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木漏れ日①  作者: 汪海妹
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4 庭園の遠い空の花火












   4 庭園の遠い空の花火












   












   神谷秀












   

 名刺をもらってから、俺はまた、豆先輩のことを思い出していた。

 事細かに思い出した。一緒に働いていた時のこと。


「日本人の中に無意識にあるアメリカへの憧れをお店にしたいんだ」

「憧れ?」

「欧米に対する憧れを日本人は老いも若きも持っている。たまには、欧米が嫌いだって人もいるかもしれないけどさ」

「はい」

「そういうみんなの漠然としたイメージを集めて形にしたい」

「はぁ」

「日本人にとっての欧米への憧れはね、やっぱり豊かさへの憧れなんじゃないかなと思う」

「豊かさですか?」

「そう。だから、偽物はいけない」

「なんか難しそうですね」


 先輩の中にはでも、具体的なイメージがあった。もともとコーヒーが好きな人で、欧米の文化に対する憧れの強い人だったからなのだろうか。先輩は、日本人の憧れるアメリカ的なものを作り上げた。半信半疑だった俺は、少し先輩のことを見直した。


「先輩、日本の中に小さなアメリカを作り上げましたね」

「何を言ってるの、神谷君」

「はい?」

「こんな物は偽物だ。アメリカなんかであるものか」

「……」


 先輩の丸こい顔と、小さな目にかけられた黒縁メガネをじっと見る。


「えっ、だって、偽物はいけないって」

「それは、日本人から見ての偽物で、アメリカ人から見ての偽物じゃない」

「……」


 さっぱりわからない。


「僕が作りたかったのは、日本人のお客さんが来て寛げるお店だ。お客さんが寛げるのなら、それが本物のアメリカに近かろうが遠かろうがどっちでもいいんだ」

「はぁ」


 不思議と心地よくなる空間。コーヒーも、カップも、サンドイッチも、お皿も、テーブルも、その上に載せられたクロスも……。そして窓から見える風景まで……。

 全てが一つになって、それがレストランなんだと教えてくれたのは豆先輩だった。


 人を元気にさせる空間。

 香りと色彩、そして、音。それから、味。

 全ての感覚に訴えかけて、そして、癒す空間。


 俺は何か不思議なものに引っ張られるような気持ちで、岬さんに電話をかけた。

 すると電話の向こうで岬さんは金額を提示しました。


「それで、君が何をしたいかを考えて僕に持ってきなさい。期限は1ヶ月。それ以上は待たない」

「ラーメン屋とか、屋台を一軒やるような金額ではないんですね」


 岬さんが提示した額はよく知らない若者にぽんと渡すような額ではなかった。


「屋台をやってどうするの?」

「一からコツコツやれと言われるのかと」

「そんなことをしてる間に歳を取るでしょ?それにそんな端金なら、別にわざわざ僕が出す必要はない」

「……」

「何に引っかかってるの?」

「僕にそんなお金をかける価値があるのかと……」


 岬さんはそこで少し黙った。


「やめておくかい?」

「……」


 その時、また、俺の心の中に豆先輩の様子が浮かび上がった。お店の売り上げが下がって、羽根を折られた鳥のように元気を失った先輩。あのキラキラした目を見ることができなくなった。あの時、俺は一緒に傷ついた。

 夢を見ていたんだと思う。先輩の横でいつの間にか自分も。

 キラキラした虹を掴み損ねた。掴み損ねたのは先輩だけではない。

 自分も掴み損ねた。先輩は元気を失ってしまった。でも、自分は、悔しくて、そして、負けたくなかった。絶対に。あの背中。顔を合わせているとき、でも、先輩は必死で保っていた。自分は折られてはいないと。でも、背中を向けるときは、人は虚勢を張れない。

 胸が痛んだ。この胸の痛みはきっと一生忘れないと思うほどに。

 社を離れていく先輩の背中を見送るときに。その背中が俺の記憶に刻みつけられている。これでもかというほどに深く。


「やらせてください」

「うん」


 岬さんは、少し間を置いてから続けた。


「最初に言っておくけど、君のそのやりたい事というのに僕が心を動かされなかったら、チャンスはないよ」

「はい。わかってます」


 期限は1ヶ月

 

 先輩が見ていた夢に自分は感化された。そして、そこに自分の考えが加わった。

 今の日本には夢がない。

 戦後の復興の時代。大きく変わっていく日本。でも、その勢いがバブルで弾けて……。

 

 いい時代を知る人たちは、言う。

 俺たちの子供の頃には金がなかった。満足に学校にいく事もできなくて……。それに比べてお前らは恵まれてるな。なのに、どうして、大したことができないんだと。

 俺らが若い頃には……


 そんな話を一体何回、大人たちから聞いただろう?

