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木漏れ日①  作者: 汪海妹
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8 身分不相応の幸運













   8 身分不相応の幸運












   













   神谷秀












   

 その日別れて、なんとなく今回のことをきっかけにこれからどうするかが決まった気がしていた。その答えを彼女が教えてくれるだろうと。俺の試用期間は終わり、彼女は少しは男というものがどういうものかを知っただろう。そして、自分の人生を費やすのに値する存在なのかどうかも。


 どんな答えが出るにしても、幸せになって欲しいなという気持ちが湧いていた。麗子さんは嫌な人ではなかった。きちんとした人でした。


「あの、明後日とか時間ありますか?」

「はい」


 それから一週間ほど立った後に電話が来て、呼び出された。

 もう、季節は夏になっていた。春に出会って、季節が一つ変わった。

 目まぐるしく過ぎた季節。

 俺は夢を見ていた。遠くまで羽ばたく夢を。


 電車に乗って移動する時に、この数ヶ月に起きたことを考えるともなく考える。灰色で陰鬱な毎日が、いきなり輝きだした。ダメになりそうだった自分。でも、豆先輩がいなくなってから初めて、上を向けた気がする。

 これからも、上を向こう。

 自分で自分をだめにするのはよそう。

 そう自分に思わせてくれる、素敵な時間だったなと思いながら。冷たい電車の中から、暑過ぎる夏を眺めた。


「あ、神谷さん、こっちこっち」


 麗子はニコニコと手を振ってきた。俺が前の席に座った途端に、でも、彼女は立ち上がった。


「出ますよ」

「え?」


 話をするために呼び出したんだと思ってたのに。

 そこから徒歩で移動する。大通りを曲がって路地を進み、とある店に引っ張り込まれた。


「なんですか?」


 呉服屋さんだった。落ち着いた佇まいの。


「浴衣を仕立ててもらったの」

「浴衣?」

「今日、隅田川の花火大会でしょ?」

「ああ……」


 すっかり忘れてた。


「神谷さん、花火好きなんでしょ?」

「ああ、好きです」


 お父さんから聞いたのかな?お店の窓の彼方に花火が見える景色を作りたいと話したことを。

 麗子さんに言われて店の奥へと消えた人が、立派な木箱に入れられた浴衣を出してきた。随分渋い色なんだなと思って見る。


「さ、着てみてください」

「え?着るって何を?」

「これ、神谷さんのです。多分問題ないと思うけれど、サイズが合うか心配で」

「え、麗子さんのじゃないの?」

「いいから、いいから」


 その日の麗子さんはいつもよりはしゃいでいた。会うまでに自分を支配していた沈鬱なものが徐々に揺らいでいく。店の奥に促されるままに進んで、別室でお店の人に手伝ってもらいながら浴衣を着た。いや、こんなの着たの、ガキの頃に数回じゃないの?男が浴衣なんて、女ならまだしも。

 しかも、肌に触れるこの感じ、よくわかんないけど、これ、高いんじゃないかなぁ?

 着付けてもらって鏡の前に立つ。

 物凄い違和感。


「できました?」


 麗子さんが暖簾を分けて覗き込む。


「よかった。ぴったりだった」


 そう言いながら畳敷の部屋にすいっと入ってきて、人の肩の辺りや浴衣の襟のあたりに触れながら何か確認する。


「あの、これ、もしかして隅田川に浴衣着て、行くの?」

「行くっていうか、まぁ、はい」

「あの、俺だけ浴衣ってわけじゃないよね?」


 間抜けだ。たいして似合うわけでもないのに、浴衣着て何故か洋服着ている女の人と歩いている男。


「ん?あ、いや、わたしのは家にあるから」

「そうか。じゃあ、脱ぐ」

「え?」

「脱いで、麗子さんが着たら、もう一回着るから。脱がさせて」

「だめです」

「えっ?」


 ちょっとショックで麗子さんの顔を見る。


「もうそんなに時間がない。なんで、折角きれいに着れてるのに脱ぐんですか?」

「似合わないから」


 女の人の横にいたら、道ゆく人は必ず女性の浴衣姿を見ます。横にいる男性を見る人はいない。それなら、別に構わない。


「なんで?似合ってますよ。ねぇ」

「お似合いです」


 傍にいたお店の人がそう言って頭を下げる。


「足元はこれ履いてください」


 素足に下駄はかされた。


「さ、行きますよ」


 そう言って、彼女は俺の手を取って、引っ張った。

 驚いた。でも、彼女は気づかなかった。麗子さんはそれに気づかないまま、俺を引っ張って店の外に出ると、手を離してすたすたと歩き出した。


「神谷さん、早く」

「みんなに見られるのが嫌だ」

「何を子供みたいなことを」


 麗子さんは戻ってきて、そしてまた俺の手を取った。


「時間がないんです。行きますよ」


 そして、今度は離さなかった。自分が手を離したら、また俺が立ち止まって駄々をこねるとでも思ったのだろうか。


「歩きにくい」

「裾が崩れないように気をつけてくださいよ」


 あまりに自然に手を取られた。そのことに自分はまだ呆然としていて、そして、確かに道ゆく中で時々チラチラ見られていたわけだけど、手を取られたショックのせいで、それが気にならなくなった。


