9 Paradis
9 Paradis
神谷秀
それから、俺は会社に辞表を出した。
俺が辞めるとは、周りは思っていなかったらしい。だから、こそこそと周りで色々言われてたみたいだった。でも、どうでもよかった。これからのことで自分の頭の中はいっぱいだった。
「なんで辞めることにしたの?」
「俺も豆先輩みたいに自分ですることにしたんです」
「へ〜」
どうせ失敗するに決まっているという顔を作って皆俺を見る。でも、よく見るとその顔にはその人自身の不安のようなものが少し混じっている。自分はこのままここで、こんなことしてていいんだろうかと迷っているのだと思う。
自分の身近にいる奴が、平気な顔で新しいことに飛び込むのを見て、平常心でいられる大人は少ない。
「オープンしたら、案内送りますんで、是非来てください」
きっとこの人は、俺がラーメン屋や屋台でもやると思ってるんだろうな、冷やかしに行ってやるかとでも思ってるんだろうなと思いながら見る。
君の給料で無理せず来れたら来てくださいね。
心の中でそっとそんな悪態をついた。
***
「パラディスというお店を知っている?」
「ああ、有名なシェフがやっているお店じゃないですか?あのテレビにも出てるような」
そういうと岬さんはチラリと俺を見た。今後のことを打ち合わせるためにと、岬さんの会社に呼び出されてました。社長室。
「知っていたか」
「知っていたら悪かったですか?」
「いや、知らなかったら、衝動的に娘に君を紹介してしまったことを後悔するとこでした」
「……」
それは、つまり、岬さんは今になって、一連のことをやめときゃよかったって思ってるってことなのかな……。もちろん怖くて聞けません。
「言うまでもないことですが」
「はい」
「自分が属している業界の動向はきちんと把握しなさい」
「はい」
「話が逸れたな」
「……」
「それで、そのパラディスですが、僕も一部出資してるんです」
「え?」
「一番多く出した人は別にいるんだけどね」
岬さんはご先祖が今住んでいるところ一帯の土地を持っていた。その土地を元にした不動産業で得た利益で更に投資をして、代々財を築いてきたお家に生まれている。岬さんの先代までは、不動産に対する投資を主にしていて、ベンチャーのような小規模の企業への投資ということはしていなかったらしい。そんな代々のやり方に逆らって、岬さんは自分の会社を消極的な不動産投資会社から積極的な企業への投資も行う会社へと脱皮させた人だ。
「で、ずっと業績が思わしくなくて、赤字ではないんですがね。何か不確定要素を迎えたら確実に沈む状態なんです。出資者同士で集まって、早い段階でクローズして、出資金を回収するという方向で話がまとまったんですよ。あと3ヶ月の命です」
なんだか、しんとした気持ちになった。自分の話ではないんだけれど、ナイフをぴたりと体に押し当てられたような気になりました。
「なにせ、オーナーシェフが有名な人なんでね。僕たちも結構期待していたんだけど。それに、彼の料理はやっぱり一流だから。だけど、彼は結局、経営者ではなかったんだろうね」
「はぁ」
「いい機会だから、君、入り込んでみてきなさい」
「へ?」
レストランが潰れる。それが、いい機会?