 それなら、あなたたちは夢を見ることができない人の苦悩を知っているのかと問いたかった。勝手に苦労を知らないと、最近の若者は何かが足りないと、最初から決めつけられて、下に見られて、そして、自分たちにだって苦労はあると言葉をあげることのできない人の気持ちを、少しでも考えたことがあるのかと。


 金さえあればなんでも解決できると信じている大人たち。


 会社の中で上がる案にはいつも勢いがない。無難で小さくまとまっている。それは、誰かがやっていることを真似しているから。誰かがやって成功したことを参考に、後からついていこうとする。


 投資する余裕がないわけではない。だけれど、今の会社の経営を担う人たちには勢いがない。成功するかどうかわからないことに対して投資をする、結局、体力がない。それは年寄りだからだ。冒険をしなくても生きていける年寄りに未来を切り開く能力がない、のではない。簡単だ。未来を切り開く必要性がないんです。

 世の中の年寄りが全部そうだと言いたいわけではない。あくまでうちの会社の中での話。

 それなのに、もっとやる気や体力のある若者に舵を取らせる気はない。

 一生懸命、若者に鎖をつけて、自分たちと同じ冒険をしない年寄りになるように手懐ける。それがあの人たちの仕事なんだ。

 それじゃ、今の世の中に、新しいことをする、冒険をする人は必要ない?

 そんなことはないと思う。成熟して、そして、少しずつダメになっていく社会には、もう一度壊して新しく作る力が必要なんです。それは、若者の間にしか生まれない。


 そんなみんなが上を向けるように、戦後にあったじゃないか、上を向いて歩こうと歌った時代が。


 小さな箱に閉じ込められてしまう俺たちが、でも、本当は手足を伸ばして生きていくことができるんだと忘れず、そして上を向けるように。そんな……


 そんなレストランが作りたい。それが俺の出発点になった。

 きっちりと1ヶ月たったその日、俺は岬さんの指定した喫茶店に指定した時刻に座って待っていた。


「お待たせしたね」


 約束した時刻にきちんと岬さんはやってきた。


「今日は、お時間、どのくらいいただけますか?」

「僕はね。そんなに忙しい人ではない。価値のないことに割く時間はないけれど。君とはきちんと約束していたのだから、午後は全部空けてある」

「それじゃあ」


 岬さんが飲み物を頼む前に俺は立ち上がった。


「なに?」


 岬さんは下から俺を見上げた。


「お連れしたいところがあるんです」


 タクシーで移動した。重要な人を歩かせるわけにはいかない。

 そして、開発中のビルに連れて行った。外観はもう出来上がっていて、内装工事の段階になっている。オフィスと商業と多目的な意図で建てられたビルをエレベーターで上がっていく。予め約束をしていた不動産業者の人が待っていてくれた。ヘルメットを渡された。


「ここがなに?」

「ここに店を持ちたいんです」

「それはやっぱりレストランなの?」

「はい」

「どうしてここなの?」


 俺が選んだのは、再開発が行われているエリアで、そのビルはその再開発計画の第一波とも言えるビルだった。変化し始めたばかりの街の一角。


「既に完成された街には、いろいろなお店がもうありますし、ここだとランニングコストが抑えられるんです」

「だけど、この街がどこまで発展するかは今の段階ではわからないだろう?」

「ついでに……」


 エレベーターが目的の階に着いた。


「どこかへ行くついでに寄ろうというようなお店ではなくて……」


 俺は岬さんをエレベーターの外に促した。岬さんはまだ埃だらけのフロアーに足を踏み出しました。仕切りも何もないコンクリートのだだっ広い空間。


「僕のお店を目指してわざわざきてもらえるようなものにしたいので」

「ふむ」

「気をつけてください」


 窓ガラスもまだはまっていないフロアー。端っこによって、風景を眺める。


「東京湾が見えるんだね」

「花火が見られるんです」

「ああ……」

「ここに、庭園を作りたいんです」

「庭園?」

「空中の庭園です。入り込んだら別世界と思えるような。そして、一年に一回はその庭園の遠い空に花火が見える」


 岬さんは何も答えずに風景を眺めました。


「ここの角度で、こんなふうに。窓から覗ける風景が一つの絵だとしたら、そのずっと奥の方に花火が上がる。手前には都会の中にいるのを忘れるような庭園があって、庭園越しに花火が見える」

「花火は毎日上がらないだろう?」

「一年に一回しか見られない、限られた最高に美しい物。うちのお店からしか見られない体験できない物をここに作りたいんです」

「何のために?」

「頑張って生きていく力を取り戻させるために」


 岬さんは黙って俺を見ました。まだ見ぬ花火とその店越しの風景を眺めている俺の横顔を。


「生きていく力を与えるためではなくて?」

「人は……」

 俺にはそのとき、まだ完成していない自分の店が確かに見えていました。ありありと見えていた。その幻を見ながら言った。


「それぞれ生きていく力を持ってるんです。持って生まれてくる。人から力を奪うのは社会なんです。だから、力を与える必要なんてないし、僕にはそんな力はない。そこに、力があるということを、一人一人の人が本当はきちんと力を持っていて、そしてそれを役立てることができる。未来とか変革のための力を持っているということを、思い出させたい。結局、人から力を奪うような社会を少しでもいい物に変えるのは、普通の人たちの普通のそういう、未来に向かう力なんだと思うんです。一つ一つは小さくても、集まれば大きい。僕はそのための再生のための場所を作りたいんです」