 彼女の家に初めて上がった。それはマンションの最上階で、都心であるにも関わらずだだっ広い空間だった。岬さんや、岬さんの奥さんに挨拶しなければと体を固くしたけれど、家の中に人気ひとけはなかった。


「お家の人、誰もいないの?」

「もう、先に行ってしまってるんです」

「ああ、お父さんとお母さんも一緒に花火見るの?」

「ええ。みんな一緒です。神谷さん、座って待っていてくださいね」


 そして、広いリビングのソファーに座って待たされる。着慣れない浴衣着て、白くて清浄な空間にポツンと一人きりにされて、自分は一体何をやってるんだろうと思いながら、ベランダから覗く晴れた空を見ていた。

 結構待たされた後で、奥から麗子さんが出てきた。浴衣を着て、髪をあげて。


「あれ?テレビでも見て待ってたらよかったのに」

「初めてお邪魔したお宅で、そばにお家の方もいないのに勝手にテレビなんか見られません」

「あら、それは気が利きませんですみません」


 じゃあ、行きましょうかと言って、立ち上がり向こうを向く。きれいな背中だなと思う。和服は背中がいいなと。

 そして、エレベーターで下へおり、駅へ向かうのだと思っていた。でも、彼女はすぐそばの彼女が住んでいるマンションよりはもう少し古い感じのマンションへと入っていく。


「え?どこへ行くの?」

「あ、ごめんなさい。説明してなかったですね」


 彼女はこちらを振り返った。


「このマンション、うちの持ち物なんですけど」

「え……」


 何か変なこと言ったかしら、わたし?という顔で見られた。


「話してませんでしたっけ?うち、もともとはここら辺の土地を持っていて、それで、そこに賃貸マンション建てて、貸しているって……」

「ああ、そうなんだ」


 ここって、東京の真ん中……


「もしかして、お家のあるマンションも麗子さんのお家のものなの?」


 俺はさっき出てきたマンションを指さした。


「え?あ、はい」

「あ、そうなんだ」


 いや、わかってたはずだったけど、忘れてた。この人達お金持ちだった。若干ショックを受けている自分の横で訥々と麗子は説明を続ける。


「それで、このマンションの一室に花火の見える部屋があるんです。一番よく見える部屋は人に貸さないで取っといてあるの」

「え?」


 もう一度出た。わたし、何か今、変なこと言ったかしらという顔。

 ここって都内の一頭地じゃないですか。このマンションはさっきのマンションほど新しくないし、作りも簡素ですけど、でも、この場所だったら、かなりの家賃のはず。

 それを花火のためだけにずっと空室にするの?


「絶対に貸さないの?その部屋」

「う〜ん。そうねぇ。親戚とかで、その日のパーティーに参加するメンバーの一員とかだったら貸してもいいんだけど。必ずその日は使いたいから」

「パーティー?」

「ええ。毎年隅田川の花火の日は、我が家はその部屋で浴衣着て集まってパーティーするの」

「誰が来るの?そのパーティー」

「みんな?」


 みんなって、どんなみんな?家族、だよね?


「部屋に着けばすぐわかりますよ」


 エレベーターに乗って、上へと上がる。途中で色々考える。お父さんとお母さんとお姉さん達夫婦とかなのかな?それにお子さん?


