3.2
ほとんど吐き捨てるように不条理を訴えるアギラを見れば、普段彼を理想の騎士だなんだともてはやす姫君たちが扇子の向こうで顎を落とすだろう。
ようやく丸ごと覗いた素の彼に、フローラはにんまりと唇で弧を描いた。姉様に見られたら、淑女としてあるまじきと窘められるかも。いいえ、考えすぎよ。過った考えは、頭の片隅に追いやった。
「姉様にお伝えしたの?」
「そんなこと言えるか!余計に混乱させるだけだろ!」
「自覚がおありのようで、わたくしとっても嬉しいわ」
「お前分かって言ってるな…」
「あら、何のことかしら?」
心底心外だと言いたげなフローラの様子に、今度は鋭い舌打ちまで飛んできた。いよいよ極まっている、というところだろう。
もどかしいと言いたげに、前髪を乱暴にかきまぜる。
(アギラの意気地なし、だからヘタレなのですわ)
そっと心の中で毒づく。けれど、いくらフローラが意趣返しとばかりに嫌味を飛ばしたところでセイリウスは救われない。確かにアギラは、大好きな姉様を泣かせる天敵だ。けれど、涙を払うことができるのもまたアギラだけだということを、フローラは十分すぎるほど理解していた。
「あの不愉快な話、あなたもご存じよね?」
だから、塩を送るのだ。
「セリィ姉様、泣いてらしたわ」
「っ、」
フローラは、姉様の笑顔が見たいのだから。
「ハイドランジアで異常は?」
毅然と、フローラが問うてくる。ちらりと視線を走らせ、アギラはふ、と目を伏せた。
「魔獣が、領外で目撃された」
「っ、そんな、まさか…!!」
魔獣は本来、存在するものではなかった。
七年前の双魚月、ハイドランジア領が戦火に飲まれた日に、黒い獣は姿を現した。狂暴、かつ制御不能な獣たちは、幻獣がハイドランジア領内の原因不明の何かによって変貌した姿だと、フローラは聞き及んでいた。当時は各地で報告が相次いでいたが、数年前に施された応急処置と度重なる騎士団による討伐によって魔獣による被害は減少していた。事実、この一年で魔獣が出現したのはハイドランジア領のごく近辺に留まっており、これ以上魔獣が増えることはないと言われていた、はずだった。
これ以上、要らぬ憶測を呼び起こす要素は欲しくないのに。
彼女が一人で背負い込む姿なんて、見たくないのに。
「セリィ姉様が、また…!!」
「フローラ」
悔しくて、苦しくて、フローラの目じりに涙が浮かぶ。けれど、呼ばれて交えた視線の先に、ただただ、瞠目した。
「シリウスは、強い」
凪いだ銅。覗くのは、瞳の底。
あまりに自然なそれに、フローラは思わず、息を詰めた。
そんなフローラのことを知ってか知らずか、時間だと立ち上がったアギラは、彼女の手の甲に唇を寄せる騎士の挨拶をし、足早に庭園を去っていった。
その後ろ姿を静かに見送ったフローラは、ゆっくりと時間をかけてカップを持ち上げた。目線を上げずに、入れ違うようにやってきた来訪者に言葉をぶつけた。
「お兄様、趣味が悪いと言われたことはないかしら」
「おや、この前贈った菓子はお気に召さなかったのかな?」
わざとらしく肩をすくめながら、ギルランドがフローラの正面に座った。控えていた侍女が新たに茶を入れ、静かに下がっていく。
「わたくし、許しませんわよ」
開口一番に飛んできた不穏な台詞に、ギルランドは苦笑を漏らした。
「…既に対処している。殴り込みだけは止めてくれよ、頼むから」
「勿論、今出ていった騎士は姉様のところに向かったのでしょうね?」
「夜更け前には戻ると言っていたよ」
「そう」
短く返事をしたきり、フローラは黙り込んで、視線を空へと移した。恨み節のような言葉の数々も、セイリウスのことを思えばこそだと知っている。やはり様子を見に来て正解だった、とギルランドは目を細めた。
見上げた空は、一日の終わりを告げる黄昏色に染まっている。きっと、アギラはセイリウスを探しに行っているのだろう。
「頼みますわよ、アギラ」
目を閉じれば、あの時のアギラの瞳の色を思い出す。奥底の色を、セイリウスなら正面から覗くことができるのだろうか。
「甲斐性も、想いを告げる勇気も持ち合わせない騎士には、あげない」
複雑な胸の内を抱えたまま放たれたその宣言は、ひどく脆い響きで薄闇色に溶けていった。