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薙刀の竹子と私と先生

作者: 花 美咲

今日、中学校時代の恩師、社会科教師・時田守男先生が亡くなったとLINEが届いた。

中学校時代は、教師全員がサジを投げるほどの不良少女だった私だが、担任でもない、社会科教師・時田守男先生だけは、私と真っ向から向き合ってくれた。

女性として普通の幸福を手に入れられたのは、中学校時代、中野竹子の像の前で、中野竹子の事を語ってくれた社会科教師・時田守男先生のおかげであると思っている私は、自分の娘と散歩がてら、恩師・時田守男先生との思い出の地、中野竹子の像まで散歩をし、その当時の事を思い出すのであった。

今日・・・

中学校の時の恩人、社会科教師の時田守男ときたもりお先生が亡くなったとLINEが届いた。


会津若松・・・


この場所で生まれ、この場所で育ち、この場所で愛する人と出会い、結婚をして子供を産み、女性として、普通の幸福しあわせを手に入れた私・・・


中学校時代は、教師全員がサジを投げ出すほどの不良少女だった。だけど、担任でもない社会科教師の時田先生だけは、私と真っ向から向き合ってくれた。

普通の幸福を手に入れられたのも、この社会科教師の時田先生の教育があったからこそ、手に入れられたと私は思っている。


娘の手を握り、散歩がてら、私は時田先生との思い出の場所に向かった。


福島県会津若松市の一角に、薙刀を手に戦いに臨む女性の像があります。

彼女の名前を「中野竹子なかのたけこ」と言います。

中学校時代の時、時田先生は、私の首根っこを掴んで、中野竹子の像まで連れて行き、中野竹子の像の前で、時田先生は中野竹子の事について語ってくれ、不良少女から脱出するチャンスを与えてくれた、改心させてくれた恩人だからこそ、思い出の場所に向かったのかも知れません。


時田先生は語ってくれた・・・


中野竹子は幕末の戊辰戦争の際、会津城下に侵攻してきた新政府軍と、決死隊である、娘子隊じょうしたいの先頭に立ち、薙刀を振るって勇敢に戦い、22歳の若さで壮烈な死を遂げる。

中野竹子とは、どんな人物だったのか?

中野竹子は、1847年、会津藩の江戸常詰勘定役である父、中野平内なかのひょうないと、母、中野こう子の長女として、江戸の会津藩藩邸で生まれた。

竹子には、3歳下の弟・豊記とよのりと、後に娘子隊でともに戦う、6歳下の妹・優子まさこがいた。

父の平内は、和歌や書道への造詣が深い学者肌の侍で、母のこう子は豪胆で、男まさりの明るい母でした。

この両親の間に生まれた竹子は、幼少より聡明で、5~6歳の頃には、小倉百人一首を全て暗誦あんしょうして、一字も誤ることがなかったと言う。

7歳になり、藩邸で目付職にあった赤岡大助あかおかだいすけから手習いや剣術を習い、次第に文武の実力を身に付けていった。

成長すると竹子は、さらに師を求め、同じ会津藩士の黒河内兼規くろこうちかねのりから、薙刀術や短刀術を、佐瀬得所さのとくしょから書道を習った。

何事もまっすぐな性格の竹子は、薙刀術は免許皆伝になるまで極め、書道は祐筆ゆうひつと呼ばれる大名の奥方の秘書役を務めるまでになった。

師の赤岡大助は、竹子の前向きな性格と、その抜きんでた才能を高く評価し、竹子の父、中野平内に懇願して、竹子を赤岡家の養女に迎い入れた。

会津藩では・・・

竹子と妹の優子は、美人姉妹として評判が高く、若い藩士たちのあこがれの的だった。

竹子は負けん気の強い、男勝りの性格で、道義に反したことをとても嫌った。


こんな、エピソードがある。


ある日、竹子が庭で行水をしていると、男たちが覗きに来た。


それに気付いた竹子は・・・


(女の裸を盗み見るとは、卑怯な!)


