3 会社をつくるという概念
3 会社をつくるという概念
神谷秀
そんなある日、星崎さんに呼び出された。
「たまには一緒にご飯でも食べないか?神谷君と豆君にはいろいろ楽しい思いをさせてもらったから」
「そんなお世話になったのは僕のほうなのに」
「細かいことはどうでもいいからさ」
老舗のすき焼き屋さん
出かけて行って、星崎さんの名前を行って通された座敷には、もう1人初老の男性がいた。明るい日差しの差し込む座敷で、姿勢の正しいその人と見つめあった。
「初めまして」
落ち着いた声でそう言うと、上品な服装と顔立ちのその人はそっと頭を下げた。
「初めまし……て」
戸惑いながら自分は立っていたのを座って両膝ついて頭下げた。
「岬と言います」
「神谷です」
「あ、揃ったから。始めてくれる?」
星崎さんが障子を開いて廊下の奥のお店の人に声をかける。
「岬さんは僕の古い友人でね。前から時々豆君や神谷君の話をしてたら、一度会ってみたいと言われて」
「お邪魔だったかな?」
俺は岬さんを見た。目の澄んだ人だと思った。不思議なオーラのある人だった。
「いえ。まさか」
それから食事をしながらおしゃべりをする。いつもはどちらかと言えば聞き役の星崎さんがその日は一生懸命話していた。
「あ、すみません」
その星崎さんに電話がかかってきて、座敷を立って出て行ってしまった。
すき焼きとよく知らない人と俺は取り残された。
「君は……」
不意にそれまで寡黙だった岬さんが口を開く。
「烈しい人ですね」
それが俺に対して義父が放った最初の言葉だった。
「え?」
よく知らない人にそんなこといきなり言われたら誰だって戸惑うだろう。
「普段星崎君から聞いた話で思ってた。会ってみて思った通りだった」
その日、自分はただそこにいてすき焼きを食べていただけだった。なのに烈しいと言われた。
「その烈しさで、今まで失敗したことはある?」
「失敗……」
なぜだろう?その話し方も佇まいも落ち着いていたからだろうか?
俺はその時、こんこんと森の奥でわく泉に語りかけられて、そして、その泉に対して答えるような心持ちになった。とても素直な気分になったんです。
「学生時代は、周りに敵が多くて、先生や先輩や同学年の奴らや……。ぶつかったことは一回や二回じゃありません」
「そういう時は最終的にはどうなったの?」
「僕は敵は多かったですけど、味方もいて……。先生や友達、家族。必死になって間に入って守ってくれました」
「それで?」
「事なきを得てきました」
「どういうことでぶつかったんだい?」
俺は考えた。昔を振り返る。
「なんて言うんだろ?曲がったことが嫌いで。相手が間違ってると思うと、それを言わずにはいられなくて……」
「そういう自分を思い出して、今、どう思う?」
「どうって……」
よくわからなかった。
「そして、今はどうなの?会社では」
「おんなじです。敵が多い。」
「味方は?」
悲しい気分になった。学生の時、自分を必死に守ってくれた人たちのことを思い出しながら、今の味方の少なさを思ったからだろうか。
「最大の味方が東京を離れてしまって……」
そして、星崎さんとも離れてしまう。もう一緒にやることはない。
すると岬さんは唐突に難しい質問をした。
「あなたはどうなりたいの?」
「どう?」
「これからどうしていきたいの?5年後、10年後、どんな自分でいたい?」
「どうって……。どうしようもないです。選ぶことなんて自分にはできないですから。自分を殺して、騙し騙し生きていくしかない」
「豆君みたいに会社を出て自分でやろうとは思わないの?」
星崎さんと同じことを言われた。驚いて岬さんを見た。すると岬さんはそっと笑った。
「僕と星崎君はね、古い友人なんです。どこから話せばいいのかなぁ。まぁ、自己紹介をするとね。僕は金持ちなんです」
「……」
自分で自分のことを金持ちと言う人を初めて見た。ちょっと驚いた。
「大金持ちではない。でも金持ちです。生まれた時からそうだった。金持ちの家に生まれたからね。するとさ、金持ちの人間には金に頼りたい輩が寄って来るものなんだ。心底うんざりしていてね。昔から。でも、星崎君は本当に珍しい。そういう、僕の金持ちの部分ではなく、ただの人間の僕と出会った頃からもうずっと付き合ってくれている友人なんです」
「はぁ」
「その星崎君が、最近しつこく君の話をするんだ。あのままサラリーマンをやってたら神谷君はダメになってしまうって。初めてね、金持ちとしての僕に頼ろうとした。それをしたら僕が怒るってわかってるだろうに」
「……」
「ところがさ、もうここまで年取ってくるとね、人は簡単に怒らない。反対にあまりに珍しいことだから……。星崎君は大抵のことを静観できる人なのに、君のことだけはほって置けないみたいだ。長年の僕との友情をダメにしても助けたいみたいなんだ。そこまで彼に思わせる男とはどんな男なんだろうと反対に興味が湧いた。だから来たんです」
突然の話にただただ驚いて、俺は岬さんを見ていた。
「君は、自分でやってみようとは思わないの?」
「自分でやるって何をですか?」
「会社」
ぽかんとした。
「自分はでも、豆先輩みたいに何か具体的にやりたいことがあるわけではないですから」
