9・夢を見ることと幻を見ることの違いは時に死にそうになるかならないか
「き、きれいだ……」
正直、夜に仄光る森の美しさとは次元が異なる。
俺の心の囚われ方が、まるで異なる。
エルフの美しさは、俺とあの子が同じ生き物だってことが冗談みたいに超越している。
「え、こっちに、来いって……?」
彼女は小首をかしげ、何かを問いかけるような表情で俺を手招きしている。
(あなたのことを、待っていた)
頭の中に、声が忍び込んでくる。
(ずっとずっと待っていたんです、コーヘイさんのこと)
切ない吐息に似た声が、まるで脳味噌を撫でまわすように響く。
「俺を、待っていた……?」
口にした途端、それは真実になる。
そうだ、俺もまた、彼女を待っていたのだ。
何の根拠もなく、確信する。
忘れていた記憶に殴られるような衝撃が、胸に走る。
彼女の視線に、絡めとられて、
俺の脚は一歩、また一歩と引き寄せられていく。
「あ、れ……?」
エルフがいた茂みは、とっくに追い越したはずなのに。
俺と彼女の距離は、届きそうで届かない。
近づいた分だけ、遠ざかっていく。
(どうしたの。はやく、きて)
エルフは、今にも泣き出しそうなうるんだ眼差しで俺を見つめる。
「確かに、近づいているはず、なのに……待ってくれ、もうすぐ届くからっ……」
腕を伸ばす。なぜだ。今この瞬間届きそうだった白い肌が、また闇の中に溶けていく。
「コーヘイ!!! 止まれ!!!!!!」
突然の大声に、俺の身体はぴたりと硬直した。
「一歩も動くな! 棘の大樹に激突するぞ!!」
まばたきして、正面を見る。
「うわ、わわわわわぁぁぁぁぁぁ」
俺の視界が、目の前の大樹で埋まる。
その樹皮の一枚一枚は逆鱗のようにそそり立ち、赤銅色の無数の棘に覆われていた。
磔の掌と足の甲を貫く釘のごとき棘。
あと一歩、前に進んだならば。
棘に穿たれ、全身から血を吹き出す己の姿を想像し、背筋が凍る。
「あ、あれ? エルフの、女の子は……?」
彼女はこのトゲトゲの餌食になってしまったのか。
「……どういう幻を見ていたのか、たやすく想像がつくな」
背後から、わざとらしいナツメの溜息。
「限りなく裸体に近いエルフに手招きでもされたのだろうよ、コーヘイ」
「いや、ナツメが想定しているほど裸体に近くはないっ」
そこはきちんと主張しておきたい。ナツメの想像がどんなものか分からないが、主張しておきたい。
「だましの森のだまし方が分かったか?」
「だまされていたなんて……あれが幻覚だったなんて……信じたくないっ」
「……重症だな」
「……俺はこれから何を信じて進めばいいんだ」
「……私を、信じろよ」
「え?」
「だいたいなあ、私というものがそばにいて、エルフに目移りするとはどういうつもりだ! 無礼者!!」
あれ、怒るとこ、そこ?
「……だましの森はまだまだ続くぞ。気を確かに持てよ」
「お、おう。あのさあ、ナツメは幻覚を見なかったの?」
「見たよ」
「およ、どんな? 悪役令嬢に転生してイケメンに成長した幼なじみのナントカ伯爵に再会する幻覚とか?」
「私が見ていたのは、コーヘイ、お前の幻だ」
「え、俺の!?」
思わず振り返りそうになる身体を、寸でのところでとめる。
だましの森を抜けるためには、振り返ってはならない。道も、過去も、振り返ってはならない、のだった。
「お、俺の、どんな幻を見たんだよ」
声が上ずる。女子に幻を見られるなんて、ちょっとときめく。
「私が見たのは、コーヘイの、後ろ姿の幻だ。エルフの女にふらふらすることなく、着実に進む、幻だ」
厳しい声に、ふくらんだ気持ちがしゅるしゅるしぼんだ。
「だましの森でどうしてこんなにしっかりした足取りなのかと、ふと疑問に思ったら……案の定、棘の大樹に向かって突き進む、ホンモノのコーヘイが視界の端に入ってな」
「あ、さいでしたか……」
「街に戻ったら私に、揚げたイモをおごるように。そうだな、今話題のサンショウウオフレーバーがいい。プレミアがついて多少割高だが、命の恩人におごるには、安いもんだろう」
サンショウウオフレーバーってどんな味だろうか。
「いや、この際ハモウナギフレーバーをリクエストしよう。あれは高価なだけあって、まさに美味なるイモだからな」
ハモウナギフレーバーとやらは、サンショウウオよりは食べてみたい。
おごるんじゃなくて、おごられる側ならば。
「おっとコーヘイ、そっちじゃないぞ。気をつけろ。この森は、細かい分岐が続く。左に進め」
「え、でも真実の光は右を示しているけど」
叢に半ば覆われ、しかし確かに二股に分かれた道に俺たちは差し掛かっていた。
「コーヘイ。私を信じろと、言ったばかりだろ」
心なしか、ナツメの声が憂いを帯びている。
「……私が、亜人だからか」
「え?」
「やはりお前にも、亜人の言うことは信じられない……そんな思いが、心の奥底にあるのだろう。いや、コーヘイを責める気持ちはないよ。仕方のないことだ」
「ナツメ、俺はそんなつもりは一切ないよ。きみがヒトだろうと、亜人だろうと、猫ちゃんだろうと関係ない。ナツメは俺の相棒なんだろ?」
「コーヘイは優しいな。その言葉でもう十分だ。私の言った道のことは忘れてくれ」
分かれ道。
ナツメが促す左の道。
ペンが示す右の道。
選んだ先に何が待ち受けるのかは、皆目見当がつかない。
月の光は再び、幾層にも重なった雲に阻まれた。目が夜に慣れ、ペンの光があるとはいえ、数歩先はもう漆黒の闇の中なのだ。
…………。
どちらを、行く?