と、すかさず薙刀で男たちを追い払った。


父の赤岡大助は、そんな竹子の激しい気性に次第に憂いを抱くようになる。


その頃、幕府は、薩摩藩、長州藩と、政治の主導権をめぐり激しく対立をする。

不穏な空気が漂う中・・・

戦争の足音が、刻一刻と近づいていった。

平和な時代であれば、たとえ男勝りであっても、竹子は一人の女性として生きられよう、しかし、戦争になれば、竹子は自ら戦場に参加するだろう。

竹子を守る為には、結婚をさせるしかない。

父の赤岡大助は、竹子の縁談を進めた。


しかし、時代の流れは激しさを増す・・・


1868年1月、会津藩、桑名藩などの旧幕府軍と、薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍が、

京都の鳥羽伏見で衝突した。

戊辰戦争の始まりだ、この戦いで敗れた旧幕府軍は次第に追い詰められ、ついに将軍・徳川慶喜は降伏してしまう、江戸城無血開城の末に新政府軍は、なおも抵抗を続ける会津藩に攻め込む準備を始めた。


そんな状況に竹子は・・・


(会津藩が存亡を迎えているのに、結婚どころではない!)


と、結婚を断り、赤岡家とも離縁し、会津に戻ってしまう。


1868年3月・・・


竹子は、生まれて初めて会津の地を踏んだ。

竹子は、かつての父、赤岡大助が会津で開いた剣術道場に身を寄せる。

結婚問題で養家を離れた竹子を、赤岡は快く迎えた。

そして、再び師の元で稽古をするようになる。

竹子は、屋敷に子供たちを集めて読み書きを教え、道場では女性たちに薙刀を教えた。

しかし、そんな日々も・・・

わずか、5か月ほどで終わる。


1868年8月23日・・・


会津藩若松城下に。新政府軍の接近を知らせる早鐘が鳴り響く、城下の藩士たちが城や戦場に駆け付ける中、女性たちも薙刀を持って集まる。

敵を前にしても女性たちは、逃げることなど考えなかった。

なぜなら、これまでの戦いで家族を失った者も多く、日頃から薙刀や剣術の稽古に、励んできた女性たちにとって、今こそ、父や夫の仇討ちの時だった。


(敵に一太刀でも浴びせたい!)


それが、誇り高き会津女性の想いだった。


竹子も薙刀を手にし、母のこう子と妹の優子と共に会津若松城に急いだ。

しかし敵の進軍が予想以上に早く、すでに城の門は閉じられていて、竹子たちは城内に入ることはできなかった。

そんな折、竹子らは同じ道場の薙刀の稽古仲間である、依田まき子、その妹の菊子、岡村すま子の3人と出会う、女性たちは、日頃の鍛錬を重ねた薙刀を活かすのは、この時とばかりと自発的に義勇軍を作った。

そこに入城できなかった女性たちが、続々と薙刀を持って集まり、その数は20名以上になった。


女性ばかりのその部隊は・・・


後に、「娘子隊じょうしたい」と呼ばれる。


竹子らは、会津藩主・松平容保まつだいらかたもりの義姉、照姫てるひめが、城下の坂下ばんげへ避難をしたと聞き、照姫を警護するべく坂下へ向かった。

しかし、それは誤報で、坂下に照姫の姿はなかった。

翌日、竹子たちは、照姫が会津若松城に居ることを知り、再び会津若松城に向かった。

その途中、城下の高久宿たかくしくに会津藩の家老・萱野権兵衛かやのごんべえがいることを知った竹子らは、萱野権兵衛に会津藩兵と共に戦うことを願いでた。


しかし萱野権兵衛は・・・


(いかに、会津藩存亡の時とはいえ、戦場に女性を送り出せば、会津藩は戦に女性まで駆り出したと他藩より、もの笑いの種にされよう、鉄砲の前に薙刀など役に立たぬ、それより城にとどまり、炊き出しや怪我人の手当てをして欲しい。)


と言った。


しかし竹子は・・・


(戦に加えて下さらないのなら、全員、この場で自決します!)


と、決死の覚悟で萱野権兵衛に迫った。


その気迫に押された萱野権兵衛は、竹子らの従軍を認めた。

この時、竹子ら娘子隊は全員髪を短く切り男装した姿であったと言われている。


古屋佐久左衛門をリーダーとした衝鋒隊しょうほうたい・古屋隊に加わることを許された娘子隊は、越後街道を城下に向かう途中、神指町大字黒川にかかる柳橋、通称・・・涙橋で新政府軍に遭遇し戦闘となる。圧倒的兵力に最新の銃を装備した新政府軍に会津藩は苦戦し死傷者が続出、竹子は娘子隊に向かって叫ぶ・・・


(皆、この地を死に場所と思い、切り込めー!)