 とても静かな気持ちになった。岬さん相手に自分の夢を語りながら。


 自分は確かに、烈しい。烈しい人間なのかもしれません。

 そのエネルギーを持て余して、時々爆発させたりしながら、人に嫌われて、でも、一部の人には守られて……。一度もその自分の烈しさを、なんだろう?いいこと、とでも言うのでしょうか。人に感謝されるような、そういうことのために使ったことがなかったんです。

 だって、自分はいいことをするために生まれてきた人間だなんて思ったことがなかったし。

 だから、自分の烈しさを、こういう形で燃やしたのは初めてだった。

 それは、とても静かだった。燃えていることを忘れてしまいそうなほどに静かな炎だったんです。ただ、自分は悟っていた。きっと、この炎は消えない。消えないし、消せない。

 

「お金を2倍、いただけませんか?」

「え?」

「足りないんです」


 ちょっとぽかんとした後に岬さんは言った。


「ラーメン屋や屋台って最初言ってたじゃない、君」

「あの時はそう言いましたけど」

「ここは、ランニングコストが安いから選んだんでしょ?」

「でも、内装にお金がかかるんです」

「内装?」

「ぱっと一歩足を踏み入れた途端に、一瞬でトランスするんです。自分が東京にいるということを一瞬で忘れてしまうくらいの特別な空間。内装にお金をかけないとできません」

「だからって、君」

「間違いなく、この日本の中で、他にどこにもないようなレストランになりますよ。わざわざ足を運んでみたくなるほどの」


 岬さんはまた俺をみた。俺は笑った。


「全く、君っていう人は」


 そして、岬さんは笑った。気持ちいい声ではははと笑った。初めてこの人が厳しい顔を崩した。


「君は何歳だっけ?」

「30になったところです」

「結婚の約束をしているような人はいる?」

「……」


 さっきまで、投資額の話をしていました。なぜ、急にこんなざっくばらんな世間話になるのか。


「いません。約束どころか、恋人がいませんが……」

「その、2倍の額は、初めて契約を結ぶ相手とはできない。リスクが高すぎる」

「……」


 断られた。運命の女神は俺に微笑まなかったか。


「うちの娘に会ってくれないか。三番目の一番下の子。二十七歳になる」

「……」


 さっきから話の方向性が見えない。いや、でも、待てよ。


「その、2倍の額は、他人には出せない。でも、娘が君を気に入れば考えてもいい」

「え?それって……」

「君が気に入りました。よくわからないが面白い男だと思う。星崎君が君にこだわる気持ちもわかった気がする」

「……」

「でも、うちの娘は手強いですよ。父親が気に入ったからって、素直に首を縦に振るような子ではない。今までもう何回もお見合いさせてきた。どれも断って二十七になった子です」

「いや、でも、それは……」


 さっきまで自分たちは、真面目にビジネスの話をしていたはずで、その是非が、どうして、そんなことで決まるのか。自分は今度は何に頑張ればいいんだ?どう考えても女性相手にねりに練った経営企画を語ったからって、勝ちを得られるわけもない。


「そんな条件、なかったですよね?」

「君が2倍なんていうからいけない」


 今から最初の提示額に戻すか?でも、俺の店のコンセプトには、それでは足りない。


「……」

「どうする?やめておくかい?」

「……会うだけ、会わせてください。うまくいく気は全然しませんが」

「なんだ。自信がないのか。さっきまであんなに自信満々に語っていたのに」

「仕事と、女性のことは別だと思いますが……」

「うん」

「それに、僕は平民の出です。もう、そこからして娘さんからしたら問題外なのではないですか?」

「平民って……」


 岬さんはしばらくその言葉に笑った後に続けた。


「うちの娘はね、そういうのには拘らないと思うよ。今までに色々、ま、うちと同じぐらいのご家庭の男と会わせてきたけどね。はっきりとは言わないのだけど、何か気に入らないみたいで……。うちのには、一生結婚したくないなんて言ってるみたいで、困ってる。姉は2人とも、すんなりと結婚したのだけれどね」


 そう言っている時の岬さんは、普通の1人のお父さんでした。

 言うことを聞かない娘さんに手を焼きながらも愛している普通のお父さんの顔をしていた。


 その日はそこまでで終わって、自分はまだもっと細かな具体的なことについての考えをまとめたものを持っていたのだけれども、そういう提示は先送りされてしまった。もう、ここからは岬さんの娘さんに気に入られるかどうかという、全く別の次元の方向に話が転がっていってしまっていた。



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