7 捨てる必要のない価値のあるもの
7 捨てる必要のない価値のあるもの
神谷秀
その次に彼女は、彼女的にいえばもう少し図々しくなったのだろうか。
富士急ハイランドに行きたいと言い出した。彼女の買い物に付き合って、カフェでお茶を飲んでいた時に。
「なんで?」
「フジヤマに乗りたいんです」
世界最高クラスの絶叫コースターだ。
「……」
「神谷さん」
「はい」
「ジェットコースターとかはだめな人ですか?」
別に乗れます。でも、あれは世界最高クラス……
「まさか。全然大丈夫ですよ」
このワンライドには大金がかかっていることを不意に思い出す。
「よかった」
本当に喜んでいた。怖くないのかな?麗子さん
「似合わない……」
思わずぽろりと漏らしてしまった。
「え?」
「あ、ごめん」
「だめですか?」
「いや、だめじゃない」
「富士急ハイランド、昔、みんなで行こうとしたことあるんです」
「うん」
「友達の彼と彼の男の子の友達とみんなで」
「うん」
「でも、行こうって決まった後に富士急ハイランドのこと詳しく調べた友達が、なんか怖いのばっかだから行きたくないって言い出して……」
「うん」
「男の子達は行きたがったんだけど、女の子は怖い、嫌だの連発で、で、最後に何も言ってなかったわたしの方をみんなが向いて、麗子はどうなのって」
彼女はカフェの椅子の背もたれに背中をもたせかけて窓の外を眺める。
「それでどうなったの?」
「怖がってる子たちの前で、わたしは行きたいっていう勇気がなかったの」
その時のことでも思い出したのか、本当に残念そうな顔でそう言った。
なんでだろう?その時、複雑な顔をしてみんなの間で困っている麗子の顔が浮かんだ。自分はお嬢だし、ジェットコースターなんか似合わないしとか考えながら。
「神谷さん、笑いすぎですよ」
「ごめんなさい。なんかウケた」
でも、確かに似合わない。麗子さんと絶叫マシン。
そして、行く日を相談して決めた後に、レンタカーを借りて朝早く出る。
だが、富士急ハイランドに着いて、自分の考えが甘かったことを思い知った。
よく知らなくって、この遊園地のこと。一番有名なフジヤマの名前しか知らなかった。
ワンライド、世界最高峰の高さに耐えようと。あのカンカン落ちる前までコースターが上がって行くときは、このワンライドにかかってる金の桁でも数えてようと……
そう、ワンライド……
「麗子さん、なんかあっちにもこっちにもジェットコースターみたいなのが見えるんですが……」
「ああ、あれは、ぐるぐる回転するの。席が前になったり後ろになったり。前に走ったり、後ろに走ったり」
「それ、もはや、宇宙飛行士の訓練だよね?」
笑われた。
「あ、あれはね。落下角度世界一」
「角度……」
「そう、こうね、こんな感じで」
一生懸命、手で落下する部分の形を作っている。
それを見ながら思う。世界一である必要なんてないと思う。そこ。日本一でいいじゃないか。なぜ、世界一を狙ったんだ。富士急ハイランド……
「どれから乗る?」
ニコニコしてる。麗子さんの顔に一欠片も恐怖の色はない。
しっかりしろ、俺。もう一度、金を頭の中で数える。そりゃ、この額の金と引き換えだ。一回で終わると思った俺は甘かったんだ。
「麗子さんの一番乗りたいものからで」
絶叫マシンに乗るときは、それに並びながらこれから乗るものを時間をかけて見る。その時に様々な想像をする。あの角度、上から見たらどんなんなの?いや、一瞬で終わるから大丈夫だろう、とか。恐怖を少しずつ少しずつ育てて、それで、落ちる直前にそれを最大にして、で、一瞬でそれが消し飛ぶ。
ああ、生きてる。助かったと思いながら、もう一度大地を踏みしめる。
助かったんだから、これから真面目に生きようとかちょこっと思って、それでさ、あとは別にそこまで怖いものとか乗らないじゃないですか。普通は。遊園地は目玉の怖いものが一個か、ま、二個あって、それをこなしてしまえば後は楽勝になるじゃないですか。
ま、ぶっちゃけ、俺、そこまで絶叫マシン、好きじゃない。
これは、自分の肝試し。試練だと思って、終わったら、試練に勝った。自分をちょっと褒めるみたいなさ。
「え〜、どれにしよう?じゃ、近いのからで」
今日の試練は何個あるんだろうか……
そして、夕方
ベンチに座り込んでしまった。隣に彼女が並んで座ってる。
「大丈夫?神谷さん」
「ちょっと疲れただけ……。寝不足だったし」
「別に無理して全部付き合うことなかったのに。わたし1人で乗ったのに」
「いや、そんなことさせるわけないでしょ?」
試練なんだから。
「帰り、運転できる?わたし運転しようか?」
「え?運転できるの?」
「あまり上手じゃないけど」
しばらくボケっと麗子さんの顔を見た後に、ハッとする。いや、これは試練だから。
「いや、そんなことさせるわけには……」
「でも、疲れて運転すると危ないよ」
「……」
「泊まってく?」
「え?」
「あそこ」
指差した方向にホテルが見えた。隣接して建てられたホテル。
「今日中に帰らなきゃだめ?」
「いや、そんなことはないけど……」
「じゃあ、行こう」
「……」
きっと麗子は何も考えてないのだと思う。何も深いことは。彼女が歩き出してしまって、後からついていく。
どうしよう?