と薙刀をふるって・・・

真っ先に敵陣に切り込んだ。


激しい乱戦の中・・・


竹子たちに気づいた新政府軍の隊長は・・・


(あれは女ぞ、討たずに生け捕れ!)


と叫んだ、敵兵が竹子たちに群がり始めた。


(生け捕られるな、恥辱を受くるな!)


竹子は叫びながら、渾身の力で群がる敵に薙刀を振るい、何人かの兵を斬り殺して善戦した。


たかが女と侮っていた敵の隊長は・・・


返り血を浴びながら・・・


猪突猛進の薙刀の竹子の姿に驚愕して、ついに兵たちに発砲を命じた。


銃声が鳴り響き、竹子は撃たれた。


(竹子!)


母のこう子と妹の優子は、泣き叫びながら竹子に駆け寄り、抱き起こして後退しようとした。


しかし竹子は苦しげに・・・


(介錯してたもれ・・・)


※ 介錯とは、切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で切る行為。


と、優子に自分の介錯を頼んだ。


しかし、母のこう子と妹の優子は、竹子を引きずり後退しようとする。


(ならぬ、介錯を・・・)


優子は泣きながら、竹子の首に刀を下した。


竹子の首が、敵の手におちることを恐れた優子は、首を着物の袖で包み、味方の兵に託して後退した。

高久宿まで後退した娘子隊は、家老の萱野権兵衛に戦況を報告したところ、会津藩将兵たちは、皆、号泣して、竹子の死を悲しんだ。


その後・・・


竹子の首は、会津坂下町の法界寺に手厚く葬られた。


享年は、22歳と言われている。


竹子は、鉄砲の前では薙刀は無力と知りながらも、死んでいった仲間たちの為、会津の為、戦わずにはいられなかった。

竹子は薙刀の柄に、次のような句を書いた短冊を付けて戦っていた。


もののふの

猛き心にくらぶれば

数にも入らぬ

我が身ながらも


「武士の数にも入らぬ女の身なれど・・・立派に戦って死にます。」


という竹子の辞世の句は、今でも先生の胸を震わせる。


時田先生は、私に言った。


(お前のエネルギー、不良なんぞに使わんと、薙刀の竹子みたいに、誇り高き会津の女性になる為に使え、そう努力するんや、そうすれば、お前の人生は満足な人生になると思うぞ。)


「誇り高き会津の女性」・・・


会津若松で生まれた女性なんだから、竹子みたいに誇り高き会津の女性を目指せと諭された私は、その後、不良少女を卒業し、普通に高校受験をし、普通に大学受験をし、普通に会社に入社をし、普通に愛する人と出会い、普通に結婚をして、普通に愛する人の子供を産み、そして、現在の普通の生活を満喫している。

時田先生が、中野竹子のお話しを語ってくれなかったら、私は現在の生活を手にすることが出来ただろうか。


私は、時田先生に感謝をしつつ、手を握って散歩している自分の娘にも、中野竹子の事を、いつか伝えようと思う。


そして・・・


「誇り高き会津の女性になれ」・・・と


そう思いながら散歩を終えて、娘の手を握って中野竹子の像を後にして、今晩の先生のお通夜に参列する準備の為に帰宅する私と娘でありました。


「終わり」










*中野竹子には、1847年生まれ説と1846年生まれ説かあります。

*出陣前にも事件があった、出陣前夜、床に就いていた、母・こう子と竹子は小声で密談をしていた。

敵の慰み者になるくらいなら、いっそ優子を・・・

母・こう子と竹子は、寝ている妹・優子を、殺そうとしていた。

その密談が、耳に届いた娘子隊メンバーである依田姉妹に説得されて、思いとどまる。

*介錯したのは、妹・優子、母・こう子の他に、江戸の赤岡大助の養女で、竹子の義妹にあたる、娘子隊メンバーの平田蝶であるという説もある。

*涙橋付近から、竹子の首を持ち帰ったのは、農兵・上野吉三郎と言われているが、東条喜太郎、小野徳兵衛などの名前が挙げられて定かではない。竹子を惜しむ人々よって、様々な憶測が流れ伝えられているんでしょうね。

・・・

それにしても、中野竹子の事を語って、1人の不良少女を更正させた、社会科教師・時田守男先生の語り、社会科教師らしい教育方針ですね。

・・・

あなたには、恩師が存在しますか?

恩師との思い出、大切になさって下さい。

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