2 虹を見せる
2 虹を見せる
神谷秀
うちの会社は元々は、和食居酒屋を経営する会社だった。居酒屋を中心に順調に店舗数と売り上げを増やしていた20年前ほどから居酒屋以外の分野にも手を広げ始め、それもそれなりの結果を残してきている。そして、カフェに手を出した。焼き立てのパンを売り物にするベーカリーカフェ。
試験的な出店だったのだと思う。
真面目に堅実に上から受け継いだものを守ってきた先代の社長が、歳を取って坂を下るような場面を迎えて、冒険をしたかったのだと思う。
担当として選ばれたのが、俺の先輩の豆さんでした。本名ではない。小林という普通の名前があった。でも、オフィシャルな場面以外では、豆さんと呼ばれていた。なぜって、コーヒー豆の異常に好きな人で、この人。あ、というか、コーヒーが好きな人。豆を直接齧ったりとかはしてなかったから。一応。
素敵なお店でした。一言で言うと。
コーヒーとその周辺に関しては、無茶苦茶こだわる人で。
フランスパンの焼き加減、皿とカップとカトラリーのきらめき、コーヒーの香りを嗅ぎながら、何を食べようかとショーケースをのぞく。
「その時にわくわくしなければならない」
「はい」
「食べ物が美しく美味しそうにどっさりと並べられている。コーヒーのいい香りがする。その時に必ずわくわくしなければならない」
「はい」
「神谷君は虹が好き?」
「はい?」
変な人だった。豆先輩。会議とかでは静かだけど、心を許した相手にはとても変な人だった。言われて考えた。俺は虹が好きだろうか?
「たぶん」
「虹を見てうわぁって思うようなきらめきを与えるように努力するんだ」
「はぁ」
「毎日」
「……」
この人が先輩だからといって、このまま大人しく指導の一環として、この不思議な話を聞いていてはいけない気が、ふとしました。
「あの、毎日、そう思わせるのは難しいのでは?」
このカフェが気に入ったから毎朝、朝食はここで取ろうと思ったとする。でも、毎日通うと新鮮味にかける。虹を見た時みたいに、普通の大人が毎日わくわくするなんて……。ありえない。すると、豆先輩は目をキラキラさせた。
「よくそこに気がついたね。そうなんだ。とても難しい」
「はぁ」
「でも、目指すのはそこなんだ。人間はね、実現の難しいものを目標に掲げるべきなんだよ。神谷君」
「はぁ」
「レストランが目指すのはさ、来たお客さんを元気にすることなんだよ」
「え?」
「食べるということで人は元気になるでしょ?美味しそう。何食べようって思ってワクワクして、食べて美味しいって幸せな気分になって帰ってもらう」
「……」
この人が言っていることがよくわからなかった。ただ、事細かく注文をつけて決められていった物が最終的にお店という形になった時、そのディテイルの意味が繋がった気がした。タイルの色、ガラスのショーケースの丸み、観葉植物の位置。どうして薄いハムが幾重にも重なってパンに入り込まなくてはならなかったのか。バターがどうして、あれではなくてこれでなくてはならないのか。
客足がそこまで悪かったわけではない。ただ、利益率が悪かったんです。豆先輩は理想の店を作ることには拘ったけれど、数字から物を考えられない人だった。売値をあげるか、原価を下げる。シンプルな選択を迫られ、原価を下げることにあくまで先輩は抵抗し、売値が上げられた。
一気に売り上げに影響した。
上は分かってたと思う。わざとやった。数字を落とさせて、先輩に責任を取らせたかったんです。大人しく言うことを聞くようにさせたかったか、或いは、担当から外したかったんだろう。
先輩は会社を辞めてしまった。
自分で理想のカフェを開くと言って、地元に帰って行った。
そして、自分はその二つあったゴミの片割れのように見られている。
カフェ部門は会社の中で一番利益率の低い部門。
先輩が去ってから様々な部分にメスが入れられ、少しずつ目処は立ってきたが、いまだにお荷物だと思われている。店も、自分も。
会社のやり方が間違ってるとは思わない。
だけれど、豆先輩のあの言葉が忘れられない。
レストランが目指すのはさ、来たお客さんを元気にすることなんだよ。
確かに数字はあげられなかったけど、でも、先輩が言ったあの言葉まで間違っているとは思えなかった。なんのために自分たちはレストランを開くのか、その答えをしっかりと先輩は持っていた。そして、会社の別の人間は持っていなかった。
いや、持ってるかもしれない。そう。利益、金だ。
会社の多くの人たちにとって、レストランを開くことは、金のためだった。
そこで、俺は聞きたい。なら、金を得るための手段はレストランでなくてもいいだろうと。もっと手っ取り早いやり方があるだろ?なんでレストランなのか。
その答えが出せない人たちに、虹を見せることはできない。
お客さんに虹を出して見せることはできない。
自分に何かこうありたいとかああなりたいとか具体的な夢があったんだろうか?最近になって時々そう思う。結論から言うと、自分には夢があったわけではない。
俺にあったのは、間違っている人と正しい人。そして、自分は間違っている人には負けたくなかった。そう、夢があったわけではない。負けたくなかった。そして、自分が正しいと思う人には負けてほしくなかった。
星崎さんや豆先輩。
でも、豆先輩は弱かった。星崎さんは負けたわけじゃないけど、でも、うちの会社に対して勝ったとも言えない。もやもやしたものがあった。