰よりも頼りになる相棒だった。
きっともう会うことはできないにせよ。あいつが幸せに生きていることを、私は遠い地からずっと祈り続けてきたから。
目の前の急な色彩の変化に少しめまいがして、大昔の人間が建てたらしい何かの施設の壁にもたれかかった。
このあたりは人の生活の気配も多く、建物も道もあまり植物に覆われていない。こういう場所なら危険な害虫にも怯えなくて大丈夫だ。
船の周りでは男たちが大勢集まり、大きな荷物を移動させているのが見える。
建物の正面、いつからか割れたままになっているガラスの残骸に、自分の細すぎる腕が映っていた。
反射した化粧もしていない私の顔は、もう24歳にもなる年齢にそぐわず、どこか幼くも見えてしまう。
自分が男の身体だったころから唯一変わらないのは、左目の下の泣きぼくろくらいなものだ。
なまじ美しく整った顔は、一度だって私の人生で役に立ったことはない。
こんな小綺麗な顔にならなければ、もっと早くに人間としての尊厳を守ったまま死ぬこともできたはずだった。
胸は決して大きくはないが、細い腰も狭い肩幅も、どうしようもなくか弱い女性のものだ。
ガラスに映りこんだ暗い自分自身の表情に、胃のあたりが締め付けられるように痛む。
私が男に戻れることは、もうないのだとしても。
こんなに弱くて穢れた女の姿のまま、この故郷に帰ってくることはしたくなかったのに。
船酔いのような軽いめまいはまだ続いているけれど、いつまでもこうしてはいられない。
ゆっくりと物思いにふけることは、明日の生活に不安のない者にしか与えられない権利だ。
私は一度ため息をついて重い荷物を背負い直し、ステーションの見える方向へ歩き出した。
この私の故郷、サセボの港からステーションまでは、わずか数百メートル程度しか離れていない。
10年前から変わらず、サセボステーションの建物は旧時代の姿がそのまま見事に残っていて、過去の人類の技術力の高さが伺えた。
私たちワーカーが集う各地のステーションと呼ばれる施設は、かつて電車という巨大な乗り物の集合地点として栄えていた場所らしい。
日本の各地にこのステーションという施設が点在していたようだが、そのうち一部の規模の大きく状態もいい建物が今も人々の営みの拠点として利用されているのだ。
「ようこそ、サセボステーションへ。初めての方……ですよね? ご用件は?」
ステーションにはいくつかの役割があるが、私にとって重要な施設はこのハローワーク、通称ハロワだけだ。
私のようなワーカーは、各地のステーションに配置されたハロワから仕事の依頼を受けて日々の生きる糧を稼いでいる。
愛想のいい受付の女性は、私より少しばかり年上のように見えた。
胸も私と比べてなかなか大きく、ぜひお近づきになりたいくらいの魅力を感じたが、今の私にはそんなふざけたことを口に出す心の余裕もない。
私はそのかわいらしい受付嬢に、大切にしまっていた自分のワーカー登録証を渡し、木製のスツールに腰を下ろした。
周囲に人が少ないことを確認し、背負っていた重い荷物を下ろしてから、外套のフードを脱いで自分の女の顔をあらわにする。
「オカヤマステーションから来た、ハルといいます。ソロの二等級ワーカーです。今後このあたりで働きたいので、ハロワ登録をお願いします」
二等級という言葉に、受付嬢は明らかに驚いた顔で私の登録証に目を通しはじめた。
女の姿で二等級にまで至っているというのは、どこに行っても珍しがられる。
10年前も確かこのサセボステーション所属の二等級は1人か2人しかいなかったはずだし、一等級のワーカー様に至ってはこんな地方にいるわけもない。
「確かに二等級のようですね……。こんなお綺麗な女性の二等級ワーカーは、はじめてお会いしました」
受付嬢は私にそうお世辞を言いながら、登録証の内容をてきぱきと手元の紙に控えていってくれている。
