死亡事故
「ん」
目を覚ました。
男が目を覚ました。
「ここは、風呂?」
男が立っていたのは、二畳にも満たない程度の浴室だった。
だが男はこの場所に心当たりがないようだった。
ここはどこの浴室なのか、何故こんなところにいるのか、まるで記憶がなくなっているかのような振る舞いだ。
「私は誰だ?」
男は紛うことなき記憶喪失だった。
自分が一体何者なのか分からない不思議な感覚を味わっていた。
男はこの状況を理解しようと探索を始めた。
自分が何者なのか思い出すために。
中か、外か、男には探索する場所を選ぶ権利がある。
だがない。
浴槽の蓋が突如ガタンと音を立てる。
こうなると調べずにはいられない。
男は恐る恐る蓋を動かす。
「うあ、あ」
男は顔を青ざめ、蓋を動かしたことへの後悔を募らせる。
浴槽のなかにあったものは、人間の、男の死体だった。
動揺、しかし動転はしてない。
あくまで冷静にこの死体について思案しようとする。
ここから飛び出して目を背けたとしても意味がないのだからそれが正しい。
謎は深まったが、解決には一歩近づいたのだから。
大きく深呼吸をして、死体を調べ始める。
坊主頭のガタイのいい男、年齢は三十歳くらいだろう。
肝心の死因は、浴槽の角に後頭部を強打したことのように見える。
男の死体は、縦ではなくわざわざ横に身体が折りたたまれて入っていた。
何かの拍子に足を滑らせ、浴槽の角に頭を打ちそのまま中に滑り落ちた。
そう男は推理しただろう。
男から見れば、これは紛れもない事故現場だった。
だから早々に死体の調査をやめ、浴室を調べ始めた。
顎に手を当てて、探偵気分を味わいながら、改めて浴室を見渡している。
しかし浴室には大したものは無い。
床にはしかれたマット以外のものはなく。
シャンプーやくしなどは全て目線程の高さの棚の上に置いてある
あとあるものといえば閉まっている窓、冷房のかかったエアコン、血の付着したドア、そして。
「これはなんだ?」
久しぶりに声を発した男が興味深そうに見ていたのは、
「この板は浴室の中を投影しているのか、面白い。だが何故自分の姿は映らんのだろう、随分不思議なインテリアだな」
鏡だ。
まさか頭を強打した影響で鏡という物体の記憶までが飛んでいるとは、面白いな。
しかし思い出してもらわないことには始まらない。
私は取っ手に力を込める。
するとシャワーヘッドから水が放出され、男が避ける隙もなく全身に浴びる。
「うわ!なになになに?」
男は慌てて取っ手に手を伸ばす。
当然手が取っ手に触れることはなかったが、シャワーは止まった。
すぐに男は身体を確認した。
勿論一滴たりとも濡れていない。
「え?は?」
混乱しているようだ。
だがダメ押しにシャンプーの容器を動かし男の身体に当てる。
容器は男の身体をすり抜け、床に落ちる。
男は押し黙る。
ゆっくりとしゃがみ、おもむろに容器に手を伸ばし掴もうとする、ができない。
男は急いで自らと死体の衣服を確認し、同一のものであると理解した。
何で分からなかったのか甚だ疑問だが、ここでやっと男は目の前の死体が自分のものであると理解した。
「まじかよ、俺かよ」
頭を抱えている。
命を落とした。
そして記憶が無いのだ、ショックになるのは当然といえる。
男は再度死体を調べ始めた。
他人ではなく自分の死因となってもっと丁寧に調べたくなったのだろう。
だが何もないまま時間が過ぎ、ある時男は新しいものを発見した。
それは音もなく視界に入ってきた蚊だった。
「……蚊?」
直後、男の身体が電撃が走ったように震える。
「こいつか?こいつだな?」
大変怨霊らしい歪んだ表情で目で追った蚊を思い切り叩いた。
蚊は手をすり抜け悠々と飛んでいる。
男は恐らく、蚊を叩こうとして滑って転んだと思ったのだろう。
なるほどこの一切証拠がない場所で悪者にするのにちょうどいい存在ではある。
しかしどの道触れない、叩けない、当たったところでどうしようもない。
不愉快なやつだ。
すると男は突然シャンプーの容器を動かし始めた。
怨霊の霊力を使ったポルターガイストか、なるほど。
いくつも容器を放り投げ、時にくしで攻撃していた。
しかし蚊にはそれらが全て当たらない。
男はまさに怨霊といった恐ろしい風貌で攻撃を続ける。
蚊は当たるわけないと飛び続けている。
飛び続けて数分が過ぎ、蚊が少し下の方を飛んだ瞬間、男はシャワーを浴びせた。
攻撃しているように見せてシャワーのかかる場所に誘導していたのだ。
男は蚊を凝視していた。
ちゃんと当たって撃ち落とされる蚊の姿を目に焼き付けるために。
男の目に映ったのはシャワーに当たっても変わらず飛び続ける蚊の姿だった。。
さっき自らが体験していなければ、間違いなく当たっていないと考えただろう。
「お前も、死んでいるのか?」
蚊は一度たりとも避けなかった。
避けなくても容器は身体をすり抜けた。
「つまり俺はお前を叩きながら滑ったってことだな!なんだそうならそうと言ってくれればいいのに!」
男がにっこりと笑う。
こいつの短絡的思考回路には本当に頭を悩まされる。
なけなしの霊力でサポートしていたのが馬鹿馬鹿しい。
「死因もはっきりしたことだし、外にでるとするわ」
男は怨霊とは思えない笑顔で気さくに話しかけてくる。
記憶がなくなっただけではなく、元々こいつは馬鹿に違いない。
今の季節は冬だ。
男がドアから出ようとした時に聞こえてくる。
こちらに向かう足音だ。
血の付着したすりガラスのドアに疑問もなく近づいてくる足音が。
男の記憶がなくなってさえいなければもっと簡単な話だったのだ。
半年前に叩き殺されてからずっと、霊力を枯らしてからずっとチャンスを伺っていた。
ドアが開かれる。
「え、なにこれ。なんで蓋空いてるの?」
「シャワーも勝手に動いたのかしら」
お前の娘と妻だ。
男は浴槽の中の死体を見ても何一つ顔色を変えない二人の顔をじっと見つめながら突っ立っている。
ほら思い出せ、妻の顔の痣はお前が殴った痕だろう。
娘が抑えている腕はお前が乱暴している時に痛めたものだろう。
お前が私に向けてきたような憎悪の視線を、お前に向けている二人の顔を見て何も思い出さんのか?
思い出さなくても、馬鹿なお前でも分かるだろう。
おそらく私の声は聞こえていない。
それでも男は理解し、肩を震わせ、憎しみを募らせる。
本当に簡単な話だったのだ。
蓋は最初からしまっていたはずだ。
二人が浴室に入った瞬間、ドアは固く閉じられ、くしが、容器が、室内にあるあらゆる物が、二人の身体に打ち付けられた。
ああ、やっと成仏できる。
『続いてのニュースです。先日○○市の一軒家の浴室で三名の遺体が発見されました。
これは家の住民である○○さん、○○さん、○○さんの三名で、女性二人が男性を撲殺し、浴室に運んだ後、二人が何らかの拍子に滑り、頭を強打し死亡したとして見られています。しかし二人の身体には殴られた痕らしきものも確認されており、警察は怨恨の線を見て、調査を進めています』
pixivの執筆応援プロジェクトに参加させて頂いた小説をこちらでも投稿しました。
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