「いらっしゃ〜い、もう、遅いわよ。麗子」


 ドアを開けた人は、自分と同じかもう少し上かと思う女の人。やっぱり浴衣を着ていて、顔の雰囲気が麗子さんに少し似ている。


「どうも。二番目の姉の暎子です」

「神谷です」


 お辞儀をして下駄を脱ごうとすると、


「あ、いいの。いいの。今日は。脱いじゃうと帰る時何が何だかわからなくなるから。そのままで」

「……」

「ほら、お父さん待ってるわよ。麗子」


 促されるままに奥へ入ると驚いた。たくさんの人がいた。2、30人。

 2人で部屋に入ると、あちこちで飲み物片手に談笑していた人たちが一斉にこちらを見た。中には子供も何人かいた。


「この場を借りて皆さんにご紹介します」


 不意に聞いたことのある声がして、そちらを見ると、浴衣姿の岬さんがいた。


「ずっと親の頭を悩ませていた娘の麗子がやっと婚約をしてね」


 岬さんが笑いながら俺たちの方によってきて、そして横に立った。


「お相手の神谷君です」


 場にいる人たちがおめでとうと言いながら、拍手をする。ぽかんとして、傍の麗子さんを見た。彼女は俺の影に隠れるようにして俯いていた。

 何かの手違いで、岬さんが麗子さんに聞かずに勝手に俺のことを婚約者だなんて発表してしまったのではないかとそのとき思いました。真面目にそのときそう考えた。後から冷静になって考えれば、岬さんがそんなことをするわけがない。

 それは麗子の意思だった。

 あろうことか、本人に直接に知らせる前に、周りの人に知らせて、そして、当の本人が最後に知ることになった。


 怒ったか?いや、怒りはしなかった。嫌な気分になったか?

 そうですね。咄嗟のことで、でも、きっと咄嗟のことだったからより如実に自分の本心のようなものは出たんだと思うんです。

 俺は麗子を受け入れていました。

 お金のことがあったからか?それはあったかもしれない。

 でも、誓って言えるけど、無理はしていなかった。彼女のこういうところが嫌だとか、こういうところが受け入れられないと感じたことはなくて、もし、彼女が自分を選ぶのなら、自分は受け入れる、その準備はこの数ヶ月のうちにできていた。

 それに自分でも気がついていなかった。

 彼女が自分を選ぶと思っていなかったからだと思う。

 起こるはずのないことについて一生懸命考える人はいないから。きっと。


 それから、俺はその部屋に集まっていた人たちと次から次と挨拶をして回った。お母さんとお姉さんとお姉さんのご主人と子供達、そして、近い親戚の人たち。

 目まぐるしくいろんな人と話しているうちに、遠くの方で音がする。

 花火が始まった。

 すると、皆の興味と関心は、空へと移った。

 各々、飲み物を片手にベランダへと出ていく。誰かが花火が見えにくくなるとでも思ったのか、リビングの部屋の電気を消しました。


 やっと麗子さんと話せるようになった。ベランダに出てった皆の背中を見ながら、2人でリビングのダイニングの椅子に腰掛ける。ベランダへのガラス戸越しにここからも花火の断片が見えた。


「ごめんなさい」

「え?」

「怒った?」

「なにに?」

「あなたに知らせないでみんなに紹介したこと」


 よく謝る人だな、この人はとぽつんと思う。でも、その実、本当に謝らなきゃいけないようなことをしているわけでもない。


「怖かったんです」


 何か聞き間違いをしたかと一瞬思った。


「怖かった?」

「事前に話したら、あなたがやっぱり気が変わったと断ってくるような気がして」

「そんな……。いつ断られるか、いつ断られるかと気に病んでたのは俺の方なのに」

「……」

「もともと俺たちの件はあなたに主導権があったでしょ?」


 暗くなった部屋の中で、時々もれ入ってくる様々な色の光にお互いの顔を照らしながら、見つめあった。


「あなたについて行ってもいいですか?」


 どうして麗子は俺を選んだのだろう?俺の一体何を見て俺を選んだんだろうか。自分の中に生まれた問い、なんとなく聞かないうちに、聞けなくなった問いがその時うかんだ。彼女のどこか張り詰めたような緊張した顔を見て。俺はそれを今でも抱えている。


「それはダメ」

「……」

「俺がついていくから」

「は?」

「というのは冗談で」

「もう、人が真面目に話しているのに」

「なんとなくですけど、俺は、どっちかが先頭に立って片方がそれについていくというよりは、並んで歩いて行きたいんですが」

「……」

「そういうのではいけませんか?」

「はい」

「いけないか」

 

 もっとこう、俺についてこいというのが理想の人なんだろうか。


「あ、いや、そうではなくて……。大丈夫です。そういうので」


 ふっとお互いに笑うと、暗闇の中で空気が震えた。

 

 並んで花火を見ながら、手を伸ばして麗子の肩を抱こうとして、ちょっと考えてやめておいた。肩は。その代わりに隣にあった手を取った。10代の子供のように手を繋ぎながら、2人で花火と歓声をあげている人たちの背中を眺めていた。


 神様はどうして、人に試練を与えるのだろう?

 30という年齢で、自分が不相応の幸運を手にしたから、バランスを合わせるためになんだろうか。その頃の自分はでも、何も知らなかった。ただ、幸福だった。



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