お綺麗だなんて思うならぜひ一晩お願いしたいね、なんて軽口も悪い癖でまた頭に浮かんでしまったが。
今後はもうそういうことは控えて、真面目に自分の過去の罪を精算していくべきなんだろう。
それに、こんな女としての見た目を誉められたって、別に嬉しいとは感じない。
自分が本来の男の姿、10年近く前この街にいたころ、つまりTSする前の私の姿で誉められたのなら、もっと素直に喜べたのかもしれないけれど。
「それとオカヤマステーションから、こちらの小包を預かっています」
荷物の一番上にまとめておいた小包を取り出し、受付嬢に渡した。
この受付嬢のにこやかな表情はとてもかわいらしいが、その笑顔をこちらに向けてもらえるのも、まだ彼女が私のことをよく知らないからだろう。
小包の中には古巣のオカヤマステーションからの、私の素行なんかに関する注意が書かれた手紙が同封されていると聞いている。
それを読めばきっと彼女は私を、やっかい者として正しく認識するはずだ。
「ありがとうございます。……中身を確認しますので、こちらでしばらくお待ち下さい」
彼女がその荷物をハロワの奥に運んでいったので、私は処刑台に立たされたような気分のまま、施設のひび割れた天井をぼんやりと見つめ続けた。
「お待たせしました。……ハルさん、念のため確認ですが。このサセボステーションにいらっしゃった理由は?」
明らかに、戻ってきた受付嬢の表情は先ほどと変わっていた。
もうそこに笑顔はなく、私を警戒するような冷たい視線が向けられている。
「私はこの辺りの生まれなんです。……んんっ。ごめんなさい、敬語は辞めて構わないよね? 慣れてないんだ」
どのみちここで彼女に媚を売ったところで、今後の私の扱いが良くなるはずもない。
乾いた喉を潤すものを渡してもらえることもなく、私は咳払いをしてそれをごまかした。
「昔はこのステーションで、新人の五等級ワーカーとして登録してたんだよ。……まあ、とっくに死んだことにされてるだろうけど」
「答えになっていませんね」
受付嬢は自分の手元のボードに視線を落としたまま、鉛筆でカツカツと音を立ててデスクを叩く。
そんなに冷たくしなくたって、ちゃんと自分の状況はよくわかっているつもりなのに。
「……素行不良で、オカヤマのハロワを追い出されたんだ。それでなんとなく、生まれ故郷にふらっと戻ってきたってだけ」
「オカヤマからの小包に、あなたについての手紙も入っていました。……同僚との暴力沙汰、同性への性的暴行、禁止薬物の使用。……間違いは、ありませんか?」
彼女が言うその一つ一つに、間違いなく思い当たることはある。
なんならその他にも、仕事とはいえ殺人やらなにやら、犯してきた罪の数なら盛りだくさんだ。
大昔に人間が法律とかいうルールの中で生きていたころなら、私のようなやつが追放程度で済まされることはなかったに違いない。
「……うん、間違いないよ」
諦めたような私の答えに、受付嬢はため息をつく。
伏し目がちにされた彼女の目を見ても、もうその視線が交わることはなかった。
「そうですか。……なぜそんな人を、オカヤマの担当者はこんなに……」
受付嬢が腕を組んだことで、その大きめな胸の膨らみが強調される。
非常に良い目の保養だが、もちろん今の雰囲気ではどうこうできるはずもない。
だけど私の本能的ないやらしい視線にすぐに気付いたのか、彼女は嫌悪感をあらわにした顔でバンと音を立ててデスクを叩き席を立った。
「とりあえず、当面の住居を手配します。あなたはしばらくそのまま待っていなさい。いいですね?」
厄介者に対してとはいえ、ワーカーへの住居の手配はハロワの重要な業務の一つ。
すでに彼女の私への話し方は罪人へ向けるそれのように変わっているが、やることはやってもらえるというのなら、私なんかにはそれで充分すぎるほどの扱いだろう。