「君はどうしていつも怒るのだろう?」
「え?」
「周りの人と揉めてしまう?だけど、同時に一部の人には守られている」
「……」
「どうして?」
「……間違っていることが多いから。この世は」
「うん」
「普通は無視できるんだろうけど、俺はどうしても負けたくないんです」
「例えば最近では、何が間違っていると思った?」
俺は豆先輩のことを思い出した。豆先輩が自分に言ったこと、レストランの使命はお客さんを元気にすること、それが忘れられないと俺は言った。
「利益をあげることは大切だと思う。先輩はそこはちゃんとできていなかったかもしれません。でも、全てが間違っていたわけじゃない。先輩にはちゃんとレストランとはどうあるべきかって考えがあったんです。先輩が去った後、会社の中にはレストランについて考えのある人はいません。みんなの頭の中にあるのはお金のことだけなんです。それは、違うと思う。それなら、別に、レストランじゃなくてもいいじゃないですか。そういう考えでやっている人たちの作ったレストランにお客さんを感動させることなんてできない」
「じゃあ、転職すればいい。もっと考えのある会社へ行けばいい」
「そんな会社、あるんですかね?どこへ行っても同じじゃないですか?」
「それなら作ればいいじゃない」
確かにその時、その岬さんが簡単に言ったその言葉に、俺は……
出会ったと言えばいいんだろうか。言葉というより概念に。会社を作るという概念に。
「君が、納得のいく会社を作ればいい。一から」
「……」
「星崎君は僕にこう言ったんです。神谷君は自分の理想と違うことを上から命令されると、反抗せずにはいられない人だと。でも、その理想には力がある」
「力?」
「周りの人を納得させ、惹きつける力がある。だから、君の理想に共感した周りの人たちに守られて生きてきたんだって」
「……」
「そして、君はいつも、自分と、自分が正しいと思える人たちのために怒ってる。正しい自分や、そして、正しい他人が正しくない人たちに組み伏せられるときに強く憤りを感じている。神谷君は一番上に立つべき人間なんだって」
何も言えませんでした。一度もそんなふうに考えたことはなかったから。
「だから、神谷君に会社を作るお金を貸してあげてください、とまではっきりは言わなかったけど、結局は星崎君は僕にそう言いたかったんだ。言わなくても伝わると思って言わなかっただけで」
「僕は……、ただの反抗的な若者です」
「じゃ、そのまま歳をとるの?」
「……」
「5年後、10年後にどうなっていたい?」
もう一度その質問に戻った。俺は真剣に考えた。
「5年後も、10年後もないです。今もそうだし、未来もそう。僕は僕が間違っていると思うことにヘラヘラと笑って屈する自分にだけはなりたくない。でも、それは会社を作ることとは関係ないでしょう?」
「そういうことは力を持っている人にしか許されないんだよ。現代で力といえば、平たくいえば金だけど。でも、もうちょっというと、金を生み出す力だ」
眉をしかめた。金が嫌いだとか、この世は金なんかじゃないと言いたいわけではなくて、ただ……、そうだな。自分が嫌でも組み伏せられるのは、まさにその金の力によってだったからなのかもしれない。嫌悪感が湧いたんです。金という言葉に。
「神谷君、会社というのはさ、小さな国を作るようなものなんだよ」
「国?」
「君の能力が低ければ村かな。でも、能力が高ければ、小さな国になる。その国の王様は君で、そして、君が作る国の中ではね。君が正しいと思うことがルールになる。もちろん、日本に存在しているのだから、日本という外部からの圧力はそれでもかかる。だけど、今、会社でサラリーマンとして働いていてかかる圧力とは全然違うと思うよ。そして、その国の中にいる人たちを君は守ることができるんだ。それが、君のしたいことではないの?」
「……」
「理念のない人たちについていくことを止めて、君が理念を作るんだ」
その時、見たことのない風景を岬さんの言葉は俺に見せた。不意に雲の上まで連れて行かれて、俺は雲の上から世界を見た。
「よく考えて僕の話に興味があれば連絡しなさい」
そう言って岬さんは俺に名刺を渡した。
「言っとくけど、僕はこの名刺を簡単に人に渡すことはない。それに君のことを信用したわけじゃない。ただ、星崎君のことは信頼しているから、彼の願いだから渡すんです。僕に連絡するにしてもしないにしても、そのことだけは踏まえてくださいよ」
その後、星崎さんが戻ってきた。長い電話から。三人でまたすき焼きを食べて、しばらくしてお開きになった。
「神谷君、じゃあね」
星崎さんはその後、岬さんと2人で僕を地下鉄の近くまで送ってくれた。そして明るい顔でじゃあねと言った。時間はまだ早くて、通りは人通りで賑わっていた。この後2人でまたどこか行くのだと思う。だから、星崎さんの意図を聞くことができなかった。
できなかったけれど、それは悪意ではなかった。好意でした。星崎さんにその時できる最大の好意だったんです。
あの顔、じゃあねと言ったあの明るい顔。いつもと変わらない。
星崎さんの温かさに、なんとも言えない気持ちになった。