「君もフレンチをするつもりなんだろう?パラディスは一流の高級店だ。中で働いている人たちも一流。勉強になるでしょ」
「それならもっと、うまくいっているお店の方がいいのでは?」
「そんなことはない。成功する要素のピースは揃ってるのに、失敗する。失敗は成功の母というだろう?何で失敗したのか見てきなさい」
「……見てくるって、客としてですか?」
「いや、違う」
違う?じゃあ、何だろう。野生の本能で嫌な予感がした。
「君の肩書きはこうです。僕の遠い親戚。大学を卒業してから就職した会社を気まぐれに辞めて、親が金持ちなのをいいことにずっとフリーターみたいなことをして暮らしてきた人間。30になったのにふらふらしているのを気に病んだ両親にどうにかしてくれと預けられた」
「はい?」
「それで何をやりたいんだと聞いたら、ホテルマンに憧れるというが、接客のイロハも知らないのにいきなりホテルに就職はできない。だから、とりあえずパラディスでバイトとして使ってやってくれって」
「ええっ」
「もう、終わりが決まってるでしょ?従業員にも公表したら、早速辞めたいという人が出てしまってね。新しい人なんて雇えないじゃない。もう店がなくなるのに」
「いや、どちらかというと僕の勉強のためじゃなくて、お店の都合ではないですか?」
都合よく利用できる人間が1人身近にいただけじゃ……
「まぁ、最後まで話は聞きなさいよ。変わり身の早い人はさっさといなくなる。でも、責任感の強い人はギリギリまで残ってくれる。一緒に働きながら人となりを知った後で、いいなと思えば君の店に誘ってみればいい」
「……」
「一流の人材を揃えたんだ。中も外も。でも、みんな仕事がなくなってしまうんだよ。そういう場面を君は見ておいたほうがいい」
その時の自分は箱を作るのに夢中になっていました。レストランという美しい箱を。でも、岬さんは分かっていた。難しいのは、一度作り上げて仕舞えば完成する箱ではなくて、その箱の中で動き回り変化し続ける、人だったんです。
一緒にやってくれる人をどうやって見つけるか、そして、どうやって長く一緒にやってもらえるか、それを身につけるための修行に、僕は放り出された。
そしてまた別の日に、僕は篠崎さんに引き合わされた。
初めて会った時、残念ながら篠崎さんはオフだったから普通の服を着ていて、ただのおじさんにしか見えませんでした。普通のおじさん。出会った時にはもう50を過ぎたおじさんだった。この人の凄さは黒服を着ている時にしか見えないのだけど、初対面では着ていなかったから、普通のおじさんだと思った。
「篠崎さん、これが例の」
「ああ、これが例の」
本人を思い切り無視して2人でなんかやっている。篠崎さんは仏頂面でジロジロと俺を見た。まるで物でも見るような目だったんだけど……
「いかがですか?」
「見ただけではわかりません。超能力者ではありませんから。ただ、若いですな」
「はぁ」
岬さんはその篠崎さんの言葉に苦笑した。
「神谷君、篠崎さんはね、もともとは一流ホテルのレストランでずっとフロアを仕切ってきた接客のプロなんです。パラディスの立ち上げの時にお願いして来てもらった」
「はい」
「君みたいな経験の浅い若い子には、お守りのような人が必要だと思って、お話ししてお願いしたのだけれど、あくまで君次第だとおっしゃって」
「僕次第?」
「君が協力するのに値するかどうか、値すると思えれば手伝ってもいいとおっしゃってるんだよ」
俺は岬さんのその言葉に、もう一度このどちらかと言えば小柄で、日本人としては珍しい洒落た髭を蓄えたおじさんを見た。仏頂面でアイスコーヒーをストローで飲んでいる。
なぜ、このおっさんを、俺が雇わねばならない?
さっぱりわからない。
しかも、岬さんのこの腰の低さはなんなんだろう?だって、岬さんって社長さんで、このおじさんはレストランのフロアマネージャーでしょ?潰れる店の。
「パラディスの他の人は、君がレストランを開業する予定の人間だとは知りません。篠崎さんだけ知ってるから。だから、あくまで金持ちの道楽息子が改心して頑張ってるって立ち位置で演技してくださいね。それで、困ったことがあったら、篠崎さんを頼ってください」
ちろっと篠崎さんを見る。
「よろしく…お願いします」
ぺこ、頭下げた。
「はい」
たった二言で答えられた。どっちかっていうと、嫌われてる?でも、別に出会ったばっかりで嫌われるようなことしてないと思うんだけど……
「僕としては、神谷君がパラディスで働いているうちに篠崎さんの信頼を得て、君の新しいお店に要として加わってくれればと思ってるんだけどね。こればっかりは、君次第だから」
「はぁ」
「そうそう。安月給だけど、ちゃんとバイト代は出るから。君、会社辞めたら収入ないでしょ?」
「……」
「それとも、別にバイト代なんかなくても当面は平気なくらい貯め込んでるタイプか?」
「あ、いえ、ありがとうございます。助かります」
店を持って社長になるなんて思って、結構な額の投資を受ける約束をしていて、それなのに、大して金持ってなくって、そして、本人全く無視してお守り役のようなおじさんを紹介されており、時々デートする相手は金持ちのお嬢さんで……。
そして、会社を辞めて自分は高級フレンチレストランの、アルバイトになるのか……。
飲食店でバイトなんていつぶりだろう?皿洗いとか延々とさせられるのかな?
「神谷君?」
「あ、すみません。ちょっとぼーっとしてました。いろいろありがとうございます」
頼りなさそうなやつだという言葉を書いた顔でもって、篠崎さんがじっと俺を見ていた。