2.1 騎士の帰還
アギラ・エルトロンにとって、セイリウスは幼馴染であり、騎士として守るべき淑女であり、何をもってしても失い難い姫だった。
恋心なんて、とうの昔から抱いている。
見目の美しさも、誰よりも分かっている。
内に眠る気高さを、誰にも知られなければいいと思う。
―――それを人は、なんと呼ぶのだろう。
「殿下、冗談はやめてください」
「できるものならさせてもらいたいね、竜の騎士殿」
縁談。
よくある単語だ。なんならアギラにも毎日降りかかってくる厄災だ。ただこのときばかりは、アギラは本気で自分の耳を疑った。
「人違いではなく?本当に?彼女に?」
目の前の、豪奢でありながら実用的な執務机にむかう美貌の青年は、片眉をぴくりと跳ね上げた。
黄金色の髪に紫の瞳は、タレイア王国王家の者の証。
この国の第一王子であり、王太子であるギルランド・タレイアは、アギラの問いに大きくため息を吐き出した。
「紛れもなく。セイリウス・アイフェル・ハイドランジア、俺たちの幼馴染に縁談がきている」
冗談にできるならしたいわ、と少々乱雑な言葉を返せるのも、幼馴染という間柄が成せる技だ。
アギラは、代々不死鳥と契約を交わすエルトロン家の嫡男である。〈幻獣契約の大家〉と呼ばれるエルトロンにおいて、不死鳥と竜、二つの誓約を結んだ秀才。そして、タレイア騎士団のなかでも少数精鋭、《契約者》たちが所属する第二騎士隊――通称〈幻獣部隊〉の副隊長。
勇猛果敢、大胆不敵に戦場を駆け、しかし、礼節を重んじる心を忘れず。
忠節、誠実、敬愛。
国随一の戦士でありながらも、騎士としての振る舞いは理想の体現。タレイア王国の始祖が春呼ぶ女神であること、そして彼の見目の麗しさもあわさってか、〈百花の騎士〉と名高い。そんな彼も、彼女のこととなるとどうも諸々の糸が短くなる。日頃から、理想の騎士たれ、と己を律している幼馴染の皮がはげれる瞬間を、存外にギルランドは好んでいた。
「私としても、セイリウスが望まない婚姻など彼女の耳に挟む前に拒否だと思っているのだが」
相手が悪い、とギルランドが差し出したのは、優美な模様が描かれた封書。蝋の色と型に、アギラはひゅ、と知らず小さく息を飲んだ。
記されていたのは北方の大帝国。大陸で一、二を争うこの二国は霊峰に阻まれているため軍事的にぶつかりあいはほとんどない。ないわけではないが。
「シリウスのことを考えもしていないとは…」
「ああ。この時期に、正気とは思えん」
七年前、セイリウスの故郷は一度滅んだ。
―――ハイドランジア領。
建国神話にも謳われる、幻獣たちに愛された土地。霊峰リィズナの麓に広く広がる独立領。そこに住まうは、ハイドランジア一族のみ。
人の手が入ることがほとんどなく、古の魔法や自然魔力に満ちているためか、幻獣たちが営巣地としても好んでいた。実に千年以上、神代からその姿を保ち続けていた。
その歴史と同じ長さで、ハイドランジア一族は土地を愛し、守ってきた。彼らは代々、幻獣たちと会話することができたという。現在では《契約者》として幻獣と契りを交わす者も少なくないが、そのような縛りなしで幻獣と心を通わせあうことができるのは、今もって彼の一族だけである。
美しく幻想的な、幻獣たちの住処だった。
帝国の、侵略がなければ。
一族の力、土地の占有、幻獣の密猟。はたまた、そのすべてか。
土地自身のもつ、『領主一族より許可のでていない余所者は立ち入ること能わず』という防衛能力のために、その侵攻は最奥まで届くことはなかった。しかしながら、領の半分が戦火の渦に巻き込まれ、一夜にして黒と灰へと姿を変えた。青と緑にあふれていたハイドランジアは、その機能を停止した。
七年経った今もその痕跡は残るものの、植木などの成長により元の姿を取り戻しつつある。
けれど。
「彼女の心に癒えぬ傷を負わせた奴らが、どの面下げて…!」
少しでも侵略を防ごうと立ち向かったハイドランジア一族の当代領主とその細君‐‐‐セイリウスの父君と母君は、帰らぬ人となった。
一族の中で、幻獣たちに最も愛された姫―――セイリウスを一人残して。
この時救援の手を差し伸べたのがタレイア王国である。次の領主が戻り、その姿が元に戻るまで、という条件のもと、ハイドランジア領はタレイア王国の庇護下に入った。
先日、その日を迎えたばかりだった。毎年、ハイドランジア領へと花を手向けに向かうのだ。
入れ違うように第二騎士隊も彼の地へ出向き、現状を奥地まで確認する遠征も行われていた。ひと月に一度の頻度で行われており、セイリウスも可能な限り参加してきた。アギラ自身は北端の国境付近にまで赴いており、帰還が遅かったのはこのためであった。
王太子の部屋を訪れていたのは、もともと遠征の結果から見えた結論を報告するためであったのだ。
当初の見立て通り、修復には十年が必要であるだろう、という結論を。
「アギラ、その顔はやめてくれないか。話も進まない」
眉間に皺を刻んでいたアギラを諌める。
「申し訳、ありません」
「いい。君は憤って当然だよ」
帝国からの申し入れは、二つ。
ハイドランジア一族への謝罪。そして、次期領主との婚姻の打診。この時期でのことでなくとも、セイリウスを踏みにじる行為だと、分かるものを。拒否されることが前提だろうが、無視はできない。『叶うならば、幻獣の姫君にお目通り願いたい』と書かれた書状を、なかったことにはできないのだ。
だからこそ、当時を知る者として、ギルランドは彼の怒りを理解できた。
「いえ、騎士として、あるまじきことです」
しかし、騎士としてのアギラはそれを許せなかったらしい。
瞳が揺れていた。上塗りを重ねたその奥で、薄明けの赤銅が熱を帯びている。
身の内に秘めた情は大きくなるほど隠すのがうまくなる一方で、瞳は嘘をつかないという。
人はその色を何と呼ぶのか、とギルランドは苦笑を漏らした。
2021.6.24 セイリウスの名前を一部変更しました