「あの……」
「なに?」
「部屋、二つ取ります…よね?」
麗子さん、ぴたりと足を止めた。止めて立ち尽くした。
「いや、心配しないで。二つ取りますから。二つ」
でも、フロントで確認すると、
「シングルのお部屋に空きはありません」
まぁ、多分ね。遊園地の横のホテルにさ、1人で泊まる人なんてはっきり言ってほとんどいないんでしょう。
「じゃあ、何ならあるの?」
「ダブルかツインでならご用意できますが」
「じゃあ、ダブルで2部屋」
ちょっとだけ変な顔された。
「あの、ダブルは2部屋空きがございません。一部屋はツインになります」
ああ、思いがけない出費だよね。自分はしがないサラリーマンなんだけどな……
「ツイン一部屋でいいです」
急に脇から声がした。後ろで座って待っていたはずの麗子さんがいつの間にか横に来ていた。
「かしこまりました」
受付のお姉さんはそれだけ言うと、ぱっぱと手続きを進めてしまう。
「あの……」
「大丈夫です。気を遣っていただかなくても」
また、チラリと受付のお姉さんがこちらを見た気がした。これ以上この人の前で押したり引いたりしてそれを見せる気にはならなかった。鍵を受け取って、お互い黙ったままでエレベーターで上に上がる。
部屋に入るなり、彼女は暗い顔して謝った。
「ごめんなさい。いろいろ面倒臭い女で」
「……」
彼女は大きくため息をつきました。
「こんな子供じみた人間、結婚なんてやっぱり無理」
両手で口を押さえて、涙ぐんでしまいました。
「世間ずれした自分が大嫌いなの。外へ出て行くのが怖い。大人の姿なのに、中身は子供だから」
そう言って、彼女は静かに泣き出してしまい、明るい窓辺を背景に泣いている彼女を眺めながら、しばらく俺はでくの坊のように突っ立っていた。
そして、この人、きっと自分と会うのにも見えなかっただけで、勇気をたくさん出していたのかもしれないとぽつりと思った。
変わりたいと思って、回を重ねてきたんだと思うんです。
「捨てたいと思わないで欲しいんだけど」
「え?」
「今の麗子さんを」
彼女は涙を溜めた目で俺を見ました。
自分は十代ではなくて、二十代でもない。この前、三十代になった。
三十代は十代にはわからないものがわかるのだと思う。やっぱり。子供の自分というのは、大人になるときになくなるのだけれど、それは捨てる必要のない価値のあるものなのだということが。
だから、それをなくすときは、注意深く選ぶべきで、そして、捨てるべきでは決してない。大人達が自分が子供の時に繰り返して言ってきたこと、それは嘘ではない。
「折角楽しかったのに、最後に嫌な気分にならないで」
「……」
俺は窓辺に寄った。
「あ、富士山が見える〜」
夕方の空の中に富士山が見えた。
「きれいだなぁ」
俺の背中の方で麗子さんが言った。
「神谷さん、富士山は今日一日、ずっと見えてました」
「え?そうなの?」
「うん」
「……正直」
「正直?」
「富士山を見る余裕はなかったかな。今日は」
振り向くと、彼女が笑っていた。もう泣いてはいなかった。
「本当にすごかったよね。一日中けろっとしてたね。麗子さん」
「うん」
「こう、怖いとかやだとか思わないの?」
「全然」
そうか、人によってはああいうの、全然怖くないんだ。密かにショックを受けた。
「なんか、子供の頃に特殊な訓練とか受けた?」
彼女は少し空を見上げて考えた。考えるんだ、そこ。
「ない」
そして、そう答えた。
その日の夜、自分たちは何もしなかった。
ご飯を食べて、少しおしゃべりして、交代でシャワーを浴びて寝た。俺は夢の中でまでジェットコースターに乗っていて、うなされました。
次の日の帰り道、車を運転して帰りながら、この人が、最終的にどういう答えを持つのだろうとぼんやりと考えた。
わたしには結婚なんて無理と言って泣いてしまった。
俺が悪かったのではないと思う。だけど、自分が悪くなくても無理なものは無理なのかもしれない。
資金を援助してもらえないなぁと考える。
どうしよう?
やっぱり普通にコツコツとサラリーマンを続けるか?
それは、もう、できない気がした。
一度夢を見た。豆先輩といる時に、前夜祭のように夢を見ていて、そして、今回不思議な話が舞い込んできて、そして、自分は夢を見た。
あのきらめきと、自分の中に生まれた静かな炎。どこまでも消えない。そして、いつまでも消せない。自分の命が尽きるまで、きっと燃え続ける炎。
この人が俺を拒絶すれば、その夢は振り出しに戻る。
だけど、そしたらまた道を探そうと思った。遠回りになるだけ。道を探そう。